
| 日本の陰謀(4) 参照一覧051 |
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伊集院を歩く
かごしま文化研究所 じつは(?)、木家は日置市の伊集院町にあります。そこで今回は「妙円寺詣り」で有名な伊集院を歩いてみました。 伊集院駅前から出発! 駅前には、馬にまたがった島津義弘公の銅像がお出迎え。 歩いて、徳重神社へ。 普段は静かな神社であるが、毎年十月に島津義弘公を忍ぶ恒例の妙円寺詣りが行われる。 かつて薩摩藩では島津忠良菩提寺・日新寺、島津義弘菩提寺・妙円寺、島津歳久菩提寺・心岳寺にそれぞれの命日に参る習慣があった。 日新寺と心岳寺の方の習慣は廃れてしまったが、「妙円寺詣り」は現在も盛んに行われ、時期は島津義弘が奇跡的な生還を遂げた関ヶ原の戦いが旧暦9月15日にあったことを記念して10月末頃に行われる。 徳重神社は、もともとは妙円寺というお寺であったが、廃仏毀釈により妙円寺はなくなり、徳重神社となったのである。 その後、別の地に新たに妙円寺は建てられている。 ちょうどこの頃は妙円寺詣りが近かった時期で、幟旗が立っていた。 |
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霧島・新燃岳が噴火 宮崎・鹿児島に降灰、空の欠航続く
朝日新聞 2011年1月27日 気象庁は26日、宮崎、鹿児島県境の霧島連山・新燃岳(しんもえだけ)(1421メートル)で小規模な噴火があり、噴火警戒レベルを2(火口周辺規制)から3(入山規制)に引き上げた、と発表した。2007年12月に新燃岳に噴火警戒レベルを導入後、レベル3は初めて。 発表によると、26日午後3時半に小規模な噴火があり、噴煙の高さが火口縁から約2千メートルに達した。同日朝もごく小規模な噴火があり、火山活動が活発になっていた。宮崎県の6市町と鹿児島県の3市で降灰が確認された。 新燃岳東麓にある宮崎県高原町は26日、日高光浩町長を本部長とする町災害対策本部を設置した。 噴煙の影響で、宮崎空港発着のJAL、ANAの計6便が欠航。JALは27日の同空港発羽田行きと伊丹行きの始発計2便の欠航も決めた。 宮崎道は26日午後5時半から高原―田野インター間で通行止め。また、宮崎県都城市のJR日豊線・山之口駅では同日午後5時10分ごろ、信号機が降灰の影響で動かなくなり、JR九州は同線の一部区間と日南線、吉都線の全線の運転を見合わせた。27日午前1時現在、復旧のめどは立っていない。 新燃岳 ウィキペディア 2011年(平成23年)1月19日から再び噴火、22日、26日と短いスパンで噴火し、都城市や遠隔地の日南市にまで降灰が及んでいる。1月26日午後3時40分には火口から1500mまで噴煙が上がるのが確認された。 |
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日本はエジプトのムバラク大統領を英雄に仕立てた。
空軍参謀長のムバラクを英雄にしたのは、1973年10月6日の第四次中東戦争。この日は日本の旧暦で1973年9月11日だった。 だが、1973年9月11日、チリではクーデターが起こり、 独裁者ピノチェトが誕生していた。 両者とも日本人だった。 ピノチェトが死亡した2000年12月10日、沖縄では仲井眞弘多が沖縄県知事に就任した。 ムバラクの片腕、国防大臣のタンターウィも日本人だ。 1935年10月31日生まれだが、女優の浜木綿子も同じ日だ。 この日は、徳川一族にとってとりわけめでたい。徳川家斉の誕生日だった。 エジプトの国旗は日本の支配のシンボル。 紅白は、日本の支配。黒は、エジプト民衆の抑圧。 |
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慎太郎“後出しじゃんけん”で困った面々 後継狙いの松沢氏被害甚大
