NPO法人環境研究所豊明

2011年生涯学習講座
第1回 濁池一周

第2回 桶狭間古戦場跡地


第3回 鎌倉街道

第4回 阿野町



2010年生涯学習講座
第1回講座

第2回講座

第3回講座

第4回講座


二村山鎌倉街道




濁池と大清水処分場


濁池絵図(天保12年)
2011生涯学習講座“ぶらり豊明おもしろ発見!”
 第1回“ぶらり豊明おもしろ発見!”     日時:2011年11月20日(日)  
豊明市唯一の名所旧跡の二村山と伝説の地濁り池、間米周辺の自然や歴史を尋ねながら歩きました。

二村山駐車場-二村山峠地蔵尊-鎌倉街道-濁池-愛知用水一名古屋市大清水処分場-濁池-藤田保険衛生大学病院一二村山駐車場

二村山
二村山は古代鎌倉街道や中世の鎌倉街道の通過地点に当り、山麓にあった両村駅または両村郷からその名が由来したという。
絶景地であった二村山は、古来より街道を行き交う人々を魅了し、和歌に詠ぜられ、旅の記録に著述された。天暦5年(951)に成立した「後撰和歌集」に収められた清原諸実(キヨハラノモロザネ)の歌「くれはとりあやに恋しくありしかば二むら山もこえずなりにき」が二村山を詠んだ最も古い歌とされている。紀行文では、寛仁4年(1020)に東国から京に向かった菅原孝標(スガワラノタカスエ)一行が二村山山中の柿の木の下で野宿した様子が「更級日記」に書き留められている。特に鎌倉時代には、「海道記」の著者が二村山の絶景を称えるなど、鎌倉街道随一の名勝とされ、「続古今和歌集」には源頼朝の歌「よそに見しをささが上の白露をたもとにかくる二村の山」が収められている。(後略)

二村山 鎌倉街道
古道として、鎌倉街道の名残の道があり、文政年間、刈谷藩家老、浜田与四郎が領内の鎌倉街道を調査した報告が、碧海郡誌に載っているので、本市に関する部分を抄出すると、「西境村中を通り、尾参両国の境川を越え(注、図中、境川近く天王とある所)大久手村を通り(注、十三塚を経ると)道の側に榎(注、実は樟)の古木(注、図中、青木地蔵と記す)あり、昔の道筋の由、里人申伝ふ、程なく宿と申村へ至り、昔の有姿を聞侍り候らへば、八橋を野路の宿と申せし時、当村も宿にて、人馬継致せし所なりと申聞候、宿名如何に候やと尋ね候へば、其儀覚えず、只、宿とのみ申伝へ候由、右村を出で、山添にかかり遥の山道を過ぎ漸く峠に至り候らえば、小堂御座候、五尺余りの石地蔵二体立せ給ふ、左の一体は、昔、夜な夜な化身ありて、往来の人結納ありしを、返って何人か袈裟切に切り落し候段、里人の物語に候、今半身計りこれ有、背の方に大同二年建立と彫刻の字認めこれ有、此山を峠と里人年来申来り候へ共、もと二村山とて古名顕然たりし街道のみぎり、貴人方の賛歌等数多く御座候、今は二村山の名知る人稀なり。
ここを過ぎ、西の方へ下り、数十丁谷間坂道を歩行漸く相原村と申へ出で、尋ね候得ば、是より鳴海 西 山王森へ出で、東海道と一所に相成候由に付 道を求め候処 永緑の頃近辺合戦の時 砦等諸所に築き、古道も遮りこれ有 かすかの畔道相尋ね 山王森に出申候」とある。

二村山峠地蔵尊
市の最高地・二村山頂に近い地蔵堂に安置されている3体のうち、向かって左の頭部のない高さ約115cmの地蔵尊で、背面に「大同二」(807)の刻銘がある。いつの頃か、旅人が熊坂長範という盗賊に襲われたとき、地蔵尊が身代わりとなって切られ、肩から上が欠落したという伝説が生まれた。  

