NPO法人環境研究所豊明

2011年生涯学習講座
第1回 濁池一周

第2回 桶狭間古戦場跡地


第3回 鎌倉街道

第4回 阿野町



2010年生涯学習講座
第1回講座

第2回講座

第3回講座

第4回講座




古戦場公園


七石表


弔古碑


信長と義元の銅像
桶狭間古戦場公園(名古屋市)
2011年建立



桶狭間古戦場伝説地
時代不明


桶狭間古戦場伝説地入口
時代不明
2011生涯学習講座“ぶらり豊明おもしろ発見!”
 第2回“ぶらり豊明おもしろ発見!”桶狭間古戦場巡り    
 日時:2011年11月26日(土) 

豊明市と名古屋市の桶狭間古戦場跡地を歩きました。

コース:桶狭間古戦場 伝説地 七石表碑 馬つなぎのねず 今川義元墓碑 弔古碑   義元仏式の墓碑 おばけ辞地蔵 高徳院 桶狭間古戦場跡碑 タブの巨木 松井宗信墓 鷺の森碑  (豊明市)
桶狭間古戦場公園 瀬名氏俊陣地跡 長福寺 七ッ塚 釜ヶ谷  (名古屋市)

桶狭間の戦い
 天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)からさかのぼること40年。日本中が戦国大名どうしの戦いに明け暮れていた永禄3年(1560年)、尾張(現在の愛知県西部)において、日本の歴史にその名を残す戦いが起きた。「桶狭間の戦い」だ。戦ったのは、当時駿河、遠江(現在の静岡県)で強大な勢力を誇っていた今川義元と、尾張を統一したばかりの小大名織田信長。力の差は歴然だったが、大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、織田信長は自ら先頭に立って出陣し、「桶狭間」で義元を打ち破り、歴史的な勝利を飾った。その後、信長は東海・北陸・近畿へと勢力を拡大し、豊臣秀吉の天下統一、徳川家康の江戸幕府へつながる礎を築いたのである。

通説とされてきた『日本戦史 桶狭間役』
 今までの通説では、今川義元は駿河・遠江・三河の三か国、百万石の太守で、永禄3年に上洛を目指して駿府を出陣。二万五千の大軍を率いて尾張国・沓掛城に入った。(中略)
 家臣・簗田(やなだ)出羽の守が「今川義元は、田楽狭間に休憩中」との情報をもたらし、「今こそ勝機」と今川軍に動きを悟られないよう、戦場を大きく迂回し、義元を見下ろす太子ヶ根山に至り、戦機を待った。今川軍は、信長の動きについて全く気付いていなかった。突然、激しい雨が降り始めた。雨脚が弱まるのをみはからって山を駆け下り、義元本陣の側面から切り込んで義元の首を打ち取った。この「迂回奇襲」戦法が定着し、日本史上における代表的な奇襲作戦として認知された。

『信長公記』に基づく通説の見直しの動き
 近年、桶狭間の戦いに関する研究は大きく進展し、従来の信長の「迂回奇襲」の通説は否定されつつある。『信長公記』を元に合戦を再検証し、1982年「信長は迂回奇襲したのではなく、正面から義元本陣を攻撃した」とする「正面攻撃説」が主流となってきた。
 「義元の出陣目的は、上洛ではなかった」「義元が休息していたのは窪地ではなく山の上だった」という説が唱えられるなど様々な面で通説の見直しが進んでいる。これほど有名な合戦でありながら、その実態は判然としない部分が多く、いまだに謎に包まれている。桶狭間の戦いのイメージを作り上げたのは明治期に刊行された参謀本部編さんの『日本戦史 桶狭間役』であった。公的機関が編さんしたので信ずべき史料とされてきた。ところが本書を見直すと、創作性が強く史料的価値が低いとされる小瀬甫庵の『信長記』などに史料が依拠しており、近年になって問題点が指摘されることとなった。


桶狭間古戦場伝説地
 永禄3年(1560)519日、この地で今川義元が織田信長に攻められ戦死した場所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。
 戦いについては不確かなことも多く、合戦の舞台も諸説ある。この豊明市にある「桶狭間古戦場伝説地」は古くから義元の墓と伝えられる墓があり、全国的にも桶狭間古戦場として知られていたため、昭和121937)年に国指定史跡になっている。
 今川義元が戦死した場所はどちらかよくわからないが、名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園も1kmほどしか離れていないため、今川軍の大軍はこのあたり一帯に布陣していたのは確かである。

今川義元の墓
 以前、ここは塚だったが、有松の住人山口正義が主唱し明治9年(1876)5月に、この墓碑を建てた。自然石に「今川治部大輔義元墓」と刻まれている。
近くには、今川義元仏式の墓碑もある。万延元年(1860)に建てられたもの。

七石表 1号碑は今川義元のもの
 明和8年(1771)、尾張藩の人見弥右衛門桼(勘定奉行)・赤林孫七郎信之(小納戸役)が建立。今川義元と家臣の松井宗信ら、計7基の塚が建てられた。(国指定史跡)