ZAKZAK 2011.03.11 4月10日投開票の東京都知事選で、これまで周囲に不出馬の意向を漏らしていた石原慎太郎知事(78)が一転、出馬の方向に舵を切った。路線の異なる東国原英夫・前宮崎県知事(53)らの当選を阻止する狙いもある。大本命の“後出しじゃんけん”で、石原氏不出馬を見込んで動いていた立候補者たちの“被害”は甚大だ。 都知事選には、前共産党参院議員の小池晃氏(50)、ワタミ創業者の渡辺美樹氏(51)、神奈川県知事の松沢成文氏(52)らが出馬を表明。自民党の丸山和也参院議員(65)や東国原氏の出馬も有力視されている。 自民党都連幹部は「石原氏は、後継と見込んでいる松沢氏が勝てるなら引退したかった。だが、ある調査で、石原知事がトップ、東国原氏がその半分で渡辺氏がさらに半分、松沢氏はその下という結果が出た。このままでは東国原氏か渡辺氏が当選して自分の路線が否定される。それが許せなかった」と「一転出馬」の理由を解説する。 都知事選で現職が敗れた例はなく、石原氏は過去3回の知事選では圧勝した。政治評論家の浅川博忠氏は「今回はゴタゴタして先送りしたことがマイナスになったが、当選確率60%の、堂々の本命だ」とみる。 大本命の突然の“レース復帰”に、ある陣営の幹部は「絶対出ないと思っていたのに。常人の考えの及ばないことをするのが石原氏という人間だが…。出てきたら強いよ」と肩を落とした。 最も打撃を受けそうなのは、石原氏と親交があり後継を狙っていたとされる松沢氏か。「出馬表明をしたが、石原支援に回り引っ込めるかもしれない。石原氏は選挙後に松沢氏を副知事に迎え、後継として猪瀬直樹副知事と競わせるのでは。猪瀬氏も皮算用が外れた」(自民党都連関係者)と見る向きもある。10日夜、石原氏と会談後、記者団に内容を聞かれた松沢氏は不機嫌そうに「コメントできない」と語るのみだった。 東国原氏は14日に出馬表明する方針。選挙プロは「石原氏不出馬なら本気で勝つつもりで準備を進めていただけに、出馬はするだろう。知事選で善戦して2位になれば次期衆院選のために名前を売れる」と話している。 小池氏や、過去の知事選で石原陣営を指揮した選挙プランナーを選対に迎え入れた渡辺氏は後戻りしないとみられるが、11日朝までに出馬表明していない丸山氏は流動的だ。 |
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北沢防衛相、救援の米空母で謝意 「国民全員が感激」
岩手日報 2011年04月04日 北沢俊美防衛相は4日、三陸沖で東日本大震災の救援活動「トモダチ作戦」を展開している米空母ロナルド・レーガンに米軍機で降り立った。菅直人首相からの「懸命に救援に取り組む米軍兵士の姿に被災者、日本国民全員が感激した。皆さんの協力を得ながら総力を挙げて試練を乗り越える」との謝意を伝えた。 格納庫に集まった約2千人の乗組員らを前に、北沢氏は「国民の命を救ってくれた皆さんを目の前にし、気持ちの高まりを隠すことができない。今ほど米国が同盟国であることを頼もしく、誇りに思うことはない」と目をうるませた。 同行したルース駐日米大使は「今後いかなる時でも場所でも、米国は日本の力になることを決して忘れないでほしい」と強調。ウォルシュ米太平洋艦隊司令官は、米兵の家族の寄せ書きを北沢氏に手渡し「世界中にトモダチがいる証しだ」と述べた。 |
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宮城で震度6強 東日本大震災の余震
日テレNEWS24 2011年4月8日 気象庁は8日に行った記者会見で、7日午後11時32分頃に宮城県で震度6強を観測した地震は、先月11日に発生した東日本大震災の余震であることを明らかにした。 東日本大震災の余震活動は活発で、今後も震度5弱以上の強い余震に警戒してほしいと話している。また、震源が陸地に近い場所だと、今回のように震度6強の非常に強い揺れになるおそれもあるとしている。 |
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エマニュエル元米大統領首席補佐官 シカゴ市長に当選
CNN.co.jp 2011.02.24 オバマ大統領政権で大統領首席補佐官を務めたラーム・エマニュエル氏が、22日の米イリノイ州シカゴ市長選で当選を果たした。 エマニュエル氏の得票率は55%を超えた。投票率は40~45%程度とみられ、事前の予想を下回った。潤沢な資金を投じて大規模な選挙運動を展開したことに加え、投票率が低かったことも同氏に有利に働いたとみられる。 当選から一夜明けた23日、エマニュエル氏はアフリカ系市民の多い地域で演説を行った。選挙期間中、同氏はアフリカ系有権者の支持集めに成功し、彼らが多数を占める地区で約半数の票を獲得した。 エマニュエル氏は優先課題として、犯罪、学校強化、シカゴ経済の安定化などを掲げている。シカゴ市は少なくとも5億ドルの財政赤字を抱えているうえ、年金制度も同規模の不足に直面している。 正式就任は5月16日。1989年からシカゴ市長として最長任期を務めるリチャード・デーリー現市長の後任となる。 |
