東京湾で唯一
自然と触れあえる島
★総合案内 ★アクセス ★駐車場 ★野島の歴史・見所


QRコード

野島公園
伊藤博文公金沢別邸

野島伊藤博文金沢別邸全景

(復元なった伊藤博文公別邸)                 

伊藤博文邸受付
いらっしゃいませ
どうぞごゆっくりとご見学下さい


開館時間 9:30〜16:30
   (7・8月は9:30〜17:30)

      休館日  毎月第1・第3月曜日[休日の場合はその翌日]
     年始年末[12月29日〜1月3日]
入館料  無料
お問い合わせ お申し込み
     旧伊藤博文別邸  TEL045−788−1919
     野島公園事務所  TEL045−781−8146





・ 催 し も の ご 案 内 ・


博 文 邸 喫 茶
博文邸喫茶 和菓子と抹茶      干菓子と抹茶
500円          300円
美しい海と伊藤邸の庭を見ながらのお茶も風情のあるものですよ


芸  能 その他

★正月装飾展示★ーーーーー1月4日〜12日
★和菓子講座 ★ーーーーー2月18日10:00〜12:00(水)
  講師:丹野耕太(和菓子金沢さかくら店主)
  定員:15名
  参加費:1500円
  申込み:1月4日より申込受付
 詳しくは別邸へお問い合わせ下さい。     





野島公園伊藤博文別邸
復元前の伊藤博文公金沢別邸
 野島公園の旧伊藤博文公金沢別邸は、明治31年(1898)年に伊藤博文公(天保12年「1841」〜明治42年「1909」)により建築された茅葺屋根の田舎家風意匠をもつ海浜別荘建築です。
 本邸は明治22年(1889)2月11日の大日本帝国憲法(明治憲法)発布後の建築です。伊藤公が井上毅(こわし)等と明治憲法の起草作業を行った場所は、金沢洲崎の割烹旅館「東屋」夏島別荘(現横須賀市夏島。明治20年から同22年まで夏島に建っていた伊藤公の別荘)とされており、本邸と明治憲法起草とは直接的な関連はありません。しかし、伊藤公は赤坂仮皇居御会食所(明治憲法草案審議会場)下賜に際して金沢別邸への移築を検討していることなどからも、伊藤公にとって野島は憲法起草ゆかりの地として特別の意味をもつ場所であったことが伺えます。
 
 建築後の明治33年(1899)は東宮(皇太子)の行啓、同41年(1907)は韓国皇太子が来訪されており、伊藤公没後も大正5年(1916)の天皇行幸を筆頭に、その後も継続して皇族が来訪しており、明治憲法ゆかりの地として建築された伊藤博文公別邸として、建物の歴史上の価値をよく物語っています。
本邸は伊藤公没後も伊藤家が所有しておりましたが、昭和17年(1942)株式会社日産に売却され、昭和23年(1948)から日産火災健康保険組合保養所として使用され、昭和34年(1959)横浜市の所有となり現在に至っています。
 建物は現在、客間棟、居間棟、台所棟の3棟が現存していますが、創建当初はこの3棟のほか、玄関棟、湯殿棟の計5棟で構成されていました。現在5棟構成は失われていますが、客間棟、居間棟などの主要部分は大きな改変もなく、明治期別邸建築の様相を極めてよく伝えております。
 明治期、東京近郊の海浜別荘として注目された金沢は、その後湘南への交通が整備されるに従い、大磯、葉山などへその位置を譲り、別荘地としての役割を失います。本邸は明治期、金沢が東京近郊の別荘地であったことを物語っており、明治期の東京近傍の海浜地区に多く建築された別邸建築として、 現存するものが少ないなか、その様相を現在に伝える貴重な遺稿であり、高い文化的価値を有する建物です。 (横浜市の旧伊藤博文金沢別邸見学会資料より ) 野島案内図
野島公園案内図