二村山切られ地蔵

二村山頂に安置されている。胴体が斜めに切られた形で、上半身と下半身が別々になっている珍しい地蔵尊。下半身の背面に「古来仏依会大破建立之延宝七已未年(1679)」の刻があり、二村山峠地蔵尊の伝説を元に建立されたものと思われる。  

伊藤両村先生之碑
 
伊藤両村の業績をたたえるため、門人によって碑を建てる話が持ちあがり、生前の嘉永6年(1853)に両村が愛したゆかりの二村山に建てられた。碑文には両村の人となりや業績がおよそ800字の漢文によって刻まれている。

濁池
昔、山賊の熊坂長範が二村山で旅人を切った刀をこの池で洗い、それ以来この池が濁ったとの伝説があるが、水が常に濁っているので濁池という名がついたというのが土地の人の言い伝えである。水が濁るのは二村山が赤土のため、雨のたび赤い土砂が池に流入するからである。
天保12年のころは「濁り池、字峠下にあり、面積1万2千九百十五坪、周囲十一町十六間あり、水田およそ二十三町三反四畝十八歩の養水に供し、鰻、鯰、鮒等の類を産す」と愛知郡誌にある。
文政年間(181830)の間米村の絵図によると、濁池の堤を通る道に「鎌倉」と記されており、これは鎌倉街道を意味すると考えられる。

                              出典:愛知郡誌

濁池遺跡              
濁池3か所で集落遺跡    山茶椀焼成窯遺跡 時代等不明

ガガブタ 絶滅危急種[ミツガシワ科]
濁池の貴重な植物。ガガブタとはおもしろい名前だが、ガガは影の転訛で鏡の意味だそうで、鏡の蓋ということになる。漢字では鏡蓋。
この草は夏~秋に出来る殖芽の形が独特で、池に群生して白い花を咲かせる。

田楽ケ窪  デンガクガクボ
地名の初出は、室町時代の連歌師宗祇の「名所方角抄」で、尾張国内の地名として、鳴海・藍原宿(相原宿)・「田楽が窪」・沓掛・境川が道筋順に記されている。また仁和寺の僧尊海の「あづまの道の記」では、尾張国の「や菜」に宿泊した尊海が「田楽が窪」を通る際に、山賊に嚇かされている。さらに、連歌師里村紹巴の「富士見道記」では、永禄10年(1567422日に九之坪城(北名古屋市)において簗田出羽守とその子息から歓待をうけた紹巴は、24日同じく出羽守の持ち城である沓掛城までの10里弱の道程を歩む途中に、「田楽がくぼ」を通ったが、物騒な峠であるためか、出羽守の家臣が迎えに来て、裕福寺に宿泊したとしている。なお武田信玄に関する合戦や裁判の記録「甲陽軍鑑」には、今川義元が討死した場所として、「でんがくがくぼ」が出てくる。同書は元和年間(161524)に成立したとされているが、定かではない。

間米
間米は、「馬篭」から変化した地名で、近くを通る鎌倉街道に由来すると伝えられ、寛文年間(166173)には村名を「孫目」と記した。その集落は、濁池から南下する黒部川の東側高位部に形成され、ここからの出郷として南側に八ツ屋があった。

天保12年の戸数は52軒、236 4頭となっている。

間米八幡社
寛政11年(1799)、3か月間1滴の雨も降らず氏子全員が祈願したところ、三日三晩雨が降り続き、田畑は潤ったという。村人は喜んで本殿の雨覆を建立したと棟札に記されている。この棟札は現存している。

峠前 
二村山を過ぎる鎌倉街道の絶頂をいい、ここで地蔵に手向けして旅路の安穏を祈った所を峠という。峠の日の当たる南の方。

濁池以外の出典:豊明市史

大清水処分場(名古屋市緑区鳴海町大清水)
面積 72,500㎡ 昭和63年より埋め立て平成8年終了。今後、勅使ヶ池緑地  公園になる予定。

                          出典:名古屋市ホームページ