NPO法人環境研究所豊明

2011年生涯学習講座

第1回 濁池一周

第2回 桶狭間古戦場跡地


第3回 鎌倉街道

第4回 阿野町



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第1回講座

第2回講座

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第4回講座


阿野八剱社


大脇城址の碑の前で
2011生涯学習講座“ぶらり豊明おもしろ発見!” 第4回“ぶらり豊明おもしろ発見!”阿野町寺社巡り    
 日時:2011年12月17日(土) 

コース:琵琶ケ池~八剱社~大脇城跡~大高道~阿野一里塚

[琵琶ヶ池】

 阿野町稲葉67番地1にあるため池。むかし池の形が琵琶に似ていたところから、琵琶ヶ池といったという。また、伝説によると、昔仙女が琵琶を抱えてこの池に来て池の中に自分の姿を見た時に、誤って琵琶をこの池に落としたことによるという、この池は東阿野町にあったが、池の一部の費用を沓掛村へ毎年支払っていた。天和3年(1683)の「沓掛村田畑地概惣寄目録」によると、東阿野村の阿野池敷は高3773合と記されている。寛延4年(17158月の「知多郡東阿野村名寄手鏡控」によると寛永15年(1638)から毎年免米(メンマイ)を出している。
 この琵琶ヶ池は景勝の地としても知られ、「名区小景」(弘化4年~嘉永3年、184750)に掲載されている。池の南側に句碑があり「水鳥の 友呼つれて おもしろや 松か琴弾(コトヒク) ひわか池かな」と刻まれている。掘削は古く、年代は不明であるが、寛永年中(162444)の初めには改修工事が行なわれたと思われる。
 安政年(1855)大雨のため堤防が切れて「百年以来」の大洪水となった。面積は約13.6ha
であったが明治35年(1902)、昭和11年(1936)、昭和22年と3度の耕地化により面積は減少し、現在では2.2ha、琵琶の形はしていない。所有は県で管理は市及び県。堤の高さ2.2m、堤の長さ120mの石張土堰堤。池に生息する魚は、平成12年(2000)から同13年にわたる生息調査でタモロコ、モツゴ、コイ、キンギョ、ブルーギルなどが確認された。また、周辺では、サクラ、クロマツ、クスノキなどの木本類や、ネズミムギ、ツルマンネングサ、ヨモギなど草本類が多数確認されている。(本―170、資1―68、「豊明村誌」)

豊明市史 総集編 より

【琵琶ヶ池開墾】
 琵琶ヶ池の陸化に伴う水田化事業のこと。明治35年(1902)、東阿野の住民は、国有地であった琵琶ヶ池南東端の田として利用していた2町5歩を池に戻し、代わりに北西端の水域1町31歩(約1.1ha)を田に転換する目的で払い下げを受けた。ただし水域を田にする開墾の際、隣接する沓掛新田と大脇の2地区に被害をもたらさないことを条件とした。そのためには、築堤の高さを既設の池違井(イケタガイ)地盤より高くせず、目安となる石造りの水準標を設けた。昭和10年代には池は村有になり、3次にわたる新たな開墾が行われ、琵琶の面影はなくなった。現在は県有地であるが使用権は豊明市が持っている。池の周辺の土地利用は、農地から道路・宅地・駐車場へと様変わりした。(補5218、町史―45

【西蓮寺】
 阿野町林ノ内21番地にある真宗大谷派の寺。山号はイ雲山。本尊は阿弥陀如来。明応年間(14921501)の草創で開基は了祐。当時は知多郡大野村(常滑市)の光明寺の配下で「尊林寺」と称していたが、5世了乗が寺号を「西蓮寺」と改めた。元禄5年(16926世了恵は西ノ海戸(東阿野村)にあった寺を洪水の難を避けて杉竹屋敷(現在地)に移転。8世了伝の時代の享保3年(1718)に山門を建立し、延享4年(1747)には本堂、鐘楼、梵鐘を造営した。宝暦2年(1752)に9世了階が庫裏を再建。それまでの建物が低い地盤にあり水難が相次いだため、天明6年(1786)に10世の了恵が6尺(約2m)ほどの土盛りをし、本堂の再建に着手。3年後の寛政元年(1789)に完成させた。近年には、本堂の大修復を2年がかりで行い、平成15年(2003)に完成した。(本―485、資4-300

