
千歳市埋蔵文化センター
| No.1(2007.5) 今月号から千歳の人や自然の歴史を紹介する事になりました。私たちが踏みしめている大地に刻まれた色々な出来事をとおして千歳の豊かさを感じていただければと思います。 さて、初回は大地の生い立ちと「千歳鉱山」です。今から2000万年前、海底火山が激しく噴火を繰り返し、北海道のほとんどが陸地になっていきました。 しかし、千歳は日本列島を南北方向に連なる大きな構造線(断層)上に位置し低い地形であった為、陸地になったのは今からおよそ10万年前のことでした。構造線上には、海底に堆積してできたグリーンタフと呼ばれる岩石が隆起などによって地表に顔を出します。このグリーンタフには石英が結晶した岩脈が発達し、金や銀などの鉱物が多く含まれており鉱脈と呼ばれています。支笏湖の美笛地区で1933(S8)年に発見された石英脈は、日本でもトップクラスの金の含有量(20g/鉱石1トン当)を誇り「千歳鉱山」として発展しました。昭和52年の記録を見ると、金が436kg、銀が2356kg、銅も21000kgが生産されています。しかし資源の減少やコストの上昇により1986年(昭和61年)に閉山となりました。 |
| No.2(2007.6) 支笏湖の生い立ち 千歳の豊かな自然を代表する支笏湖、清冽な水をたたえるこの湖は、 千歳のかけがえのない財産であり、誇りでもあります。今回はこの支笏湖の生い立ちを見てみましょう。 現在の支笏湖は、面積78.4k㎡・周囲長40.4kmで琵琶湖の1/9の広さ(日本で8番目)です。最大水深363m・平均水深265mと日本で2番目に深く、水面の標高が247mですので、湖底は海面より深いところにあります。このため貯水量も多く、琵琶湖の3/4の約21k㎥に達します。 今から約4万2千年前、支笏火山が大噴火をしました。噴煙は高度10km以上まで達し、火山灰は偏西風にのって道北や道東、大平洋まで達しました。火山灰は当時の森林を埋め、木々は立ったまま炭になってしまいました。この林は「化石林」と呼ばれ、千歳の美々地区などで時々見つかります。噴出した火山灰や、火砕流は数十メートルの厚さで谷を埋め尽くし、苫小牧や札幌市の南側まで及び、一部は高い熱と圧力で固まった溶結凝灰岩になり、「札幌軟石」として利用されています。やがて、噴火が収まった巨大な火口跡(カルデラ)に水がたまり、支笏湖できました。 |
| No.3(2007.7) 千歳とタンチョウ(丹頂鶴) 先月の22日に、駒里の市営牧場に2羽のタンチョウが舞い降り、話題になったが、今回は千歳とタンチョウについて少々調べてみた。 さて、「千歳」という地名は、文化2年(1805年)に、この辺りにたくさんいたタンチョウにちなんで、「鶴は千年、亀は万年」のことわざにより「シコツ」から「千歳」に改名された。改名のいきさつは、後日改めて取り上げるが、地名の由来になるくらい、200年程前の千歳にはタンチョウが多数生息していたということになる。その証拠に、弘化3年(1846年)に千歳方面を訪れた松浦武四郎は、漁太にツルが多いこと、長都沼の附近でツルを目撃したこと、7月中旬〜8月下旬(旧暦)にツルが多くなることを書き残している。やがて明治になり、北海道庁は、明治22年(1889年)に「丹頂捕獲禁止令」を発布する。幕末からわずか20年で、道内のタンチョウは捕獲によって激減した。 捕獲のほかに、開拓や人の往来の急増(当時は往来に主に河川を用いた)による生息環境の悪化などがあったと思われる。翌23年には、千歳川(長都沼など)など道内数箇所に禁猟区が設けられたが、タンチョウは戻らず、その後は絶滅したと考えられていた。大正13年(1923年)に釧路湿原で十数羽の生息が確認され、14年に禁猟区が設けられた。その後、タンチョウは、昭和11年に「天然記念物」、27年に「特別天然記念物」指定され保護が図られてきたが、嬉しいことに過密になった釧路湿原から拡散が始まっているようだ。 |
