NPO法人環境研究所豊明

2011年生涯学習講座
第1回 濁池一周

第2回 桶狭間古戦場跡地


第3回 鎌倉街道

第4回 阿野町



2010年生涯学習講座
第1回講座

第2回講座

第3回講座

第4回講座


鎌倉街道ゆかりの楠


みちしるべ地蔵


小所の常夜灯


大久伝の石灯籠
2011生涯学習講座“ぶらり豊明おもしろ発見!” 第3回“ぶらり豊明おもしろ発見!”鎌倉街道巡り    
 日時:2011年11月26日(土) 

文化会館~ 十王堂~ 鹿島社~ 鎌倉街道ゆかりの楠~ 十三塚~
青木地蔵尊~ 大久伝八幡社~ 文化会館

鎌倉街道
 古道として、鎌倉街道の名残の道があり、文政年間、刈谷藩家老、浜田与四郎が領内の鎌倉街道を調査した報告が、碧海郡誌に載っているので、本市に関する部分を抄出すると、「西境村中を通り、尾参両国の境川を越え(注、図中、境川近く天王とある所)大久手村を通り(注、十三塚を経ると)道の側に榎(注、実は樟)の古木(注、図中、青木地蔵と記す)あり、昔の道筋の由、里人申伝ふ、程なく宿と申村へ至り、昔の有姿を聞侍り候らへば、八橋を野路の宿と申せし時、当村も宿にて、人馬継致せし所なりと申聞候、宿名如何に候やと尋ね候へば、其儀覚えず、只、宿とのみ申伝へ候由、右村を出で、山添にかかり遥の山道を過ぎ漸く峠に至り候らえば、小堂御座候、五尺余りの石地蔵二体立せ給ふ、左の一体は、昔、夜な夜な化身ありて、往来の人結納ありしを、返って何人か袈裟切に切り落し候段、里人の物語に候、今半身計りこれ有、背の方に大同二年建立と彫刻の字認めこれ有、此山を峠と里人年来申来り候へ共、もと二村山とて古名顕然たりし街道のみぎり、貴人方の賛歌等数多く御座候、今は二村山の名知る人稀なり。
 ここを過ぎ、西の方へ下り、数十丁谷間坂道を歩行漸く相原村と申へ出で、尋ね候得ば、是より鳴海 西 山王森へ出で、東海道と一所に相成候由に付 道を求め候処 永緑の頃 近辺合戦の時 砦等諸所に築き、古道も遮りこれ有 かすかの畔道相尋ね 山王森に出申候是迄村毎に里人申候趣 年暦千歳に及び事故 計りがたく 殊に書留の品等もなく 言い誤り 聞き違ひ等にて 過ぎ行候か おぼつかなき事共に御座候」出典:豊明市史 

鎌倉街道ゆかりの地
 1192年(建久3年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が定められ、宿駅63ヵ所が設置された。

豊明市内のルート

二村山-宿-青木地蔵-十三塚-境川

【馬宿】まやど
 市内に残る歴史的地名。大化改新(645)による律令国家の形成に当たって、交通は国衙(国府)を結び、中国(唐)の駅制にならって整備された。駅路は重要の差によって、大路(山陽道)、中路(東海道・東山道)、小路(北陸・山陰・南海・西海道)とした。  豊明市域にかかわる道は東海道といわれる。尾張国には、馬津、新溝、両村の3駅があって、この中の両村駅があったと伝えられる。駅には決められた数の馬を常備しなければならなかった。「馬宿」は「厩(うまや)」と同義語で「豊明町誌」によれば、間米は馬籠のなまったもので「ウマヤ」と呼ばれ、皿池の北東の地点に移されたといい、「マヤド」と記して皿池の北西の地にあてている。
 平安時代に入り駅制が崩壊し、新しく「宿」が設けられ、鎌倉時代になると鎌倉-京都間の東海道(鎌倉街道)には、宿ごとに人馬を常備し、旅行者の宿泊施設ができた。豊明には沓掛宿があった。
「マヤド」「ウマヤ」は駅制のころか、宿制になってからか定かではないが、古い地名として残っている。

