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自然と触れあえる島
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野島 その歴史と見所(history&viewpoints of nojima-island)   QRコード

六千年前の野島想像図

1.野 島 貝 塚

約2万年前に地球の氷河期がほぼ終焉した後、、海面は気温の寒暖の差により昇降をくり返しながら徐々に落ち着いていった。日本海が干上がり、東京湾に川が流れていた氷河時代 から海面上昇が起き、いまから約7000年前の縄文時代早期には野島は室の木と陸続きになり、岬の先端にあったと考えられ、そのとき野島貝塚がつくられた。そのときの海面は今より15メーターほど低かったことがわかっている。 その後さらに海面は上昇し、約6000年前には今より4〜5m高くなったと思われる。(上の想像写真)

野島バーベキュー炉
写真A 貝塚のある野島山北側斜面
野島バーベキュー炉
写真@ 野島貝塚
野島山の頂上の北側に写真のような看板が立っている。野島山は高さは53m、その頂上北側の縁部とそこから16mほど下がったところまでに、深さ30cmから1mにわたり貝殻が積層している。 ほとんどがマガイであるが、アサリやカガミガイ、など30種類近くの貝が発見されたが今の産物とあまり変わらない(写真C)。
魚類としては写真Cの他にイルカやサメの骨もアリ、 また、シカの角で作った釣り針やモリ、イノシシの牙に刃ををつけたノミやクジラの骨で作った10cmを超える斧(おの)もあった。これらを考えると、単独で行う漁のほかに野島だけではなく周辺の集団も加わった、追い込み漁などが行われたと考えられる。
野島バーベキュー炉
写真D 黒曜石の矢じり
野島バーベキュー炉
写真C 上はタイやスズキ,ボラの骨
下はイノシシやシカ、イルカの骨
野島バーベキュー炉
写真B野島式土器

そのほかに獣類の骨が多く見られる。シカ、イノシシ、タヌキ、アナグマなどと、ニホンイヌも混じっている。写真Dに黒曜石の矢じりがありますが、他に精巧にできた石斧などもあり、 猟犬を使った集団による狩りがやられていたことも考えられる。
貝塚から出土する土器は砲弾型の尖底(せんてい)土器で、表裏に貝殻でつけたスジがあり、上半部に何かのオマジナイなのか、平行線や菱形の文様を表している。この様式の土器を 「野島式土器」と名づけられた。底がとがった形は、主に炉に突き刺して煮炊きするためで、一カ所への定住がはじまる前の生活にあった容器の様式といえる。

野島バーベキュー炉
写真E現在貝塚は閉鎖されている

まだ山肌に風化した貝殻が散乱する 野島貝塚は浜市内では夏島に次ぐ古い貝塚です。その貝塚は日本軍が終戦間際に飛行機格納庫などの工事をしていて偶然発見したもので、その後昭和20年代に集中して発掘調査がなされたが、

現在はその場所へ行く道は残念ながら閉鎖されている。無理すれば行くことはできるが、頂上からの斜面にまだ沢山の貝殻が残っている。確たる証拠はないが、野島山頂上に は当時、小さい集落があって、この貝塚はそのときのゴミ捨て場であったのだろう。陸つたいに室の木から釜利谷までわたって狩りをし、海では集団で大量の魚を採る、そんな豊かな生活があった。 はるか7000年前に戻りたいような、ロマンを感じる。
(以上 「図説かなざわの歴史」を参考とする)