| No.4(2007.8) 「シコツ」と「千歳」 千歳は、かつて「シコツ」、毎年秋になると鮭が上る千歳川は「シコツぺッ」、千歳川の源である支笏湖は、「シコツトー」とアイヌ語で呼ばれていた。 北海道の地名は、アイヌ語起源であることが知られている。アイヌ語の地名は、視覚的に捉えることができる地形の特徴や、植生などを巧みに表現したものが多い。 千歳の地名の語源を調べた作家長見義三さん(故人)の労作「ちとせ地名散歩」に依れば、シコツとは「shi-kot 大きな・くぼ地」という意味で、そこを流れる川が シコツペッ「Shikot-pet シコツ・川」。シコツトーは「Shikot-to シコツ(川の)湖」と解釈され、どの地形をもって「シコツ」と言い表したかは不明としながら、旧千歳市街地を中心とする千歳川下流の低地帯を示した可能性があることを記している。 文化2(1805)年、当時シコツ場所を受け持っていた箱館奉行調役山田鯉兵衛より「シコツ川」の響きが良くない(例えば「死骨」を連想させるということらしい)ので改名したいと箱館奉行の羽太正養(はぶとまさやす)に願いが出された。羽太は、当時の千歳には鶴が沢山いたことから「鶴は千年亀は万年」の故事にちなみ「チトセ川」とし、「千歳」として今日に至っている。 別な側面から見ると、この改名は、アイヌ文化固有の地名が和人の文字文化の価値観で、容易に改名が可能だった当時の千歳の政治的、社会的な状況を示す出来事の一つでもある。 |
| No.5(2007.9) 千歳には砂丘がある? タレントがゴクゴクとスポーツドリンクやビールを飲み干すCM、舞台となるのは、灼熱の砂漠の砂丘が相場。砂丘は、強い風が砂で作る丘である。 さて、灼熱の砂漠でもない千歳に、実は砂丘がある。それは、ちとせ歴史ウォッチャーNo.2で記した支笏湖の生い立ちと大いに関連している。今から約4万2千年前、支笏火山が大噴火。噴煙は高度10km以上まで達した。火山灰は当時の谷や丘さえも埋め尽くし、木々は立ったまま炭の林となった。このふんかによる火山灰と火砕流は数十メートルの厚さで大地を覆い、千歳はこの火山灰によって砂漠のような状態になったのである。 当時の地球は氷河期と呼ばれる大変寒い時代。平均温度が7~8度も低く、寒冷で乾燥した環境だったと思われる。火山灰に覆われた不毛の大地に、北西から強い風が吹き続け、吹き寄せられた火山灰の粒はやがて砂丘に成長した。風の強さによって飛ばされる粒の大きさや重さが異なるが、そのちがいやが砂丘の断面に美しい縞模様を描くことになり、その縞模様は砂丘の証となる。砂丘はその後に噴火した恵庭岳や樽前山の火山灰に2~6mも覆われたが、市内では旧長都沼周辺を中心に存在が確認されている。 砂丘は鳥取砂丘のように海岸や湖岸など水辺に成長するタイプと、ゴビ砂漠のように内陸のタイプがある。どうやら千歳では氷河期にはしないの市街地まで広がる大きな低地があり、砂丘が発達したようだ。市内で訪れやすい砂丘は、、青葉中学校の裏の小高い丘(住宅地)である。極寒の砂漠でできた砂丘は、氷河期の気候や地形などを知る手がかりであり、「千歳古砂丘群」と命名されている。 |
| No.6(2007.10) 千歳のアイス・エイジ 数年前に「アイス・エイジ」というアニメーション映画が公開された。2万年前の氷河期(アイスエイジ)を舞台に、マンモスやナマケモノが偶然見つけた人間の赤ちゃんを守りながら旅をする内容である。最後に赤ちゃんは無事に父親のところに戻ることができる。映画はあくまでもフィクションだが、自然環境や動物の姿などは、これまでの科学的な調査や研究を参考にしており良く描かれている。ただし、いつもドングリを追いかけている動物は、実在しない想像上のキャラクターである。 さて、この映画の舞台となった氷河期は、遠い世界の出来事ではなく、2万年前の千歳に現実として存在していた世界である。先回紹介した砂丘上には、アイスエイジの人々が使った石器など多くの石の道具や、顔などのペインティングに使われたと思われる赤や黒の顔料、火を炊いた跡(炉跡)などが見つかっている。興味深いのは、炉跡から出た骨のかけらで、これは、当時の人々が狩をおこない、食料とした動物の骨の一部と思われる。骨の組織などが調べられたが、残念ながら?マンモスなど象の仲間ではなく、バイソン(野牛)やシカなどの偶蹄目の可能性が高いらしい。当時の人々は、見晴らしの良い小高い砂丘上に野営し、眼下に広がる千歳川流域の草原や林の中でバイソン狩やシカ狩を行ってくらしていたようである。 アイスエイジは、寒冷で大変厳しい自然環境であったが、人類の石器作りなどの狩猟技術を鍛え、寒さによって陸化した海峡を通って、人類が世界に広がった時期でもある。 |
