概要

延岡城の別名として、縣城、亀井城があります。 天正15年(1587年)の、秀吉による九州攻めに協力した功績で日向国縣5万3千石を高橋元種が与えられました。

高橋元種は大友に滅ぼされるまで臼杵郡・縣の支配者であった土持の居城:松尾城(縣城)に入城しましたが、慶長6年(1601年)に新しい築城を始め、慶長8年(1603年)に落成しました 。

新たに縣城としたこの城が今日の延岡城です。 城山に本丸、二ノ丸、三ノ丸の3区と常時の城主の居館として西ノ丸から構成され、五ヶ瀬川と大瀬川を天然の外堀とし、城山の周辺に内堀が掘られました。

また天正6年(1578年)の豊後大友による土持攻めの際に焼き払われた神社仏閣の再興など城下町の建設も行われました。

しかしながら、高橋元種は慶長18年(1613年)にかつて罪人を匿ったとして改易されました。
実際は幕府の外様つぶしとも、大久保長安と縁戚関係にあったためとも言われています。

縣藩は慶長18〜19年(1613年〜1614年)幕府預かりとなり、豊後臼杵藩主:稲葉と肥前人吉藩主:相良の管理下におかれました。

慶長19年(1614年)、肥前国日野江藩(島原藩の前進)より外様大名の有馬直純が5万3000石で入封しました。

第2代藩主:有馬康純は縣(延岡)城を修築し、明暦元(1655)年には本丸東に三階櫓を完成させたそうで、城下町を整備し、地名を延岡と改め城も延岡城と改めたとされます。

第3代藩主:有馬清純は弟の有馬純息に1800石、有馬純富に1000石の新田をそれぞれ与えています。 天和3年(1683年)の火災で三層櫓は焼失し、以後再建されませんでした。

元禄3年(1690年)には山陰・坪谷村一揆が起り、元禄4年(1691年)一揆首謀者の処刑と同時に、藩主:有馬清純は改易されました。

元禄5年(1692年)、譜代大名の三浦明敬が下野国壬生藩より2万3000石で入封した。 それまで延岡藩の石高は表高5万石の割りに実高が小さすぎたための是正した言われます。 以後、
延岡藩は最南端の譜代大名藩となりました。山陰・坪谷村一揆の後処理、有馬時代より続いていた高鍋藩などとの国境紛争の解決に尽力しました。 ただ正徳2年(1712年)には三河国刈谷藩に転封となりました。

代わって三河国吉田藩より牧野成央が8万石で入封しました。その際、豊後国大分郡・国東郡・速見郡に飛地を領有しました。

第2代藩主:牧野貞通は、奏者番、寺社奉行と累進し寛保2年(1742年)に京都所司代となりました。その際、日向国内の3万石分を河内・近江・丹波・美濃の領地に移されたといいます。

藩主:牧野貞道の出世は一方で経費が嵩み藩財政は困窮したといいます。延享4年(1747年)常陸国笠間藩に転封となりました。

代わって陸奥国磐城平藩より内藤政樹が7万石で入封しました。表高は変わりませんが元文3年(1738年)に磐城平藩で起きた百姓一揆:磐城騒動の責任を取らされる格好で転封されたといわれます。磐城平が実高13万石といわれます。

以後内藤が在封し124年間この地を治めました。内藤氏の統治時代は財政難とそれに伴う百姓一揆に悩まされ続けられました。 なお、延岡藩主:内藤8代は全て養子相続という珍しいことになりました。 特に第6代藩主:内藤・政順は商人の営業特権を強制収奪し専売制を強化し、蝋・和紙・菜種などの生産に力を注ぎました。

井伊直弼の実弟で第7代藩主:内藤政義は藩校学寮を広業館と改め拡充に努めたといいます。

第8代藩主:内藤政挙は譜代大名として佐幕の立場を採り倒幕派の南九州諸藩の中にあって苦況に立たされたようです。


地図

延岡城地図

明治3年(1870年)に城を薬園として活用
することを新政府から許され、廃城となり
ました。

なお城主の居館であった西ノ丸には、
現在、延岡藩の資料や能面、書、絵画が
展示しする内藤記念館があります。

また御馬屋跡には、平成9年(1997年)
複合文化施設「カルチャープラザのべおか」
が建てられています。

建設に先立って1年半発掘調査が行われ内堀、御馬屋建物基壇が検出され、陶磁器、漆器などの遺物も見つかりました。また弥生後期の土器や木製農具、建築部材、さらには
人の足跡も確認されたそうです。

現在、城山の天主台跡には、鐘付き堂があり、6時、8時、10時、12時、15時、17時に鐘守の手によって時が告げられています。


天守台・本丸

本丸からみる二階櫓門跡

延岡城の本丸は、南の二階櫓門を正門とし、
東に天守台、 東端には三階櫓、北と西の外れ
北端に二階櫓があったようですがはっきりしま
せん。なお天守台に沿うように本丸庭園 が
あります。