追記

 知立方面から来た巡検使ら一行は、東海道を上がり境川をわたり、西蓮寺の門前で刈谷藩から尾張藩へ引き継がれ東阿野高札場・一里塚をすぎて、阿野坂を上り、三田家で昼前の小休止をした。(東阿野村西蓮寺文書の「記録覚」に、宝暦11年(1761)・天保9年の2回の巡検が記録されている。)

【昭栄寺】
 阿野町林ノ内41番地にある曹洞宗寺院。文化5年(1808)、甚兵衛が建立し、阿弥陀堂と呼ばれた。昭和17年(1942)、寺号を瑞雲山昭栄寺と改めた。本尊は恵心僧都が作ったと言われる阿弥陀如来像。本尊の他に、薬師如来像、三十三観世音菩薩像、地蔵菩薩座像、釈迦涅槃図などがある。(以下年中行事の記事は省略)(本―485、資4292

【境橋】
 江戸時代の東海道に、境川に架けられた橋の名。現在の国道1号の橋は新境橋で、境橋より上流約1800mには境川橋がある。境橋は江戸時代には境川橋とも呼ばれた。「知多郡東阿野村名寄手鏡控」(寛延4年、1751)によると、境橋は土橋で、尾張分は長さ7間半(約13m)、幅24尺(約5m)、三河分は長さ545寸(約10m)と記されている。橋の中ほどで責任分担がされていたので一様ではない継橋として人目を引き有名であった。烏丸光広(15791638)の狂歌(「古今夷曲集」)には「うち渡す尾張の国の境橋これやにかわの継目なるらん」とある。「かわ衣の記行」(文化4年、1807)に、「此れ国のおわり三河の境橋しばしながめていた橋の上 鉄格子波丸」とある。このとき尾張分は板橋、三河分は土橋であった様子が想像される。大水によって橋が流されることがたびたびあって東海道の川止めもあった。嘉永4年(18518月、稀にみる大雨で境橋が流失し、普請方役所によって「諸事万端入用金」により橋の架け替えが終わった。先例による加村(クワエムラ)(架け替えの協力する村)の諸雑用はなかったという。明治11年(18782月竣工の新しい橋は、江戸時代の習慣はなく、官金約5000円で架けられ、長さ58間(約97m)幅4間(約7m)、しかも手すり欄干付きであった。平成6年(19943月竣工の鉄筋コンクリートの境橋は片側歩道で往古の継橋のイメージで舗装されている。(資16070、「浜島家文書」)

【東阿野村】
 市域の南西部に位置し、現在の阿野町に相当する。「尾張徇行記」によれば、文政5年(1822頃の東阿野村は163戸、748人であった。阿野は肥沃な土地を意味し、琵琶ヶ池を用水源とする水田は境川沿いに広がり、早場米の生産で知られた。反面、悪水処理と天井川化した境川の溢水による洪水被害に悩まされた。水がかりの良くない台地は畑作地として開かれ、西瓜の生産が特化した。集落は標高9mほどの微高地に形成され、その西側に水田化した低湿地を挟んで北西・南東間に旧東海道が通じ、阿野町池下114番地と同町4番地の街道の両側に阿野一里塚が残され、往時の面影を今に留める。氏神は八剣社、寺院は西蓮寺と昭栄寺がある。
 西蓮寺は、かって知多郡大野村(現、常滑市)の光明寺の末寺であり、旧大野村の西阿野と東西の対応関係から東阿野の地名が定まったとされる。明治9年(
1876)の東阿野村は226戸で807人を数え、大脇村と落合村を合わせたほどの規模であった。この3ヶ村は明治8年、村の弥栄を願って合併し栄村と称したものの、早くも同15年、東阿野村は栄村から分離独立した。同22年町村制実施に伴い、東阿野村と栄村は知多郡から愛知郡への編成替えを機に沓掛新田・大沢村の4か村合併で豊明村となった。愛知電気鉄道(現、名古屋鉄道)が有松裏から東へ延伸して阿野駅(現、豊明駅)が開設され、住民に便益をもたらす一方、人口増大の足がかりとなった。
 大正
9年(1920)の阿野の人口は、坂部を合わせて218戸、1060人、第2次世界大戦後の昭和22年(1947)では373戸、1987人。昭和前期の集落の中心は林ノ内・寺内・新切・上納・出口であった。(本―386、補5-96