| No.7(2007.11) 赤と黒 「赤と黒」というと、ある世代まではフランスを舞台にした有名な小説や映画のタイトルを思い出し、北海道のサッカー好きは、コンサドーレの縦じまのユニフォームを思い浮かべる。また、朝夕の味噌汁に欠かせない漆塗りのお椀は、たいていは外側に黒漆、内側に赤漆が塗られている。「赤と黒」は比較的身の回りに多くある色彩でもある。 ヒトがいつの頃から「赤」と「黒」の色彩を意識したかはわからないが、「赤」はわが身の血の色でもあり、燃え盛る火や太陽の色でもある。「赤」は「いのち」を表し、生きている証の色とも言える。一方「黒」は、太陽が沈んだ後に来る闇の色であり、火が燃え尽きた後に残る炭の色である。「赤」と正反対の色と言えるのかもしれない。 平成2年、市内の中央地区(祝梅地区と泉郷地区の間に位置する)で丸子山遺跡の発掘調査が行われていた。この遺跡は古砂丘の上にあり、2万年前の「アイスエイジ」の石器や炉跡が見つかったが、その中に2つの妙な石があった。色調は赤と黒。ちょうど小指ほどの長さと太さで角柱状の石。面を取ったような表面には、縦の細かいスジが並んでいた。経験的に荒い砥石などに擦った跡とわかったが、どんな目的に使う石なのか思いが及ばなかった。その数年後、この疑問は見事に氷解する。市内の柏台や帯広での発掘で、角柱状の石とともに見つかった扁平な石に「赤」「黒」の顔料がついていたのである。当時の人々は扁平な石に角柱状の石を擦り、赤い石や黒い石の粉を作り出していた。「赤」と「黒」は、すでに「アイスエイジ」から特別の意味をもつ色だったことは確かである。さて、この顔料はどんな使われ方をしらのだろうか。楽しい思いのふくらむ疑問である。 |
| No.8(2007.12) 千歳最古の遺跡は北海道最古の遺跡だった ある世代までは、ヒトとサルの違いは道具を使うか否かと教えられた。ところが今は、チンパンジーも道具を使うことが知られている。その一つに硬い木の実を割る時に使う石がある。木の実を置く台の石を、実を割るため振り下ろすハンマーの石である。使い勝手の良い石は長い間使い続けるため、遺跡で出土する石器とソックリな使用した痕がついている。このため、これまで数十万年前のヒトが使った石器とされていた物の中に、ヒト以外の霊長類の石器があるのではないか、と指摘する研究者も出てきている。 一時期、北海道にも「10万年前あるいは数十年前の石器発見か」などという話題が提供されたが、残念ながら平成12年に発覚した石器捏造とともに霧散してしまった。 千歳の祝梅には、北海道最古の遺跡と呼ばれていた遺跡があった。発見は、昭和47年5月。約12千年前の旧石器時代の遺跡(祝梅上層遺跡)の調査中に地層などを調べるため、近くの通称「三角山」の地層断面の調査を行った。この三角山は、周囲より6mほど高く、当時の子どもたちの恰好のスキー場であったらしい。すでに土取りにより露出していた断面の観察や写真撮影のために、移植ゴテで削っていた一人が1万7千年前に噴火した恵庭岳の火山灰より、さらに下の地層から小指の爪ほどの黒曜石片を抜き取った。明らかに人為的な破片であり、予想もしない発見だった。その後の科学的な分析で2万1千年ほど前の年代とわかり、当時、北海道最古の遺跡(祝梅下層遺跡)として知られることになった。現在では3万年ほど前の遺跡が見つかっているが、祝梅での発見は、北海道から2万年前よりもっと古い遺跡が見つかる可能性を大きく広げる第一歩であった。 |
| No.9(2008.1) 地球の温暖化は縄文文化を育てた 1万5千年ほど前になると、厳しかった寒さが続く「アイスエイジ」も終わりを告げ、しだいに気温が上昇していく。現在の全地球的な問題となっている温暖化である。 現在と決定的にちがうのは、この温暖化は人間社会が排出する二酸化炭素が原因ではないということである。当時の人間は、確かに人間社会をつくっていたが、自然界の恩恵を受けて暮らす他の動物たちと同じように(というよりはもっと影響力の無い)自然界の極めて小さな部分を占めていたに過ぎない。では、当時の温暖化の原因は?・・・さまざまな理由が考えられているが、どうも地球が太陽を回る公転と地球が自転する軸の動きが関係するらしい。この件にもっと興味のある人は、インターネットなどで調べてみると良い。 さて、温暖化は豊かな自然の恵みをもたらし、日本では土器の出現とともに縄文文化の幕が開く。最近、北海道でも縄文文化の初期段階(1万2千年前)が帯広市で出土した。本州のものと同じ系統のものであり、本州と帯広の間にある千歳においても発見される可能性が出てきた。 千歳の縄文時代の古い土器は、蘭越地区に流れる名水百選の「内別川」の近くから見つかっている。貝殻の端を押し付けた模様があることから「貝殻文土器」と呼ばれる8千年ほど前の土器である。これも函館や青森からも見つかっており、本州とのつながりを示す土器である。7千年ほど前になると、土器のほかに竪穴式住居跡が美々地区や長都地区、中央地区などから見つかり、数軒の竪穴住居からなる村があちこちにあったようである。この時期になると温暖化はさらに進み、気温も現在の千歳とおなじぐらいだったと思われる。この後、気温はさらに上昇するのである。 |