NPO法人環境研究所豊明



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まとめ




二村山の切られ地蔵


二村山 鎌倉街道


戦人塚

2010年生涯学習講座“ぶらり豊明おもしろ発見!”

6/5(土)豊明市二村山、戦人塚 歴史の地巡り

二村山〜濁池〜大狭間池〜戦人塚〜おらが田んぼ〜田楽ヶ窪〜二村山

【資料】
地名の由来

二村山

(前略)二村山は古代鎌倉街道や中世の鎌倉街道の通過地点に当り、山麓にあった両村駅または両村郷からその名が由来したという。(中略)

絶景地であった二村山は、古来より街道を行き交う人々を魅了し、和歌に詠ぜられ、旅の記録に著述された。天暦5年(951)に成立した「後撰和歌集」に収められた清原諸実(キヨハラノモロザネ)の歌「くれはとりあやに恋しくありしかば二むら山もこえずなりにき」が二村山を詠んだ最も古い歌とされている。紀行文では、寛仁4年(1020)に東国から京に向かった菅原孝標(スガワラノタカスエ)一行が二村山山中の柿の木の下で野宿した様子が「更級日記」に書き留められている。特に鎌倉時代には、「海道記」の著者が二村山の絶景を称えるなど、鎌倉街道随一の名勝とされ、「続古今和歌集」には源頼朝の歌「よそに見しをささが上の白露をたもとにかくる二村の山」が収められている。(後略)

 

両村駅

古代の東海道に設置された駅家(えきか・うまや)のひとつで、市北部の沓掛町内に所在したとされる。(中略)「延喜式」によれば、尾張国内では、都に近い方から馬津駅、新溝駅、両村駅が設けられた。「豊明村の伝説」は,二村山の南麓で、皿池と峠前の境付近(皿池の北東)にあった「まやど」という地名は、駅家が所在したことに由来するとし、二村山の西麓にあたる間米の名称もかっては「馬篭」と書き、駅家に関連するものとしている。「豊明町誌」は、駅家が「馬篭」から「まやど」に変わったと想定している。また、9世紀半ばに東国へ下る途中の在原業平が、軒先に藁沓が吊るしてあるのを見て両村から沓掛に改めたという由来もある。このような由来から、古代の東海道は中世の鎌倉街道へと引き継がれ、両村駅は沓掛宿に継承されたと考えられてきた。しかし、近年、天平17年〜天平勝宝年間(745757)ごろに製作された瓦が出土した上高根行者堂遺跡の発見によって、沓掛町上高根地内に両村駅が存在したという説が浮上してきた。奈良時代には瓦葺き建物は官の施設に限られていたことから、同遺跡周辺に駅家があった可能性が高いという。この場合、市内における古代の東海道と鎌倉街道の経路は異なることになる。

二村山 鎌倉街道

古道として、鎌倉街道の名残の道があり、文政年間、刈谷藩家老、浜田与四郎が領内の鎌倉街道を調査した報告が、碧海郡誌に載っているので、本市に関する部分を抄出すると、

「西境村中を通り、尾参両国の境川を越え(注、図中、境川近く天王とある所)大久手村を通り(注、十三塚を経ると)道の側に榎(注、実は樟)の古木(注、図中、青木地蔵と記す)あり、昔の道筋の由、里人申伝ふ、程なく宿と申村へ至り、昔の有姿を聞侍り候らへば、八橋を野路の宿と申せし時、当村も宿にて、人馬継致せし所なりと申聞候、宿名如何に候やと尋ね候へば、其儀覚えず、只、宿とのみ申伝へ候由、右村を出で、山添にかかり遥の山道を過ぎ漸く峠に至り候らえば、小堂御座候、五尺余りの石地蔵二体立せ給ふ、左の一体は、昔、夜な夜な化身ありて、往来の人結納ありしを、返って何人か袈裟切に切り落し候段、里人の物語に候、今半身計りこれ有、背の方に大同二年建立と彫刻の字認めこれ有、此山を峠と里人年来申来り候へ共、もと二村山とて古名顕然たりし街道のみぎり、貴人方の賛歌等数多く御座候、今は二村山の名知る人稀なり。

ここを過ぎ、西の方へ下り、数十丁谷間坂道を歩行漸く相原村と申へ出で、尋ね候得ば、是より鳴海 西 山王森へ出で、東海道と一所に相成候由に付 道を求め候処 永緑の頃 近辺合戦の時 砦等諸所に築き、古道も遮りこれ有 かすかの畔道相尋ね 山王森に出申候

二村山峠地蔵尊
 
市の最高地・二村山頂に近い地蔵堂に安置されている3体のうち、向かって左の頭部のない高さ約115cmの地蔵尊で、背面に「大同二」(807)の刻銘がある。いつの頃か、旅人が熊坂長範という盗賊に襲われたとき、地蔵尊が身代わりとなって切られ、肩から上が欠落したという伝説が生また。  

二村山切られ地蔵
 
二村山頂に安置されている。胴体が斜めに切られた形で、上半身と下半身が別々になっている珍しい地蔵尊。下半身の背面に「古来仏依会大破建立之延宝七已未年(1679)」の刻があり、二村山峠地蔵尊の伝説を元に建立されたものと思われる。  

伊藤両村先生之碑
 
伊藤両村の業績をたたえるため、門人によって碑を建てる話が持ちあがり、生前の嘉永6年(1853)に両村が愛したゆかりの二村山に建てられた。碑文には両村の人となりや業績がおよそ800字の漢文によって刻まれている。