右は野島公園の案内図です。図中をクリックすると図は拡大されます。さらに出てきた図の右下のマークをクリックするともう一段拡大することができます。





1.明治憲法と伊藤博文

明治9年9月、明治天皇が憲法の草案を元老院議長に命じたことから制定への歩みがはじまった。明治15年(1882)に伊藤博文らは欧州に派遣され、約一年半かけて各国の憲法を調査してきた。こうして本格的に憲法の起草がはじまり、明治20年(1887)6月からは夏島に建てられた伊藤博文の別荘と金沢の旅館「東屋」を舞台に憲法審議が進められた。そして大日本帝国憲法の原型である「夏島憲法」が脱稿されたのは明治21(1888)四月初旬で、その後枢密院(すうみついん)での審議を経て、翌年二月11日に大日本帝国憲法は発布された。 伊藤博文夏島邸
伊藤博文と夏島邸
 

1)憲法草案をまとめた夏島別邸

 憲法の草案が作られていたころ、国内では自由民権運動が高まっていた。また、民権運動家は政府が作る憲法草案に強い関心をもっていた。このような喧噪(けんそう)を避けて、伊藤は陸軍の砲台用地で無人島だった夏島と、横浜から蒸気船で1時間あまりの距離にある金沢の地を憲法審議の地として選んだ。 伊藤のほかに憲法草案にあたったのは金子堅太郎(福岡県出身)、 伊東巳代治(長崎県出身)、井上毅(熊本県出身)らの政府要人であった。彼らは憲法草案という大きな責務の中でも夏島や金沢での生活を結構楽しんでいたようである。  夏島の別荘が完成したとき、伊藤は妻(梅子ーー1866年結婚、1925(大正14年没)元芸者お梅)に次のように手紙を送っている。

伊藤梅子
伊藤梅子

 「日よりよき時には、後ろの山廻り、海岸の貝ひろひ等にて、余程おもしろく日を送り申し候。さかなは近処の網引きなどに頼み候へば、随分沢山に取り来り候。是も亦、余程おもしろく候。近日のうち、天気のよき時に二、三日の滞留にてお越しはいかが。 お越しなれば横浜より小蒸気船一時間余りについ来られ申し候。」


 草案作成に入る前の手紙であるが、この地を愛した伊藤の姿が目に浮かぶ。一方、伊東己代治の回顧録には井上と金子と三人で毎日のように船を漕ぎ出したり、水泳をしたりとある。彼らは温暖な金沢の海に故郷の海を感じていたのかもしれない。もっとも、伊藤博文は大の芸者好きであったといわれ、 この夏島まで芸者を呼んで、四人でドンチャン騒ぎをしたり、 喧嘩で大騒ぎををしながら、憲法原案をつくりあげたともいう。 明治になってまだ日の浅いこの日本の創成期に、そのエネルギーのすさまじかったことがよくわかる。


伊藤博文は明治17年ヨーロッパから帰還してすぐ、当時周囲約4.1kの無人島であった夏島の南側の平地を借り、そこに別荘を建てた。 その後明治25年、夏島に東京湾要塞としての陸軍の砲台が設置されたため、別邸は伊藤家の父、伊藤重蔵の老後の居宅として小田原城近くに移設された。 のち、この由緒ある建物は他人の手に渡ったが、関東大震災で焼失した。残念ながら、夏島別邸の現存する詳細写真は、私の知る限り存在しない。 

2)憲法草案を助けた金沢ーーーーー東屋

平潟湾と旅館東屋
平潟湾と旅館東屋
東屋旅館外観
東屋旅館外観

 京浜急行の金沢八景駅を降りて国道16号に出る。信号を渡って左に折れ、少し行くと昔風たたずまいの門にぶつかるが、そこが千代本で、一度火災にあったが江戸時代から今も残る老舗旅館である。会社の同窓会などで利用することがあるが、部屋から眺める平潟湾の眺望は、昔とかなり変わったがまだその名残りを味わうことができる。 そこを過ぎて右の旧16号線を行くと、すぐに瀬戸橋にぶつかる。その橋から2,30メートルいったところの左側に旅館東屋があった。今は高いビルが建っている。実は東屋は以前は千代本と並んで瀬戸橋の手前にあったが、安政年間(1858年)の瀬戸の大火により瀬戸橋の先へ移った。そこから100メートルほどいったT字路の角に金子堅太郎の筆による「憲法草創の處」いう碑が建っている。