野島山展望台

野島山展望台
東京湾が一望
野島山展望台
東京湾が一望
野島山展望台
野島山展望台
野島山展望台
野島山頂上

坂を登って野島山の頂上は広い平地になっていて、北側からは東京湾を望める。展望台があり、そこからは東京湾をはじめ横須賀方面や富士山までぐるりと360度観覧できる。


2.野島稲荷神社


野島稲荷神社

祭 神:倉稲魂命 
合祀神:天照皇大神 菅原道真公 市杵島姫命  誉田別命
    天児屋根命 須佐之男命
境内社:角秀稲荷 皇大神宮 船玉社 その他個人の祠
   
野島バーベキュー炉
鳥 居
野島バーベキュー炉
手 水 舍
野島バーベキュー炉
沢山のお狐さんが


祭 事:・元旦祭1月1日 ・賽の神1月14日 ・稲荷祭2月初午日 ・夏大祭7月吉日 ・潮祭り9月1日 霜月祭11月23日

神 社 の 由 来

 野島山南側の石垣を積んだ一段高いところに鎮座するのが野島荷神社、正一位稲荷大明神である。野島稲荷神社は豊川稲荷、笠間稲荷、伏見稲荷の日本三大稲荷のなかの京都伏見稲荷の系統 で、野島町の総鎮守として倉稲魂(うがのみたまのみこと)をおまつりしています。
 野島神社は安貞元年1227年 今から約770年前の昔、鎌倉時代にに阿波守長島維忠(つなただ)の発願により、その子修理佐ョ勝が創建したものと伝えられる。本神社社殿は八幡造りで二つの建物を 廊下のようなものでつないだ構造で、奥を本殿、手前を拝殿と呼ぶ。


塩風呂御殿と稲荷神社

 江戸時代初め、万治年間(1658〜1660年)野島浦の南端に紀州大納言頼宣公の別邸があり、これを塩風呂御殿といったという。 稲荷神社は丁度塩風呂御殿の東北の方向に位置し、その鬼門の守り神として頼宣公の厚い尊信を受け、社殿造営にも尽力したと言われている 。

神社は創建以来、寛文3年(1663)4月に再建し、その後延宝7年(1679)11月、宝永4年(1707)正月、正徳5年(1715)6月、享保7年(1723)2月、宝暦4年(1755)、 嘉永2年(1854)6月にそれぞれ修理を行っているが、宝永や嘉永など 大地震による破損修復が大部分のように思われる。
現在の社殿の拝殿部分は明治二年に野島にすぐれた棟梁がいて その人が建立したものと聞く。(1部神奈川県神社庁より)  

野 島 の 海 運
 

野島稲荷神社絵馬
野島稲荷神社の絵馬
稲荷神社の拝殿の左の壁に絵馬がかかっている。「文久3年拝み絵馬」となっていて親子と思われる三人が神社へ船の安全をお願いしている様子が描かれている。 さらに神社には江戸時代の祈願札が残っている。最も古い祈願札は安永九年(1780年)に「野島浦惣氏子中」が奉納したものである。文政四年(1821年)に奉納された祈願札 武州金沢八景
日本八景づくしの内武州金沢八景
には「船中無難 漁猟繁盛」とある。
当時の野島浦は平潟湾の入り口に位置し、三浦半島の各浦はもとより対岸の上総国富津と近距離にあったことから、古来より海上交通の拠点であった。 安政二年の記録によると野島浦の漁船所持は50隻(永島家文書下)とあり、周辺漁師村と比べでその漁業規模が大きかった。野島浦には 海上交易に携わる船主が何人かいて 文化年間の資料によると15隻の船を持つ船主もいたという。 野島の船は人も運んだ 。千葉の富津から野島へ、横須賀、大津から野島へ、そして野島から江戸へ。いままで陸路で行ったものがそっくり船旅に代わったのである。 もっともこれには陸路を使う保土ヶ宿などから紛争も起きている。


金 沢 の 汐 祭 り 野島バーベキュー炉
金沢の汐祭り
  野島バーベキュー炉
金沢の汐祭り

毎年9月1日に金沢漁港で汐祭りが行われる。豊漁と漁の安全を祈るとともに漁で亡くなった人を供養するお祭という。一説には関東大震災で多くの遺体がこの浜に打ち上げらたため、 この人達の供養のためにこの日を選んだとも聞く。野島稲荷神社には海で亡くなった人のため「船玉社」という境内社が合祀されている。宮司により野島稲荷神社から御霊(みたま)を拝し、 これを大漁丸見立てた小舟に移します。 この大漁丸を海に流して、これに廻りの船が波をかぶせて、大漁丸が身代わりとしてひっくり返すことにより船の安全が保たれるという。 このお祭は宵宮と本祭りの二日間で行われ、近隣の漁船・漁師や町内会、自治体、漁業関係団体などが参加し、盛大におこなわれる。