【十王堂】じゅうおうどう
 市内に残る歴史的地名。二村山麓にある。十王堂は若宮(若王子社)に近いところにあって、もと鎌倉街道沿いにあった。街道を通る旅行者の交通安全を祈るため十王が祀られていた。十王信仰は庶民の心をとらえた地藏菩薩と表裏の関係にあって、鎌倉時代に盛んになった。閻魔(えんま)大王を主とする十王をいい、亡者が死後7日ごとに一王ずつ七王、百か日・一周忌・三周忌に三王の前で生前の業の裁きを受けるという。鎌倉街道沿いに建てられた十王堂は街道の衰退と共に、江戸時代に入り廃墟となった。

【鹿嶋社】 
 鹿嶋神社は昔、川原神社といっていた。鎌倉街道が鹿嶋神社の南側を通って十王堂の方へ向っていたといわれている。鳥居の前には、常夜灯がある。
 在原業平が「あいみて心ひとつ川原の水の流れに絶えじと思う」と歌を詠んだとされ、歌碑がある。

【宿】しゅく
 沓掛町の中心部に位置する集落。本郷より南西へ500mほど離れた緩傾斜地末端の微高地に形成され、背後に沖積低地を控える。二村山東側の鎌倉街道筋には、十王堂跡・宿・青木地蔵・十三塚跡が点在し、街道沿いの守護神として鎮座したのが鹿嶋社である。昭和前期まであった宿の小字(こあざ)は12のうち、4字は消滅した。峠前・若宮・十王堂・中根・森浦・垣ノ内・宿・十三塚の8字(あざ)は存在する。「宿」は台地のせん端の高地で民家が一部を限っている。これは地形的にも、環境的にもかつての駅家付随の別宿にかなった所である。

【十三塚】じゅうさんづか
 
旧鎌倉街道の大久伝と宿の間、青木地蔵の楠にかけてあった塚。かつては街道を挟んで南側に13基、北側に7基の塚があり、これを鎌倉街道の十三塚と呼んでいた。大きいもので100㎡、小さいもので15㎡ほどの規模であった。いわれについては様々な説が伝えられた。大久伝八幡社の碑文には、経塚とも非業の死を遂げた者の墓とも、あるいは伊勢古市のお紺女郎の亡霊の鎮魂塚ともいうとある。また、行き倒れの旅人の墓とも、祖霊追善のための十三の年回毎に供養の目的で築いた塚であるともいわれている。昭和45年頃、青木地蔵の塚を除いて土地整備事業のため消滅してしまい、現存していない。

【青木地蔵】 あおきじぞう
 
鎌倉街道が通っていた「宿」と「大久伝」の間の楠と根元に仁治二年(1242)の銘のある青木地蔵尊が祀られていたが、大正6年(1917)沓掛町寺内地蔵堂に移された。現存するのは代替仏である。青木地蔵は道祖神ではないかといわれているが、頭部がない。また、形から、夫婦和合・子孫繁栄・豊穣祈願の陰陽石であるともいわれている。

【楠と地蔵尊】くすのきとじぞうそん
 
鎌倉街道が通っていた宿と大久伝の間にある楠で、根元に仁治二年の銘のある青木地蔵が祀られていたが大正六年(1917年)に沓掛町寺内の地蔵堂に移され、ここに鎮座するのは代替地蔵尊である。              

【大久伝】おおくて
 市域東端に位置する集落。近世には沓掛村の出郷であった。大久伝は、湿地を暗示する「クテ」と音韻され、一帯は低湿地が広がっていたと推測される。
 二村山から宿を経て大久伝に通ずる鎌倉街道は、境川を渡って三河国に続いたが、近世には往来が減り、道路の役割が低下した。

【大久伝八幡社の扁額】

南画の池大雅(いけのたいが)(172376)が、大久伝の兼子源四郎維一(これかず)家に逗留中に揮毫(きごう)した書といわれ、文化5年(1808年)にケヤキの板に書を刻し、扁額として兼子家より大久伝八幡社に寄進されたもの。
(昭和52年 豊明市指定有形文化財)