【前後】
 五軒屋新田の村立(延宝8年・1680)以前に、間米村の郷として、五軒屋(慶安元年・1648)・八ッ屋(寛文年中・166173)・三ッ谷(出来不詳)の3ヶ所ができた。いずれも名前の数字は件数を表す。間米村の本郷からみると、八ッ屋は南に、さらに南方に五軒屋があった。そこで、この五軒屋のことを寛文年中以後「前郷」と呼ぶようになった。(中略) 江戸期には、新田開発によって成立した村名は「何々新田村」、または新たに「何々村」というように「村」の字を付けることは幕府の禁令となっていた。五軒屋新田は、私的に「ゼンゴウムラ」と呼び、表記は「前後村」に、更には「善江村」となった。藩籍奉還後、五軒屋新田の村名に変えて前後村と表記した公文書がある。(後略)

【禅源寺】
 明和元年(1764)、伊藤家三代池田平吉敏政(伊藤の姓は第六代池田逸彦、功により領主成瀬家より拝領)は信仰心厚く仏門に帰依し私財を投じて、同家累代の菩提所として、地蔵堂などを建立し、開基とした。境内には伊藤家代々の墓碑が並び、同家の歴史を物語っている。両村の画像を所蔵している。
 郷土の学者・伊藤両村の没後、安政6年(1859)尾張の溝口月耕によって描かれたこの絵を弟子松本奎堂が両村没後の安政7年に賛をしている。伊藤両村先生画像は、市有形文化財に指定されている。

【阿野八剱神社石灯籠】
 参道の両側にある一対の石灯籠で、阿野の外山家の出身である幕末の勤皇家・深見篤慶が、万延元年(18608月に寄進した。高さ約198㎝の岡崎花崗岩でできており、火袋と受台に深見家の家紋である三つ巴・丸に木瓜が刻まれている。市有形文化財。

【阿野一里塚】
 一里塚は、道しるべの一つで、街道の両側に一里(約4km)ごとに設けられ、その大きさはおよそ五間(約9m)四方といわれている。塚の上にはエノキが植えられ、距離の目安として親しまれていた。
 東海道の一里塚は、慶長9年(1604年)に徳川家康の命により築かれたもので、明治以降の道路拡張や交通機関の発達でその多くが姿を消してしまった。
「阿野一里塚」は、珍しく両塚が残っていて東海道の中でも貴重な存在で、国史跡となっている。

清涼山【曹源寺】
 永正2年(1505)知多郡緒川町乾坤院開山、川僧和尚の法孫にして、西明寺(豊川市)三世、実田以耕和尚が、曹源寺(曹洞宗 清涼山)を開創。
 永録3年(1560)今川義元が織田信長に討たれ桶狭間にて戦死するや、明窓宗印に命じ、村人を指揮して死傷者を収容し、戦死者は戦人塚に葬り、引導焼香し部将の霊牌を本堂に安置して今日に至るまで、代々の住職が回向供養している。

 承応3年(1652 ) 曹源寺、炎上し、諸堂灰燼に帰し、わずかに山門の扉2枚を残すのみとなったのを再建した。当時の伽藍は現在地より東南1粁位の場所で、元屋敷といわれているところであった。そこは、低地で境川、正戸川の氾濫による決壊で水害が多く、現在の場所の山林を開拓して本堂及び大庫裡を建造した。
 山門は一寄進であるが、諸堂伽藍に調和した中本山としての風格を兼ね備えている(豊明市有形文化財に指定)
 今川義元と家臣の松井宗信の位牌が本堂の裏位牌堂の一隅に祀られている。

文献資料から見た大脇城

1.大脇城に関する文献資料
 同時代の資料はなく、いずれも後世(江戸時代)の編さん物に限られる。

資料A 『寛文村々覚書』(寛文年間/1670年前後)