旅館東屋の跡地
現在の平潟湾と左の千代本
 この東屋には伊東己代治と金子堅太郎が泊まっていた。そして井上毅は野島館に逗留してそこから歩いて、伊藤博文は夏島から船でこの東屋に集まって四人で明治憲法の審議を始めた。当時この東屋は金沢では最も名高い料理店で、活魚料理が美味しく、部屋から眺める洲崎の清嵐は素晴らしく、金沢に行けば必ず東屋に投宿せよといわれるほど人気があった。伊藤博文はこのような雰囲気の場所が大好きであったのである。 この東屋の創業年は詳らかではない。千代本と同じ江戸時代からあったが、この由緒ある旅館は昭和30年に廃業した。また、井上毅が逗留していた野島館は野島山の東側にあった。今の青少年研修センターと稲荷神社の中間あたりにあって、かなり広い 敷地を持ち、多くの女中さんを抱えた料亭で、泥亀の牡丹見や潮干狩りの客で賑わっていたという。この料亭も明治35年ころ火災に合い、その営業を閉じたと伝えられる。
 明治20年(1887)8月6日、まだ憲法草案の原稿作成がはじまってまもなくの頃、東屋の伊東己代治の部屋に泥棒が入り、行李の中にあった機密書類の入ったカバンが盗まれるという事件が発生した。幸いなことに翌日、カバンは屋敷のなかの大豆畑で発見され、100円ほどの現金が盗まれただけで草案は無事であったが、このあとの安全を考えみな夏島に移り、そこで草案審議を続けた。
 

3)伊藤博文の野島別邸

夏島には「夏島憲法記念碑」という、伊東己代治の書によるもうひとつの憲法記念碑がある。

大正末期の伊藤博文別邸
大正末期の伊藤博文別邸
 伊藤博文はこの金沢をこよなく愛していた。
 草案脱稿後も伊藤博文は折りをみて金沢を訪れていくつもの漢詩を残すとともに、称名寺や金沢文庫の復興を願い、具体的に尽力している。 明治のはじめ頃の日本はまだ外国との間では法律的にも不平等の状態にあり、日本文化を内外に知らしめるため、鹿鳴館に代表されるような様々な行事が催された。 そのひとつが明治天皇臨席で行われた「観菊会」で、赤坂御苑に急きょ設けられた仮立食所に外国の多くの人々が招待された。 この仮立食所は明治憲法草案審議会会場としても使われていたが、憲法発布後は「観菊会」も新宿御苑へ移す話がもちあがり、 伊藤博文はこの仮立食所を金沢野島へ移設することを考えた。具体的にも伊藤博文別邸敷地内にこの仮立食所を移設する計画図はできていたようだが、 実際には移設されなかったようである。 しかし、伊藤博文がいかに野島地域に深くかかわっていたかを知ることができる。上の写真は大正時代のものですが、今とほとんど変わらない。
(富岡の別荘)
 一方世間ではあまり知られていないが、伊藤博文は明治15年3月にヨーロッパへ渡航しているが、それに先立ち、 明治14年に金沢区富岡の野本作左右衛門という人の屋敷を借り、ここで何人かの人と憲法の素案を練り上げたいう歴史的事実がある。 富岡も当時は多くの人が集まる観光地として発展しつつあり、帰欧後政務の多忙をこなした博文は、当時の不穏な情勢を察して明治20年、 新たに閑静な夏島に移り、ここで本格的に憲法草案に着手したのである。
(秘話----憲法起草は野島で)
前段でも若干説明した、井上毅が宿泊していたという野島の料理屋「野島館」は歴史の表舞台には全く登場しない。野島館は火災後東京に住む中澤という人の別荘に替わって 「不楼閣」という名になったというが、地元の人はみな野島館と呼んでいたという。この野島館が賑わっていた ころに次のようなわらべ唄があった。「野島館の御宴は賑やかな御宴、奥の間ぢゃ三味線中の間ぢゃ踊り、お台所まで笛太鼓笛太鼓」とその隆盛はすさまじかったといえる(野嶌の故事) より。 一方、野島の真ん中に染王寺(ぜんのうじ)という真言宗のお寺がある。ここの住職が代々引き継がれてきた話として、ここに昔ドイツ人が泊まっていたという。また、野島館 が火災に遭ったとき、多くの貴重品がこの染王寺に避難したという。
夏島から野島
明治45年頃 夏島から野島を見る
(加藤和宏氏コレクションから)
伊藤博文は明治16年に井上毅に憲法草案の起案を命じた。井上毅は政府の法律顧問であったドイツ人ロエスラーの意見を取り入れ、明治20年5月に憲法草案を書き上げ、 その翌月の6月から東屋と夏島で本格的な起草が始まった。これらのことから、染王寺に宿泊していたのはドイツ人ロエスラーであったろうと容易に類推できる。また、井上 毅は本格的な起草論議が始まってからも野島から通っていたという記録から、ロエスラーはその後もかなり長く野島にとどまっていたと考えられる。 野島は距離的には東屋と夏島の中間にあり、夏島から野島までは大潮の時には歩いても渡れたという。伊藤博文公は遊ぶことが大好きであった。公式には夏島かもしれないが、このいと面白い野島館で ロエスラーを交えて憲法論議に花を咲かせた、ということは容易に想像できることである。ただ、伊藤公が別邸完成前に野島に来たという記録は発見されていない。染王寺にあった 野島館やロエスラーのことを記したものは、残念ながら、この戦争で消失したとのことである。ただ、金沢区役所が発行した「私の語る金沢」の中で、「野島には昔、伊藤博文の 別荘がありました。伊藤博文は干潮になると、野島から夏島まで歩いて渡って、そこで明治憲法の草案をつくり、夜にはまた野島に帰って草庵作りを続けたそうです。」という野島の古老の話がある。