フクロウのお守り
フクロウのお守り
フクロウのお守り

西洋ではギリシャ神話に由来してフクロウは「聖鳥(神の使い)」「英知の象徴」「霊力を持つ鳥」と呼ばれて目に見えない自然界の  様々な潜在的問題を、英知と不思議な霊能力で解きほぐし、人間を守ってくれる「幸福を呼ぶ鳥」として信じられています。
日本でも「福篭」「不苦労」「福来朗」「福老」老いて福、不老長寿のお守り、「梟」首がよく回るので商売繁盛とされ縁起の良い鳥とされています
フクロウは野島の備前焼陶芸愛好家がひとつ1つ手作りし、焼き上げたもので、「家内安全」「交通安全」のお札がありますが、フクロウは英知と霊能力を持つということで、受験祈願にもよいとされています。
通常は年始年末の歳旦祭と七月の野島の夏祭りで販売されます。


3.染 王 寺


染王寺
染王寺は金沢札所第八番にあたり、新四国東国八十八所霊場では第七十七番になるとともに、ここにある「筆子塚」は浜市地域史跡です。
染王寺は真言宗御室派に属し、本尊は聖観世音菩薩で脇仏に愛染明王、閻魔大王、三面大黒天が祀られています。 比丘尼了意の墓
比丘尼了意の供養塔
寺の創建については明らかではないが、永徳2年(1382年)に比丘尼了意(びくにりょうい)、応永12年(1405年)義円和尚がともに頂上に草庵を結んだのが始まりと伝えられている。 永禄九年(1566年)に野島山から現在地に移り、寺号を善応寺としましたが、後に染王寺と改めました。地元の人は今も「ぜんのうじ」と呼んでいます。
野島には他に2つの寺があった。円明院と正覚院ともに尼寺である。明治2年に一村一寺のお布礼が出てから、明治末には3つの寺が染王寺一つに合併した。円明院は早くから廃寺となったが 正覚院は大正6年頃まで建物が存在した。 染王寺は、善応寺と呼ばれた頃と島民全員が疎開した大戦中に火災に遭い、保管していた多くの資料を消失した。(神奈川県神社庁他)

筆 子 塚
  染王寺筆子塚
善応寺住職の供養塔
染王寺筆子塚
正覚院住職の供養塔
染王寺筆子塚
筆 子 塚

本堂左側境内に四基の墓塔からなる筆子塚があります。
これらの墓塔は、江戸時代の元禄元年(1688年)から享保一六年(1731年)に造立されたもので、4基のうち2基は善応寺、他の2基は正覚院のいずれも住職の名が刻まれている。 さらに、それぞれの戒名左側に「施主 手習子」などの銘がうたれている。これは、この寺が寺子屋のような習い事を学ぶ場であったため、その師であった住職のために、 塾生達が師の供養塔を建てたものと思われる。正覚院住職は尼さんであったことを考えると、昔はここで女性のたしなみである、裁縫、生花、茶道なども教えていたと思う。

そこで昭和56年、ここで学ぶ書道塾の塾生達はその師弟愛に心打たれ、その筆子達を供養したいと考え、お寺の協力をえて4基の墓石を 境内に移してもらい、そこに塾生達による「筆子塚」と刻んだ供養塔を建てた。この供養塔は平成5年、浜市地域文化史跡に指定された。非常に心温まる美しい話である。このためか 野島には書道の上手な人が非常に多い。これも昔の寺子屋のお陰であろうと思うが、その書道塾は平成20年頃まで続いていた。
百万遍念仏の様子
庚 申 塔
女性7人の逆修像
女性7人の逆修像

染王寺の山門前左側に庚申塔や六地蔵と並んで穏やかな顔の聖観音像があり、舟形光背の左右に次の銘文がある。
「西の念仏中間女十七人 逆修 野嶋村」 「元禄二己巳八月吉日(1689年)」
仏教用語では、みずからの菩提を弔うために生前あらかじめ仏事を営むことが逆修といっている。十七人の女性はどのような形で念仏を唱えたかは解らない。しかし、上の稲荷神社の 絵馬にもあるように、当時の漁師の妻達はいつも夫の漁の安全を願い、また自らも過酷な死と生の狭間を生き抜いてきた、強い女だったのだろう。今も野島の女性は強いが。