「大脇村 - 古城跡 先年梶川五左衛門居城之由 今ハ畑成」

資料B 『張州府志』(宝暦2年/1752年)

「【大脇城】在大脇村 梶川五左衛門居之 今為田圃 按梶川五左衛門者水野家人也」

「【横根城】在横根村 梶川五左衛門築之 未就 遷千成岩城 今為田」

「【成岩城】在成岩村 其嘘東西三十五間 南北二百三十間榎木了圓居此 今為田 伝伝緒川水野氏構砦攻之 城中有反側子 引水野軍入城 終抜之 梶川五左衛門守之」

資料C 『豊明村の伝説』(稿本 石川清水 昭和27年/1952年)

「2大脇城 大字栄字屋下三十二番地の水田を言う 梶川五左衛門文勝(関ヶ原の役従軍す)の居城址なりという」

2.城主梶川五左衛門について

 いずれの文献も城主を梶川五左衛門としている。当該期の動向からみて、梶川五左衛門の実名は「秀盛」と考えられる。

梶川五左衛門秀盛および大脇城関連年表

1502 永正2年  乾坤院(知多郡緒川町)開山、川僧和尚の法孫にして、西明寺(豊川市)三世、実田以耕和尚、曹源寺(曹洞宗 清涼山)を開創す、という。(参考:秀盛の父平九郎其の法名は、「宗玄」であり、寺名と音が一致する)

1550 天文19121日 今川義元、丹波隼人佐に、横根・大脇などを還付(安堵)する(里見忠三郎氏所蔵手鏡)。梶川五左衛門との関わりについては不明。

1560 永禄35月 桶狭間の戦い。この直後、梶川五左衛門、刈谷城主水野信元に属し、徳川家康と刈谷の十八町(緒川の石ケ瀬とする説あり)にて、合戦す、という(『覚書 水野日向の守』寛永8年/1641)。

1575 天正3年  刈谷城主水野信元、織田信長の命により、岡崎城にて殺害される。この後、梶川五左衛門は刈谷城主となる佐久間信盛に属することになったとみられる。

1580 天正8年  織田信長、佐久間信盛父子を追放。この時梶川五左衛門、甥の梶川弥三郎とともに信長に召し出される(『信長記』池田家本)

1583 天正1197日 梶川五左衛門秀盛、延命寺(大府市)に寺領を寄進する(延命寺文書)。

158586 天正1314年ごろ 『織田信雄分限帳』、作成される。梶川五左衛門、1480貫文を知行する。

1590 天正18年 小田原の戦い、おこる。織田信雄、参陣する。その際に梶川五左衛門秀盛を「旗奉公」とす。この直後、織田信雄、豊臣秀吉と対立し除封される。このためか、梶川五左衛門秀盛は、池田輝政に仕えることとなる。

159298 文禄元年~慶長3年 文禄・慶長の役、おこる。梶川五左衛門秀盛、池田輝政に従い朝鮮半島へ出兵し、「湯川(現ソウル市近郊)の城に至り彼国の賊徒城をかこむとき、秀盛城中より敵陣に進み出てたたかい死す 六十歳 法名浄慶」という。        (『寛永諸系図伝』寛永20年/1643)。

1670 寛文年中  『寛文村々覚書』、作成される。大脇城について、「今ハ畑成」と記されている。

1690 元禄38月 曹源寺の梵鐘、鋳造される。銘文に「厭舊址之鄙湿ト今地移今寺」とあり、このころまでに曹源寺は現在地に移転したことが知られる。

1698 元禄1111月 延命寺住職、「横根村城主梶川五左衛門殿追々致吟味候処 高麗陣ヨリ御帰陣無之由ニ候 城跡横根村之内ニ有之 右之印松古木御座候 己後、御吟味之節心得之ため印置候」(『御公義並従本寺廻状写帳』)と記す。

 同年        大脇村庄屋次右衛門、『元屋敷砂入起帰り高改帳』を作成する。「元屋敷」地名の初見。このころまでに大脇村は現在地への集落移転が完了していたものと推察される。

                   資料「よみがえる大脇城」

                    愛知県埋蔵文化財調査センター  北村 和宏