金900両 
  大仏建立
 聖武天皇は、相次ぐ政争や飢饉、天然痘の流行などに心を痛められて都を恭仁宮や紫香楽宮へと移されますが、国家鎮護のために多くの人たちの寄進による大仏(廬舎那仏)の建立を思い立たれ、天平15年(743)に詔を発布されます。
 最初は紫香楽宮に計画されたのでしたが、平城宮に帰還された天皇はそこで大仏建立の事業を継続されました。建立の運びは次のようになっています。
   745(8.22)  建立開始
   746(10.6)  塑像大仏供養
   747(9.29)  鋳込み開始
   749(10.24) 鋳込み終了
   750        仕上げ・ 螺髪取付け・金鍍金開始
   752(4.9)   開眼供養(鍍金未完成)
   757        大仏完成(756聖武天皇没)
   771        大仏殿完成

 なお、その後数次にわたり被害があり、現在拝観しているお顔(頭部)は江戸時代の1690年に再建されたものです。建立当初のまま残されているのは、両袖から膝前にかけての大半と台座の大部分です。


 金900両
 大仏建立の最大の問題は鍍金用の金でした。金は当時はすべて輸入に頼っておりましたので、大量の金を確保することは大変困難な状況でした。749年、鋳込みが完了に近づいたのに未だ金を確保できない状況だったところへ、陸奥守百済王敬福が任地小田郡涌谷から産出した金900両(約13kg)を献上したのです。聖武天皇は大いに喜ばれて、年号を「天平」から「天平感宝」と改められたほどでした。大伴家持の「すめろぎの 御世栄えんと あづまなる みちのくのやまに 黄金花咲く」という奉賛歌は、この時に詠まれたものであります。この功績により敬福は従三位宮内卿に昇進し、河内守に任じられて河内国交野郡中宮に着任したのでした。枚方市中宮です。

黄金山神社
 陸奥国小田郡は産金の功に報われて3年間租税が免除されました。また地域の祠廟であった小金山神社は、その後神格が上げられて「延喜式神名帳」にも記載されるほどになりました。
 神社周辺からは「天平」と刻まれた瓦が出土しており、昭和32年(1957)の発掘調査により建物の柱跡が発見されて、産金に縁のある建物が所在したものと推定されています。
 
    トップページへ

   「百済の会とは」へ

   「百済と百済王」へ