概要

永享6年(1434年)から文安元年(1444年)に伊東の田嶋休祐が、鶴松山の近世から松尾丸と
呼ばれている一帯に田嶋之城を構えたことが始まりとされます。

築城の経緯として、13世紀の中頃に伊東祐明が佐土原に下向し田嶋となり土着していました
が、南北朝の騒乱により本家筋の伊東祐持が、北朝より恩賞として日向国の都於郡を拝領し、
それにともない下向してきたことを、脅威に感じたためといわれます。

結局は下向してきた本家筋の伊東により以前から土着していた分家は次々と吸収再編されて
いったようです。この時期から、この一帯を佐土原と呼ぶようになったようです。

天文5年(1536年)伊東祐清(後の伊東義祐)が、本拠地を都於郡城から佐土原城に移した
ものの天文6年(1537年)、佐土原城は火災で焼失した。暫定的に本拠地を宮崎城へ移し、天文12年(1543年)にかけて、佐土原城を再建拡張。南城(南之城)と呼ばれる曲輪を新築して本拠地としました。元々城があった場所は松尾之城(高尾之城)とし出城・曲輪としたといいます。
この頃から鶴松城とも呼ばれたようです。

永禄3年(1560年)子の伊東義益が家督相続し、都於郡城主をかね、伊東義祐自身は佐土原城
を隠居城とし城下町を京都風に変貌させていったといわれます。また永禄12年(1569年)には。
飫肥を奪取し、伊東四十八城と呼ばれる拠点を日向全土に展開していたこの頃が、伊東
全盛期でした。

元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで伊東は島津に大敗、さらに天正4,5年(1576〜1577年)
の伊東崩れと呼ばれる島津の進攻と家臣団の反乱により、伊東義祐と三男で飫肥城主の伊東祐兵が日向を去って豊後に落ち延びていきました。

天正12年(1584年)島津家久が4000石知行を持ってを佐土原城に据えられ日向国の差配を任されました。天正14〜15年(1586〜1587年)の豊臣秀吉の九州平定後に、島津家久が急死し、
遺領は嫡男の島津豊久が相続しました。

慶長5年(1600年)関が原の合戦で島津豊久は討死してしまい、佐土原城は徳川家康の家臣:
庄田三太夫が預かりました。

慶長8年(1603年)、島津義久・義弘の甥である島津以久(島津貴久の弟・忠将の子)が、日向国那珂郡・児湯郡内に3万石を与えられ、佐土原城を居館としました。

慶長16年〜17年(1611〜1612年)にかけて、二代藩主:島津忠興によって城が増強されたとも
されますが、寛永2年(1625年)には、山の上の建物を壊して、麓にある二の丸御殿を造営し居館
を移され松鶴城と呼ばせたようです。

元禄3年(1690年) 島津惟久が家督を掌握した際、幕府の意向により3千石を島津久寿(前代藩主とも番代とも)に分与され、佐土原藩の石高は2万7千石となりました。一方で元禄12年(1699年)に城主の格式が与えられました。これは佐土原は元々城地であったことを
考慮されたとも思われます。

幕末は、薩摩藩と行動をともにし、島津忠寛は、明治2年(1869年)に戊辰戦争の激戦の功により、賞禄3万石を与えられました。

明治3年(1870年)に広瀬(現・宮崎市佐土原町広瀬)に藩庁が移転したため、建造物は全て
破却された。広瀬城が藩庁として築城されていましたが、廃藩置県により、こちらも中断取り壊しとなりました。

佐土原県、美々津県をへて宮崎県となり、鹿児島県との合併を経て、分県に伴い再度、宮崎県
に編入されました。

平成5年(1993年)、発掘調査の成果をもとに大広間、書院、数奇屋からなる二の丸御殿の一部
が復元されました。現在では、北西の御普請所跡に設けられた出土文化財管理センターとともに
宮崎市立佐土原歴史資料館を構成しています。