縁起(今川義元公の亡霊) おばけ地蔵
 桶狭間合戦で戦死した義元は、42歳だったと伝えられている。その後、まさかの戦没に今川義元公は浮かばれない亡霊となって、この地を漂ったとされ、毎年旧暦519日になると、白馬の武将がこの地を駆けめぐり、その姿を見た事を口外するとなくなるという言い伝えがこの地に在った。この為、境内には「幽霊地蔵・おばけ地蔵」と言う江戸時代末期に建立されたお地蔵様が残されている。

おけはざま山
 桶狭間の戦いに従軍した太田牛一が著した『信長公記』の研究により、今川義元が本陣を構えたのは「おけはざま山」との説が有力視されている。「おけはざま山」は特定の山の名称ではなく、名古屋市緑区から豊明市にかけて広がる丘陵と考えられている。
 義元がどこに陣を張り、最終的にどこで打ち取られたかについては、「おけはざま山」の西側と北側の2か所が考えられているが「おけはざま山」が戦いの中心地であったことは確かなようだ。
 今川義元が戦死した地は諸説あるが、『信長公記』にある今川義元の最期の地は現在の名古屋市の古戦場公園(土地区画整理事業に伴い昭和631988)年、桶狭間古戦場公園として整備)ではないかといわれている。
 なお、『信長公記』には、おけはざまという所は、「はざま」がぬかるみ、足をとられるような深田があり、草が生い茂る難所であると記さている。

今川義元の最期  
『信長公記』には、今川義元は織田方の服部小平太と毛利新介に打ち取られたことが記されている。義元は服部小平太を切り倒すなど応戦したが、最後は毛利新介に首を取られた。この戦いの死者は、今川軍2500人、織田軍830人ほどで、要した時間は2時間という一瞬の出来事だった。

高徳院
高徳院の山門をくぐると、「今川義元公本陣跡」の石碑があります。高徳院は、弘仁7816)年、高野山に建立された寺院で、明治271894)年桶狭間古戦場のあるこの地に移転した真言宗の寺院です。
境内には今川義元本陣跡の石碑など、桶狭間古戦場を偲ばせる史跡がある。

七ツ塚(名古屋市緑区桶狭間)
勝利を収めた織田信長は、戦死者を埋葬するように村人に命じ引き上げた。この山裾に7つの穴を掘り塚を作ったと伝えられている。以後、村人は七ツ塚、または石塚と称し、これを壊すものは「たたり」があるといわれ供養して来た。桶狭間の戦いでの死者は、諸説ありますが両軍合わせて3,0003,500人といわれている。

釜ヶ谷
織田軍が中島砦からこの釜ヶ谷に着いた時は激しい雷雨で、この付近に潜んで突撃の機をうかがったといわれている。そして雷雨の上がるのを見て、おけはざま山に陣取る今川本陣を急襲し、劇的な勝利をおさめた。また、戦い後信長は、この辺りに全軍を集め勝どきを上げ帰還したと伝わっている。

現在とは異なる海岸線             小和田哲夫(静岡大学名誉教授)
 現在の地図上に当時の桶狭間関連の史跡等を落としてみた。まず、注目していただきたいのは、現在と大きく異なる海岸線である。熱田神宮、大高城、鳴海城のすぐ近くまで海が迫っていた。中島砦近くの手越川などは、渡る際、潮の干満に影響されたことが想像できる。近世東海道は現在の国道1号線(途中23号線)とほぼ重なる。中世までは北を走る鎌倉街道の方が主要道で、合戦当時まだ東海道が開けていなかったという説もある。
 義元が討たれたとされる場所は、桶狭間古戦場伝説地(豊明市)と桶狭間古戦場公園(名古屋市緑区)の2か所があり、一帯の丘陵(最頂部の標高64.7m)がおけはざま山と推定されている。今川軍の布陣はつまびらかではなく、信長の進撃ルートと合わせて研究者の間でも意見が分かれ、桶狭間合戦の謎を深めている。

中島砦を出た後の信長の進軍ルート      梶野渡(桶狭間古戦場保存会顧問)
 信長は、干潮を利用して中島砦から扇川を東にやや進み、今川軍前衛から姿を隠すため、現在の有松駅北側の山中をすり抜け、山間の道を進んだ。折しも雷雨で敵に悟られずに義元本陣に接近できた。信長の本隊2千がいたのは、地元口伝によれば釜ヶ谷だとされる。雷雨が止むのを待って、おけはざま山の北側から奇襲した。今川軍は大混乱に陥った。落雷を避けるために弓、鑓(やり)鉄砲、さし物など武器を手放して木陰に避難していたところを急襲されなす術もなかったのだろうと推察される。

信長が勝利したのは天候と事前に「おけはざま山」に義元の本陣があるという的確な情報を得ていたからではないかといわれている。その情報をもたらしたのが簗田出羽守(やなだでわのかみ)で桶狭間の合戦後、沓掛城を受領している。その功績を信長は大いに評価したのである。


      参考文献  歴史街道 桶狭間の謎 出版:PHP研究所
                    小和田哲男(静岡大学名誉教授)
                     谷口克広(戦国歴史家)
                     梶野渡(桶狭間古戦場保存会顧問)      
              豊明市史

                     桶狭間古戦場・桶狭間の戦いパンフ
              豊明市教育委員会 産業振興課

                     名古屋市緑区役所まちづくり推進課