2.伊藤博文公別邸その後の移り変わり

1)別邸所有者と改築の歴史


伊藤博文別邸の見取り図
伊藤博文別邸の見取り図


明治31年(1898)

所有者:伊藤博文

大正 8年(1920)

所有者:伊藤文吉

建物は建築当時のままで、明治42年頃まで皇室関係者の来訪が続く。

昭和17年(1942)

所有者:鞄産,日産火災,日産火災健保組合

玄関、居間、台所、湯殿など改修、保養施設として利用

昭和34年(1959)

所有者:横浜市

野島公園計画のため横浜市が買収

昭和37年(1962)

所有者:横浜市

玄関棟、湯殿棟撤去 その後補修を重ねながら現在にいたる

  



2)平成18年末の伊藤博文公別邸の姿

伊藤博文別邸-居間棟
伊藤博文別邸-居間棟
伊藤博文別邸-客間棟
伊藤博文別邸-客間棟
伊藤博文別邸-玄関
伊藤博文別邸-玄関

伊藤博文別邸-床下
伊藤博文別邸-床下
伊藤博文別邸-中庭
伊藤博文別邸-中庭
>伊藤博文別邸-居間棟ー東から
伊藤博文別邸-客間棟ー東から

3)横浜市の保存計画

・解体保管工事  :平成18年12月〜平成19年3月
・復元・外構工事 :平成19年9月〜 平成21年3月
・公 開(予定) :平成21年4月
・工事発注担当  :横浜市環境創造局 環境整備部 緑事業課
          TEL045−671−2653 

3.本ページ作成に利用した参考文献

「かなざわの歴史」横浜市金沢区政五十周年記念事業実行委員会 神奈川新聞社出版
「翔べ金沢」   横浜市金沢区・市政100周年区政四十周年記念事業実行委員会
         大日本印刷
「鏑木清方(かぶらぎきよかた)と金沢八景」 八柳サエ著 横浜美術学芸部編集
          株式会社有隣堂発行
「明治時代館」  柳町敬直発行  小学館  日本写真印刷
「野嶌之故事」  木村栄太郎   自作本
 そ の 他   伊藤博文公別邸に関する横浜市発行の資料各種
         平凡社百科事典
         協  力:金沢図書館