二階櫓門跡

本丸石垣西側本丸南西石垣

二ノ丸から見る千人殺しといわれる本丸高石垣

photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド

本丸高石垣・千人殺し北側

本丸西外れ二階櫓台

延岡城の代名詞である「千人殺し」の高石垣は
本丸の北側、北大手門の後ろに控えています。

広くとらえれば本丸の西側石垣も含まれます。
かなりの凹凸があり、ゴツゴツとした感じです。

「千人殺し」とは石垣に細工があり一部を外すと石垣が崩れ、攻め込んできた敵が巻き添えを喰らい千人は殺せるということらしいです。

なお本丸の東と南、西の外れは所々に、石垣がありますが原生林が茂る崖となっています。


天守台

天守台虎口天守台虎口西石垣

本丸帯曲郭(北)から見る天守台

天守台は本丸の東を占めています。なお平成14年(2002年)年に度末にかけ、絵地図で示された天守台虎口に当たるの北側を発掘したところ、両側に石垣と岩を削った8段の階段、さらには絵図にはない門の礎石3つが検出されました。将来は虎口の復元を考えているそうです。

天守台と言われていますが、事実上の郭です。一説に5層天守があったとも言われますがわかっていません。

現在は、「城山の鐘」のある鐘つき堂と鐘守の宿舎があります。

「城山の鐘」は明暦2年(1656年)に有馬2代目藩主:有馬康純が蓬莱山八幡宮(今山八幡宮)に寄進したものです。 初代の鐘が時を告げ始めた明治11年(1878年)から、市民に時を告げ続けています。

ちなみに初代の鐘は内藤記念館に 現在の2代目の鐘は昭和38年(1963年)市民からの浄財によって作られたそうです。

ただし城山の鐘はあくまで時報であり、つくことができません。毎年6月10日の時の日にはイベントがあるそうです。


三階櫓跡

三階櫓北西隅

南登城口からみる三階櫓台北側

本丸帯曲郭(東)からみる三階櫓跡

天守台を囲む本丸帯郭の東にあった事実上の天守の代用の櫓だといわれています。

崖の下にかつては石御門があり、南大手門からの登城道に睨みを効かしていました。

三階櫓台を下から見上げると岩の上に設けられたことがわかります。ちなみに高橋元種の時代の絵図内にも、 三層櫓が描かれているそうです。


二ノ丸・三ノ丸

北大手門

二の丸の北大手門は発掘調査や絵図を基に平成5年(1993年)に復元されました。

北大手門西二ノ丸石垣""

北大手門の北西には、最後の藩主家となった内藤家の墓地が五ヶ瀬川の改修工事に伴い三福寺から明治42年(1909年)に移されています。

ただ、墓域中央にあった位牌堂は平成15年(2003年)に東京天徳寺に移設されたそうです。

二ノ丸石垣二ノ丸石垣西面入隅本丸からみる二ノ丸二階櫓跡

城の管理棟などが二の丸跡の北に置かれ、往時は西隅に二階櫓があったようです。

二ノ丸石垣南面二ノ丸二階櫓櫓台二ノ丸二階櫓櫓台西側

北大手門南側

二ノ丸からみた北大手門東石垣

現在、城跡の随所に郷土の偉人を顕彰する記念碑や
戦没者の慰霊碑が設置されています。

広場や遊具なども設置され市民の憩いの場となって
います。


三ノ丸

三ノ丸庭園

photo by kazuwanco from OCNフォトフレンド

三ノ丸石御門南石垣

三ノ丸石御門南

三ノ丸に庭園が残っています。また東の方には
石御門跡があります。

かつては石御門の南の崖の上には三階櫓が睨み
を効かせ、北は石垣で守りを固めていました。

 

そもそも、搦め手(裏口)とも称された南大手門から石御門の登城道がありましたが、現在は ルートが変更され石御門跡から城山を下ることはできません。

南大手門跡の付近には、冠木門の扉のないものと、歴代藩主を刻んだ石碑があります。その南には駐車場が広がっていますし、三の丸の北側にも駐車場が広がっています。

三ノ丸北の郭石垣北東面 三ノ丸北の郭石垣

参考] 延岡城・攻 by 発つ犬、足跡がわかる・・・


西の丸

西ノ丸北の櫓台

西ノ丸階段

西の丸正面

二ノ丸西外郭からみる西の丸

西ノ丸は城山の北西で少し離れたところにあり、城主の居館となる御殿が置かれました。廃城ごも内藤の私有地となっていましたが、 明治14年(1881年)に延岡市へ寄贈され ていました。

しかしながら1945年(昭和20年)太平洋戦争に伴う空襲によって焼失してしまいましたが、 昭和38年(1963年)には、西の丸に市制30周年記念として現在の、内藤記念館が開館しました。