(以上 金沢の今昔ー杉山高藏著、図説かなざわの歴史ー浜市、野嶌之故事ー木村栄太郎著を参考とする。)   


野島から亜米利加へ渡った半次カ(秘 話)

万延元年(1860年)幕府は日米修好通商条約批准のために77名からなる使節団をアメリカ合衆国へ派遣した。 半次カの墓
半次カの墓
半次カの墓
半次カの墓(拡大部)
その随行員の記録の中に「武州金沢、半次カ・45才、鉄五郎・22才」とあり、現在の金沢区域のどこかの村に住んでいた農民であったといわれている。この二人は江戸町人伊勢屋平作の手代の 「下働き」であったとあるから、使節の食事や日常生活の世話をする「召使い」のような立場と考えられている。鉄五郎についての資料はきわめて少ないが半次カについては、船の乗組員 に餅を焼き与えたとか、サンフランシスコの酒屋で酔っ払って外国人と喧嘩したとかのいくつかの記録があり、かなり目立った人物だったといわれている。 ところが半次カはサンフランシスコで病となり、一行と一緒には帰れず、暫くして別の船で函館まで帰ってきたが、遠く北海道の地で病が悪化して函館の地で病死したと伝えられる。
染王寺の墓地のほぼ中央、本堂建物の左後方に古い墓がある。三つの墓石からなり、中央の大きな墓石にご夫婦と思われる戒名が書かれいて、その右側面に次のような文字が刻まれていた。
   中央に「釋諦圓信士 安政六年九月十一日」、その左下に「亜米利加ニテ死亡」
  これだけでは名前がわかない。しかし安政年間野島からアメリカへ渡った人物がいたということになる。日米修好通商条約で米国へ渡ったのは万延元年(1860年)、安政六年は1959年で、 このままでは米国へ渡る前に死んでいたことになるが、当時は今のように情報は早くない。1859年3月17日が安政7年で、3月18日から万延元年になる。現在でも平成元年が1月8日からで 1月7日は昭和64年であることをどれだけの人が理解しているだろう。本来万延となるところを安政と掘ってしまったのであろう。かえってこの方が信憑性が高い。また、「亜米利加ニテ死亡」だが、函館で死んだという 確たるものはないし、本人は名誉を背負ってアメリカへ向かったのだ。墓には亜米利加と書くだろう。
現在この墓の持ち主は野島には住んでいない。島の古老の話では、昔このようなことがあったと聞く、当時は一度丁稚(でっち)に出すと死ぬまで どうしているか分からなかったという、農民という言い方は間違いだろう  と言っていた。江戸末期この金沢の地野島から一人の男がアメリカへ行ったことは信じてよいでしょう。
(平成23年1月25日発行 図説金沢の歴史 を参考とする)



4.永島亀巣と泥亀新田

永島邸の門
永島邸正門
永島邸の門
永島邸脇門

平成18年秋、夕照橋を渡って真っ直ぐに来ると左側に瓦屋根のついた立派な門に出会った。それが永島邸の入口門であったが、翌年には残念ながらとり壊され、跡地には新興住宅地として 30軒ばかりの家が建った。
永島亀巣の碑
永島亀巣功績の碑移設前
永島亀巣の碑
永島亀巣功績の碑 現在
その永島邸敷地内には泥亀新田開発者としてその功績をたたえる永島亀巣(きそう)の碑があったが、今はその碑は新興住宅地の入口に移設されている。その他に白壁作りの 倉と、お参りの社(やしろ)があったが、いずれも簡単に解体されてしまった。


永島亀巣 の 功 績

今から三百年ほど前の江戸時代初期には、野島と平潟は海岸線の松並木だけで繋がり、その両側は西も東も砂浜と浅瀬の潮が広がっているような、そんな風情ある景色を醸し出していた。 東側の海岸線は乙舳といった。 江戸時代初めごろの平潟湾
江戸初めごろの平潟湾と塩田