地図

佐土原城地図


二の丸御殿

近世の佐土原城は鶴松山と弁天山麓に
二ノ丸御殿を西には代官所、その北に
御普請所跡があり、二ノ丸御殿の北側には
中屋敷が、東には堀をはさんで三の丸が
あったようです。

表門

二の丸御殿大広間

photo by kazuwanco from フォトフレンド for マイポケット

御殿見取り図二の丸御殿庭園

 

復元された二の丸御殿は奥(北西)から数奇屋-書院-大広間とあり、大広間の玄関・車寄の屋根が唐破風となっています。また数奇屋-書院-大広間は展示スペースとなっています。

二の丸御殿の庭については、発掘等で様子が確認できなかったので時代考証と景観を配慮して作庭されたようです。

ちなみに弁天山には中世には狼煙台が設置されていたとされ、延宝3年(1675年)には時を告げ
るための太鼓が設置されたといいます。



島津家久・豊久(前島津)

島津家久は沖田畷の戦いで龍造寺隆信を戦死に追いやった功績が認めら4000石知行を持って佐土原城に据えられ日向国の差配を任されました。ちなみに島津家久は島津当主の島津義久の末弟にあたります。若年の頃より祖父・島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評されていたといいます。

天正14〜15年(1586〜1587年)の豊薩戦争と豊臣秀吉の九州平定では、島津家久は豊後の
戸次川の戦いで長宗我部信親や十河存保らを討死に追いやるなど活躍しましたが、島津義久・義弘が降伏する前に豊臣秀吉の弟の豊臣秀長と単独講和しました。直後、佐土原城で急死しました。病死とも暗殺とも言われています。遺領は嫡男の島津豊久が相続しました。

この島津豊久は慶長5年(1600年)関が原の合戦で当主の島津義弘の身代わりとなって討死してしまいました。


天守について

天正年間(1573〜92)に描かれたとされる「佐土原城絵図」には三重天守が描かれ、平成8年
(1996)年の発掘調査で天守台跡と桃山様式の金箔瓦の破片が見つかりました。本邦最南端といえた天守の存在が確認されました。ただ出土瓦の年代も伊東、島津のいづれのものもあり、天守がいつ築いたのかなど詳細はまだ判っていません。さらには三重ではなく二重だったとの指摘もあります。

寛永2年(1625年)には、山城部分の建物を壊したとされますが、三代藩主:島津久雄まで天守
など一部は残っていたのではとの指摘もあります。


松木騒動

延宝4年(1676年)5代藩主・島津忠高が没し、嫡男である島津惟久は幼少であったため、 成長するまで、島津忠高の従兄弟である・島津久寿が養子となって家督を継ぎました。

島津久寿を藩主としてカウントしたり、番代として藩主カウントしなかったり、資料によりまちまち
な扱いですが、佐土原藩内では、島津久寿の父:島津久富や重臣:松木左門が対立するなど、
貞享3年(1686年)には薩摩藩の介入を招くこととなりお家騒動へ発展しました。

なお、前述のように元禄3年(1690年) 島津惟久が家督を掌握した際、幕府の意向により島之内3千石を島津久寿に分与され、佐土原藩の石高は2万7千石となりました。


佐土原島津家の家格

島津以久の跡を直系というべき島津久信(以久の長男:彰久の子)が辞退し、佐土原藩主の座は、島津以久の3男:島津忠興が継ぎました。ちなみに、島津久信自身は大隅垂水1万8000石を領し、子孫は島津宗家の一門家4家の一つ垂水島津家となりました。

大名である佐土原島津家の方が、陪臣である垂水島津家より格上でありながらも、島津基準では垂水島津家の分家としての佐土原島津家という位置づけだったと言われます。

薩摩藩の支藩でありながらも、江戸時代を通じ本藩へ藩主を送り出すことも、逆パターンの薩摩藩主子息を佐土原藩主として迎えることはなかったのですが、代々の佐土原藩主正室には宗家島津氏の姫や家老の娘を含む薩摩藩出身者が多く、薩摩藩から佐土原藩への介入など弱い立場だったといえます。