4.横浜市では古い伊藤博文公別邸の写真をさがしています

心当たりの方は下記市役所担当課までご連絡ください。
横浜市環境創造局



5.伊藤博文公別邸復元工事の詳細決まる

1)建物の復元計画図


伊藤博文別邸復元配置図 
伊藤博文別邸復元図

・解体当時は客間棟、居間棟、台所棟の内の調理室、そして南側の仮玄関の部分しかなかったが、 この度は明治時代の創建当時のままに復元される。
・その主なものは、正規の玄関を含む台所棟全体、湯殿、厨房棟全体などがある。
・屋根は茅葺きで、中で飲食できるすべての設備をととのえている。

2)建物周辺の整備


伊藤博文別邸周辺整備図

・台所棟の玄関から海岸まで石畳や灯籠を配置し、昔、船で訪れた雅な人々が提灯を灯しながらここまで歩いてきた ときの風情を醸し出す。
・南側一帯は庭で、ボタン園となっている。小さな池が点在し、その池の周りには沢山のボタンが咲き、 橋と小道が訪れた人の郷愁を誘う。
・東側の松の木と海岸線の雰囲気はそのまま残す。昔は海岸線は護岸ではなく砂浜であったと思われる。

3)野島公園伊藤博文金沢別邸復元工事計画


伊藤博文別邸復元工事日程
・工期:平成20年6月25日〜平成21年9月30日
・作業日:月曜〜土曜日(日曜日、祝日は原則現場作業は無しとします。
・作業時間:8:00〜17;00(作業状況により、延長する場合がある。
・工事発注者:
(発注担当局) 環境創造局 環境整備部 緑事業課
  TEL 045-671-2652
(工事担当局) 横浜市まちづくり調整局 公共建築部 施設整備課
TEL 045-671-2963
・設計監理者:
株式会社  建 文   TEL 03-3365-0771
・施 工 者:
馬淵建設株式会社   TEL 045-712-1226
・建物建設費用:約3億5千万円

工事開始に伴い資機材の搬出入で夕照橋から現場、現場から乙艫町内会館までの道路を使用します。近隣皆様の安全を十分配慮 して工事を進めまので、ご理解ご協力のほどよろしくお願いします。

4)野島公園伊藤博文金沢別邸の管理


・完成後は「横浜市緑の協会」に管理が任せられる。
・別邸の中には伊藤博文公や別邸に関する資料が展示される。
・別邸は一般に無料開放される予定です。
・お茶、お花その他の会席に使用することができる。



6.伊藤博文公別邸の復元までの足取り


BLUEDOTワンセグ ポータブルデジタルテレビ BTV-400K レッド

BLUEDOTワンセグ ポータブルデジタルテ…

¥23,835(税込)

発売された途端、一気に市場から在庫がふっ飛んだこのワンセグTV。超スリムなのにワンセグ放送がしっかり見れちゃう…

BLUEDOTワンセグ ポータブルデジタルテレビ BTV-400K レッドBLUEDOTワンセグ ポータブルデジタルテレビ BTV-400K レッドをカートに入れる

1)伊藤博文公別邸の基礎工事

床下に土間の部分を造ったり、柱の受けに玉石を使ったり、伊藤博文邸の当初の構造をできるだけ取り入れた基礎構造となっている。 現在の建築基準法に背かず、かつ明治の建築技法も残すという構造上の苦心が随所に見られる。

施工:馬淵建設株式会社

金沢伊藤博文別邸基礎
客間部分の基礎
金沢伊藤博文別邸基礎
居間部分の基礎
金沢伊藤博文別邸撤去跡
跡形もなく撤去された跡地-H20.8.26

伊藤博文別邸基礎
消火用防火水槽基礎工事中
伊藤博文別邸基礎
台所棟の基礎(北側玄関部分)
伊藤博文別邸基礎
台所棟の基礎(奥は調理場)

(記録-H20.12.10)

2)伊藤博文公別邸復元工事中間見学会

平成21年1月10日、横浜市の主催で伊藤博文公別邸の建て方工事の中間における一般見学会が催された。
申し込みにより約200名の見学者があり、釘を使わない柱の各種継ぎ工法の説明や、使用大工道具の展示などあり、100年前の伝統技術の再現にみな熱心に見入っていた。特にこの伝統技術を受け継いでいる大工さんの確保が大変だったようで、横浜市としては建物だけではなく、職人の技術も文化財として保存してゆく考えのようである。

