カンボジア
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 カンボジアの現在には、今も戦争の影が色濃く残っている。
 1970年、親米ロン・ノル将軍のクーデターによって、隣国ベトナムでの戦争が飛び火して以降、米国によるカンボジア領内のホーチミン・ルート空爆、ロン・ノル軍とカンボジア民族統一戦線との内戦、ポル・ポト政権の大量殺戮、ベトナムの侵攻、再び内戦。1991年カンボジア和平パリ協定によっておよそ20年に及ぶ戦争が終結し、国連暫定統治機構(UNTAC)時代を経た後も、ポル・ポト派は再び戦闘を開始し、あるいは政党間の対立が内戦に発展するなど、真に戦争がなくなるまでには、さらに7年を要した。
シェムリアップ郊外の
CMACユニット4オフィス
CMACユニット4
 カンボジア国内には、長い戦争の負の遺産である不発弾や地雷が今も数多く残っている。シェムリアップ市郊外にあるカンボジア地雷対策センター(CMAC)の博物館を訪ね、地雷処理のアドバイザー(?)をしておられる山田良隆さんの話を聞いた。

 不発弾は主に、1969年から始まった米軍の空爆によるものである。ベトナム戦争当時、カンボジア領スヴァイリエン州(いわゆる”オウムの嘴”)を通ってサイゴン(現在のホーチミンシティ)へと向かう解放戦線・北ベトナム軍を叩くために、あるいはプノンペンを拠点とする親米ロン・ノル政権を守るために、大量の爆弾が投下された。1973年8月15日に米軍が空爆を停止するまでの4年5ヶ月間に、第二次大戦中に日本に投下された量の約3倍にあたる54万トンの爆弾がカンボジアに降り注いだ(出典:「ポル・ポト<革命>史 虐殺と破壊の四年間」山田寛著 講談社選書メチエ,2004年)。そのためベトナムとの国境に近いカンボジア南東部、特に、首都プノンペンの周囲には多数の不発弾が残っている。  
不発弾および地雷による汚染地域を
それぞれ黄色、赤色で表している。
Mine/UXO map

 一方、地雷は主に、1970年から1998年まで続いた内戦によってもたらされたものである。誰が埋めたのかと聞かれれば、内戦の当事者みんなが埋めたとしかいいようがないが、タイ国境に近い北西部には、追い詰められたポル・ポト派がバリケードとして埋めた地雷が数多く残っている。

 CMACの活動によって、この15年間に約100万発の不発弾と40万発の地雷が撤去された。特に近年、日本企業が開発した地雷処理のための重機が導入され、地雷処理の速度はかなり速くなったそうだ。しかしいまだに、カンボジア国内には5-600万発の不発弾と4-600万発の地雷が残っているという。つまり、このままのペースで処理を行っていっても、カンボジアが安全になるのは、およそ100年後ということになる。
地雷

 カンボジアにおける地雷の問題点は、それが人々の生活圏内に埋まっているということである。高床式民家の軒下や、畑の中で見つかることもあるという。また、地雷処理が完了した土地に関する問題もあるそうだ。つまり、地雷原にすんでいる人々は貧困であるがゆえに危険な土地に住まざるをえないわけで、そのため、せっかく地雷を除去して安全な土地になっても、それを売り渡し、再び新たな地雷原へと移り住むのである。CMACではこの問題を解決するために、地雷原にすむ村人達に地雷除去の訓練をほどこし、彼らを雇用して経済的支援をしながら彼ら自身の手で除去を行う、というシステムを採用している。
不発弾を手に話をされる
山田さん
不発弾
 一方、不発弾に関する問題点は、それがお金になる、ということである。左の写真で山田さんが持っている40-50cm長の不発弾を解体して鉄くずとして売ると、約7$の現金収入になるそうだ。この現金収入をもとめて人々は金属探知機を手に不発弾を探し、解体するのである。不発弾の被害は解体中の爆発によるものである。



 日ごろ日本にいて見聞きする不発弾や地雷にかかるニュースは、それによる被害に焦点をあてたものが多かったように思う。そう思うのは、被害の悲惨さが私たちの感情に訴え、そして記憶されるからかもしれない。しかし、山田さんの話を聞いてはじめて気づいたことがある。それは、安全を売ってでもその日の生活をささえなければいけない、という貧困の問題であった。社会における諸問題は、いつも貧しきものの上に影を落とすのである。