高橋元種

高橋元種はそもそも筑前の秋月から豊後の大友家臣団の高橋鑑種へ養子となった人物です。 天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐で降伏し、日向国縣(延岡)に5万3,000石を与えられました。

ちなみに、父:秋月種実は豊臣秀吉と一戦交え敗北し、日向高鍋(延岡より南)3万石に減移封され、家督を嫡男の秋月種長に譲って隠居しました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄:秋月種長と行動を共にして本戦で西軍が敗れると東軍に内応し、徳川家康から共に所領を安堵されました。

しかしながら慶長18年(1613年)に、人を討って逃走した宇喜多左門(水間勘兵衛・坂崎左衛門)というお尋ね者を領内の高千穂に匿ったとして、同じ理由で宇和島12万石の藩主:富田信高とともに改易されてました。ただし実際は幕府の外様つぶしとも、大久保長安と縁戚関係にあったためとも言われています。

高橋元種と長男:高橋左京は、高橋元種の義理の甥にあたる陸奥国棚倉藩主:立花宗茂(後に筑後国柳川藩主)にお預けとなりました。なお、長男:高橋左京は、初め棚倉藩立花、次いで陸奥二本松藩丹羽に仕え、子孫も代々丹羽氏に仕えることとなりました。 次男:高橋長吉は薩摩島津の家臣となりました。


有馬清純のその後

元禄3年(1690年)には山陰・坪谷村一揆が起り、元禄4年(1691年)一揆首謀者の処刑と同時に、藩主:有馬清純は改易されました。改めて陣屋(無城)大名に格下げられ、越後国糸魚川藩5万石に転封となりました。しかしながら、元禄8年(1695年)越前丸岡藩5万石にへ移封となり城持大名に復帰。子の有馬一準は正徳元年(1711年)に外様大名から譜代大名となりました。


豊後の飛地

正徳2年(1712年)の牧野入封以来、維新まで豊後国には、大分郡35ヵ村(大分市)、国東郡
32ヵ村(豊後高田市)、速見郡16ヵ村(由布市・湯布院)に延岡藩の飛地合計約2万石が点在してました。

当初は大分郡の山津に役所が置かれ、正徳5年(1715年)には千歳に移され豊後の飛地を総括していたそうです。

ただ、豊後国内で最も遅く領地が形成されたため幕府領だった場所もあるのですが、相給
(複数藩による支配)や他の領地のなかにぽつんと領地が設置された村もありました。

鶴崎城(御茶屋)、千歳城・役場


内藤政義と井伊直弼

近江国彦根藩主:井伊直中の十五男。井伊直弼(井伊直中の十四男)の同母弟に当たります。 天保5年(1834年)彦根藩主であった兄:井伊直亮(井伊直中の三男)により、兄:井伊直弼とともに 嗣子のいなかった6代藩主内藤政順の養子候補者として兄弟二人で彦根から江戸へ呼ばれました。選考の結果、井伊直恭は内藤政順と養子縁組し、名前を内藤政義に改めた。

なお、井伊直弼は翌年に彦根へ帰国し、部屋住みが続きました、弘化3年(1846年)、藩主後継者の井伊直元(井伊直中の十一男)が死去したため彦根藩の後継者となりました。嘉永3年(1850年)井伊直亮の死去を受け家督を継いで第15代藩主となり、安政5年(1858年)には大老に就任。江戸城桜田門外の変は安政7年(1860年)でした。

ちなみに、8代藩主内藤政挙は、井伊直弼の安政の大獄に反発し、老中を罷免された遠江国
掛川藩主5万石:太田資始の6男です。


廃藩置県と宮崎県

明治4年(1871年) 廃藩置県により日向国の当時の藩がそれぞれ延岡県・高鍋県・佐土原県・飫肥県、肥後の人吉藩の領土は人吉県、幕府領には富高県(後に日田県へ編入)となりました。

第1次府県統合により延岡県、高鍋県、佐土原県を統合し、日田県のうち旧富高県、人吉県のうち臼杵郡椎葉地方4村の移管を受けて美々津県が、飫肥県が廃止され、鹿児島県の一部の移管を受けて、日向国南部、大隅国東部は都城県に再編されました。

その後明治6年(1873年)に旧日向国の領域をもって宮崎県が設置されました。県庁を県の中央部に設置することとなり宮崎郡上別府村(宮崎市)に県庁が移されたそうです。

しかしながら、明治9年(1876年)に宮崎県は鹿児島県に合併されました。
明治10年(1877年) 西南戦争により旧宮崎県域も戦場となったものの、戦後、鹿児島県が薩摩・大隅の復興を優先したことへの反感が募ったといいます。

明治16年(1883年) 川越進などによる分県運動の結果、日向国のうち志布志郷・松山郷・大崎郷を除いた地域をもって、宮崎県の再置がなされました。