★建て方全体写真
この時点では居間棟、客間棟も棟上げが終わり、これから厨房棟の棟上げにかかるところであった。

金沢伊藤博文別邸木工事
客間棟東側部分
金沢伊藤博文別邸木工事
居間と客間部分を南から
金沢伊藤博文別邸木工事
居間及びその南側部分


★技術の伝承
文化財の復元工事はできるだけ旧部材を再利用したいが、地面に近い部分などの材料は腐食が激しいため、どうしても新しい材料での補修が必要になってくる。そこで、長い間培われてきた大工職人の伝統技法が復元に重要な役目を果たしている。 金沢伊藤博文別邸技術の伝承事
伝統的な木造建築の柱組と建て方工法
金沢伊藤博文別邸技術の伝承
客間柱のホゾシャチ継ぎ

金沢伊藤博文別邸技術の伝承
客間柱のホゾシャチ継ぎの組立実演

金沢伊藤博文別邸技術の伝承
客間柱の金輪継ぎ


金沢伊藤博文別邸木工事
客間棟の小屋組
金沢伊藤博文別邸木工事
湯殿の小屋組と軸組の一部
金沢伊藤博文別邸木工事
客間棟柱の新旧材料の組合わせ



3)第2回伊藤博文公別邸復元工事中間見学会

平成21年3月20日、復元工事の2回目の見学会が前回と同様の方法で行われた。今回は茅葺(かやぶき)屋根の復元についての説明が中心であったが、建物躯体の工事もかなり進捗していた。いずれの工事も文化財としての価値を損なわれないように細心の注意を払って、かつ原型にできる限り忠実に施工されている様子がよく分かった。

★屋根を中心に工事は順調に推移
居間棟は茅葺き屋根が完成し、壁、敷居、床などの構造部材部分の造作中。客間棟などその他の部分は柱及び屋根の工事を中心に施工中であった。

金沢伊藤博文別邸客間棟
客間棟裏面(北側)
金沢伊藤博文別邸居間棟事
居間棟側面(東側)
金沢伊藤博文別邸居間棟
居間棟正面(南側)


★技術の伝承
当初、別邸の屋根については外観上は茅葺き屋根の雰囲気は残すが、構造・材料は現在の木造建築の技術を使い、茅葺き屋根とはしない、ということだった。それは茅葺き屋根の場合、施工に手間・費用がかかるだけではなく、防虫処理など建築後の維持管理が大変であるからであった。 しかし、それでは折角の別邸の文化財的価値は半減するという地元等の意見もあり、市は茅葺き屋根の施工に踏み切ったが、技術の伝承ということでは、この決断は正しかったと言えるでしょう。 伊藤博文公が住んでいた夏島別荘は、そこが軍用地であったため憲法起草後すぐに1889年小田原に移築された。それから9年後の1898年、伊藤博文公は思い出深い金沢の地、特に野島に、地元洲崎の大工山口新三郎に発注して別荘を建てさせたのです。 そこで今回の見学会では、解体時に調査した資料等をもとに、当時(明治時代)のこの地方の茅葺き屋根の特性を十分に生かした屋根工法について、実演を混ぜて、その実際を披露した。 金沢伊藤博文別邸茅葺き屋根
金沢伊藤博文別邸の茅葺き、板葺き屋根の構造
金沢伊藤博文別邸茅葺き屋根構造
茅葺き屋根の構造模型

金沢伊藤博文別邸技術の伝承
茅葺きの実演

金沢伊藤博文別邸技術の伝承
板葺き屋根の構造と実演


金沢伊藤博文別邸居間棟床下
床下構造は昔のまま
金沢伊藤博文別邸居間棟
旧材を多く使った居間棟内部の造作
金沢伊藤博文別居間棟壁
居間棟壁の竹の下地(小舞)が美しい



Copyright t-hayashi 2007     登録 14/2/2007