概要

佐伯城は慶長6年(1601年)毛利高政が豊後(大分県)日田隈から入部し、既存の栂牟礼城を廃して番匠川河口近くの八幡山に新たに山城を築いたことに始まります。

慶長7年(1602年)から慶長11年(1606年)の6年の歳月をかけて築かれたそうです。3重の天守を中心に2重櫓、平櫓などが守りを固めていたといわれます。

元和3年(1617年)二の丸より失火、本丸と天守を焼失しました。

寛永14年(1637年)3代・毛利高尚のとき、麓に三の丸を増築し、藩主の居館が移されて三ノ丸が実質的な城 の中枢となりました。

宝永6年(1709年)山上の城郭は、荒廃が著しかったため6代・毛利高慶によって天守以外の建物が享保13年(1728)までに復興、修復されたといいます。

佐伯藩の版図は、海部郡の南半分現在の佐伯市のほとんどの地域と津久見市の南半分です。2万石と小藩ながら「佐伯の殿様浦でもつ」と称されたように、リアス式海岸を活用した漁業・海産物からの課税収入がかなりあったようです。特に干鰯といわれる肥料では佐伯産の評判が近畿地方でよかったといわれているそうです。

また8代藩主・毛利高標(藩主在位:1760〜1801)の時代、藩校「四教堂」の設置。

さらには藩主の学問好きが講じて「佐伯文庫」と呼ばれる8万冊の書物からなる図書館が設けられました。蔵書は四書五経。占・農・医などの一般庶民向けなど幅広いジャンル、更には洋書もかなり収蔵されていたようです。ただ10代・毛利高翰のときに貴重な本を2万冊選抜し、江戸幕府の 紅葉山文庫・昌平坂学問所(昌平黌)に寄贈したそうです。

幕末は財政難の中、11代毛利高泰は軍備の近代化を進め火薬や大砲の製造し、最後の藩主となる12代毛利高謙もその路線を踏襲し、佐伯湾内に砲台を築き海防に努めま した。


地図

現在の佐伯城

1871年(明治4年)に、佐伯県庁が置かれ
佐伯城は廃城となり、三の丸以外の建物は
すべて 払い下げ、撤去となりました。

1970年(昭和45年)三の丸御殿の一部を
解体、民間の建物として移築され、翌年、
跡地に 市立佐伯文化会館が建てられました。


本丸、二ノ丸・西丸

本丸と外郭南(東から) 本丸・天守台 本丸と外郭北(東から)

天守は3層で最上階に高欄がり千鳥破風、唐破風などがあったとされます。また現在は階段となっている本丸東面はそもそも高石垣で大型の2層櫓が睨みを利かしていたようです。

二ノ丸から本丸を望む 本丸と二ノ丸の掘割からみた本丸入口 本丸入口

二ノ丸と掘割 掘割

本丸と本丸外郭北(北から) 本丸外郭北から掘割 二ノ丸北側

本丸と二ノ丸の間には掘割があり往時は廊下橋でつながっていたといわれます。往時は本丸の唯一の出入口でした。

西の丸と二ノ丸を隔てた門の跡 二ノ丸から西の丸を望む
西丸から二ノ丸を望む 西丸の門跡 西丸・二ノ丸―掘割―本丸
三の丸からの登城道→ 残存敷石


北の丸

 

本丸外郭と北丸の境 北丸北側

北丸の北側若宮八幡宮からの登城道の北丸の門跡 北の丸入口から見たから見た本丸外郭と北丸の境


三ノ丸

大手門跡付近から見た三ノ丸櫓門八幡山の東の1画に、寛永14年(1637年)に築かれ藩の中枢機能が置かれました。
2010年現在で市立佐伯文化会館が置かれ、三ノ丸櫓門(黒門)と石垣と庭園が残るのみですが、御殿の一部は市内の住吉神社に移築されています。

三ノ丸櫓門

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三ノ丸からみた櫓門西面三ノ丸からみた櫓門東面

三ノ丸櫓門と市立佐伯文化会館


(住吉御殿・住吉神社)
住吉御殿玄関 住吉御殿

住吉御殿河岸側

参考] 佐伯城・攻 by 発つ犬、足跡がわかる・・・


中国と佐伯の毛利家の関係

毛利といえば中国地方の大大名を連想させますが・・・。

そもそも高政は木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に仕える森高政でした。

天正10年(1582年)備中高松城(岡山県)の水攻めの際、本能寺の変が勃発し毛利氏の和睦の人質となったことがきっかけに、毛利輝元から大いに気に入られたため「毛利」を名乗る ことを許されたようです。