戦人塚

戦人塚は、永禄3(1560)桶狭間の戦いにおける今川軍の戦死者2,500余人を、曹源寺二世快翁龍喜和尚が供養した塚といわれている。また一説には、織田信長が部下に今川軍の死者を検分させ、その遺骸を集めさせた塚でもあるともいわれている。塚の上に石碑があり、南面に「戦人塚」、東面に「永禄三年庚申五月十九日」、西面に「南無阿弥陀仏」と記されている。元文4年(1739)、この塚で180回忌の供養が営まれた際に建碑されたとされる。 この戦いで戦死した者は、今川軍二千五百人、織田軍八百三十人ほどであったと伝えられている。

仙人塚

市内に残る歴史的地名。地名の起こりは桶狭間の戦い以後のことである。このあたりの戦場の血生臭い様子を早く忘れたいという人情から生まれ、地名として残されたのであろう。

桶狭間古戦場伝説地                          永禄3年(1560)5月19日、今川義元と織田信長が戦った古戦場。文化6年(1809)秦鼎の撰文により津島の神主氷室豊長が建てた「桶峽弔古碑」に『永禄3年、駿侯西征し、5月19日桶峽の山北に陣す、織田公奇兵を以って之を襲い、駿侯義元を滅す』の一文がある。
ほかには、明治9年(1876)の「今川治部大輔義元墓」、「松井兵部少輔宗信墓」、万延元年(1860)の仏式による「今川義元供養塔」などがあり、最も古いものは、明和8年(1771)に建てられた今川義元、松井宗信のほか5人の武将の碑である「七石表」が残されている。

濁池

昔、山賊の熊坂長範が二村山で旅人を切った刀をこの池で洗い、それ以来この池が濁ったとの伝説があり、濁池の名はそれから出たという。文政年間(181830)の間米村の絵図によると、濁池の堤を通る道に「鎌倉」と記されており、これは鎌倉街道を意味すると考えられる。(後略)

 

田楽ケ窪  デンガクガクボ

地名の初出は、室町時代の連歌師宗祇の「名所方角抄」で、尾張国内の地名として、鳴海・藍原宿(相原宿)・「田楽が窪」・沓掛・境川が道筋順に記されている。また仁和寺の僧尊海の「あづまの道の記」では、尾張国の「や菜」に宿泊した尊海が「田楽が窪」を通る際に、山賊に嚇かされている。さらに、連歌師里村紹巴の「富士見道記」では、永禄10年(1567422日に九之坪城(北名古屋市)において簗田出羽守とその子息から歓待をうけた紹巴は、24日同じく出羽守の持ち城である沓掛城までの10里弱の道程を歩む途中に、「田楽がくぼ」を通ったが、物騒な峠であるためか、出羽守の家臣が迎えに来て、裕福寺に宿泊したとしている。なお武田信玄に関する合戦や裁判の記録「甲陽軍鑑」には、今川義元が討死した場所として、「でんがくがくぼ」が出てくる。同書は元和年間(161524)に成立したとされているが、定かではない。

間米

(前略)間米は、「馬篭」から変化した地名で、近くを通る鎌倉街道に由来すると伝えられ、寛文年間(166173)には村名を「孫目」と記した。その集落は、濁池から南下する黒部川の東側高位部に形成され、ここからの出郷として南側に八ツ屋があった。(後略)

五軒屋新田

現在の前後町発祥の地である.間米村の出郷として5軒の家が東海道沿いに建ち、延宝年間(167381)の頃三ツ谷から3軒、阿野村の藤手から9軒が引越して17軒となり、延宝8年(1680)には検地が行われて一村立ちした。街道沿いの立地条件を生かして往来する人々を相手に小商いや往還稼ぎをする街村の性格を強めた。「尾張徇行記」によれば文政5年(1882)頃、高約155石と小さい割りに戸数が72軒と多く、寛保3年(1743)から春と秋に10日間市が立ち、米や農具などが商われて賑わったが今は廃れた、と書かれている。(中略)五軒屋新田は通称「前後」と呼ばれた。(後略)

前後

五軒屋新田の村立(延宝8年・1680)以前に、間米村の郷として、五軒屋(慶安元年・1648)・八ッ屋(寛文年中・166173)・三ッ谷(出来不詳)の3ヶ所ができた。いずれも名前の数字は件数を表す。間米村の本郷からみると、八ッ屋は南に、さらに南方に五軒屋があった。そこで、この五軒屋のことを寛文年中以後「前郷」と呼ぶようになった。(中略)

江戸期には、新田開発によって成立した村名は「何々新田村」、または新たに「何々村」というように「村」の字を付けることは幕府の禁令となっていた。五軒屋新田は、私的に「ゼンゴウムラ」と呼び、表記は「前後村」に、更には「善江村」となった。藩籍奉還後、五軒屋新田の村名に変えて前後村と表記した公文書がある。(後略)

間米八幡社

寛政11年(1799)、3か月間1滴の雨も降らず氏子全員が祈願したところ、三日三晩雨が降り続き、田畑は潤ったという。村人は喜んで本殿の雨覆を建立したと棟札に記されている。この棟札は現存している。

字名

廻渡 マワリド
榎山 エノキヤマ
純掘 ドンボリ
燗坂 カンザカ
武侍 タケジ
螺貝 ホラガイ
大狭間 オオハザマ
五軒屋 ゴケンヤ
仙人塚 センニンヅカ
鎌ケ須 カマガス
槍ケ名 ヤリガナ