 左の図は浜市が江戸時代初期の地籍を調べて作成した六浦・金沢の地籍図の1部で、これに着色したものです(地籍であるから家がそこにあるとは限りません)。
当時は海は金沢の奥深くまで進出していた。北は瀬戸橋を抜けて釜利谷地区一帯、西は横須賀街道を1キロ近くも奥に行った光伝寺まで、そして西は龍華寺のすぐ近くまで湾は広がっていた。 そして金沢の素晴らしい景観もそこにあった。頃は江戸元禄にあたり、明の僧東皐心越(とうこうしんえつ)が能見堂より金沢八景を表す八遍の詩を詠んだのもこの時期である。
 ここに永島段右衛門祐伯(すけのり)という男がいた。先祖は但馬国の医者で、祐伯の父道仙は江戸に出て幕府の医者となり法眼という名誉ある官位についた。子の祐伯は弟に 家業を譲り、儒官として幕府に使えたが、その官を辞めて金沢の風光を愛し、野島に居を構えました。
 祐伯はまず寛文八年(1668)に字走川(あぎはしりがわ)ー現寺前1丁目の1部と平潟の1部の2カ所を埋め立て、二町六反四畝余りを得た。この新田は永島祐伯の号泥亀をとって泥亀新田 と名付けられ新たな村となった。その後祐伯の子孫は段右衛門を名乗り、祐伯の干拓事業を九代二百年に渡り引き継いだ。ただその間、元禄十六年の大地震、天明六年の集中豪雨、寛政三年 の津波などの大災害に見舞われ、せっかく開拓した干拓地を流失し、もとの浜にもどるなどしたが、九代忠篤亀巣の代で、すべての私財をそそぎ艱難辛苦に耐えながら、ついに三十年の歳月を費やし て事業を成功させたのである。瀬戸橋より北の入り江部分と平潟に、水田、塩田、畑地、宅地を併せて七十七町歩を得て、永島家は金沢で並ぶものがない大富豪となったのである。その功績 を讃えて、明治十七年に永島亀巣之碑が野島に建てられた。
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永島邸の牡丹園
 

永島邸の牡丹
武州金沢永島邸牡丹園(明治20年代)
泥亀の牡丹園と屋敷
永島邸の牡丹園と屋敷(大正十四年絵葉書)
写真は野島泥亀の牡丹園である。右は隆盛を極めた明治時代初期のもので、左はその後老朽化して建物を建て直したと思われる。 泥亀の牡丹は有名で、祐伯の孫金七郎が神田小川町の酒井雅楽頭忠明の屋敷内の庭園にあった牡丹数十種類を拝領して、それを端正に育てたものという。 牡丹は美しく咲き競い、花の時期には近隣近郷の見学者がたくさん訪れ、作家徳富蘆花もその著「自然と人生」のなかで「金沢のぼたんを見に行った」と書くなど、多くの目を楽しませてくれたのである。 地元の人によると黒い牡丹に人気があったという。 また、それら見学者に茶菓を出したり、小学生が花見にくると鉛筆やノートをあげるなど、接待のサービスもあったという。
地元とのお付き合いはあまりなかったようであるが、夏祭りには町内の神輿が一番先に廷内へ入り込んでそれから祭りが始まったという。
後の大正5年に泥亀新田は博文館社主・大橋新太郎に売却され、これにより金沢町に新たにできた「大橋別荘の牡丹園」も有名になり、「永島・大橋の牡丹園」が機縁で一般公募により、 牡丹が「金沢区の花」に選ばれたという。


昔をしのぶ伊藤博文公金沢別邸のボタン園

野島の伊藤博文公別邸のボタン園は永島邸のボタン園を模して作られたものです。17種類235本の牡丹が植えられている。
毎年4月の中旬以降になると赤、白、黄色や様々な色彩をしたボタンが庭園一杯に咲き誇ります。このシーズンになると気温も暖かくなり、前の海でアサリ採りに来る人、ボタンの写真を撮る人 、写生をする人など沢山の人でこの庭園は賑わいます。

伊藤博文金沢別邸ボタン園 伊藤博文金沢別邸ボタン園 伊藤博文金沢別邸ボタン園 伊藤博文金沢別邸ボタン園 伊藤博文金沢別邸ボタン園






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