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薬師丸ひろ子の歌う「セーラー服と機関銃」は、ここでも「サウジアラビア」を示唆した。 そもそも、サウジアラビアは日本人が建国したことは間違いなく、国名のサウジアラビアは、忍者の別れ言葉「さらばじゃ」であり、同国の女性の衣服「アバヤ」は、 映画自体にもサウジアラビアとの強い関連が見られる。 それゆえ、この曲の出だし「さよならは別れの言葉じゃなくて」は、まさに「サウジアラビア」を織り込んで作られたと考えるべきだろう。 セーラー服と機関銃/薬師丸ひろ子 takimariの音楽な自由時間 さよならは別れの言葉じゃなくて 再び遭うまでの遠い約束 夢のいた場所に 未練残しても 心寒いだけさ このまま何時間でも 抱いていたいけど ただこのまま冷たい頬を 暖めたいけど 都会は秒刻みの あわただしさ 恋もコンクリートの籠の中 君がめぐり遭う 愛に疲れたら きっともどっておいで 愛した男たちを 想い出に替えて いつの日にか僕のことを 想い出すがいい ただ心の片隅にでも 小さくメモして スーツケースいっぱいにつめこんだ 希望という名の重い荷物を 君は軽々と きっと持ち上げて 笑顔見せるだろう 愛した男たちを かがやきに替えて いつの日にか僕のことを 想い出すがいい ただ心の片隅にでも 小さくメモして |
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またもや、台風による脅し
日本の陰謀(247) 「日本は古代エジプト王朝」の編集を始めると、すぐに台風6号が発生、ページをアップロードすると、鹿児島に向けて北上を開始した。 これまでも、似たような台風の動きは多く、自然現象の偶然ではもはや説明できない。当然、日本政府による、脅しと考えるべきだろう。 鹿児島県本土、18日夜暴風域 台風6号 南日本新聞 2011 07/17 同日午後6時までの24時間予想雨量は多い所で薩摩150ミリ、大隅250ミリ、種子・屋久300ミリ、奄美100ミリ。気象台は、暴風やうねりを伴う高波、大雨による土砂災害などに警戒を呼び掛けている。 台風6号は17日午後5時現在、北緯24度40分、東経134度20分にある。中心気圧は935ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は50メートル、最大瞬間風速は70メートル。 |
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エジプト暦
学術百科事典 人類が最初に手にした、優秀な太陽暦はエジプト暦です。月の運行から1ヶ月を30日とし、12ヶ月を1年とした上で5日を加えて365日としたものです。 きっかけは恒星シリウス(おおいぬ座α星)が年に一度、太陽と同じ方角から、しかも太陽と同時に昇ってくることに気付いたことです。その日はナイル増水の時期と一致し、農業にとってきわめて重要な節目でした。この日を年の初めとしたことが、現在のカレンダー・1月1日の起源となりました。純粋に天文学的なカレンダーなら、冬至や春分などを年の初めとしていたかも知れません。 1年は4ヶ月ごと3つに区切られ、洪水の季節、種まきの季節、収穫の季節と呼ばれていました。各月に特別な名前はなく、何番目の月と呼ばれ、もちろん7日で1週間の概念はありませんでした。 しかし、前項で述べたように、エジプト暦はシリウスの出が4年で1日ずつ遅くなることを見逃していたか、あるいは無視していました。つまり太陽年ではなくて恒星年なので、1年を365.25日と計算していました。B.C.238年には端数の0.25日を4年に1度、閏年の1日として加える案まで決まったといいます。実行されませんでしたが、古代では随一、現代の太陽暦とよく似た優れた暦法でした。 |
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国家を支えた正確な計算術
吉村作治 エジプト博物館 今回のテーマは「古代エジプトの科学と技術」です。その第1回目として「国家を支えた正確な計算術」についてお話します。 古代エジプトが急速に大きくなって強くなった理由として、税収が非常にしっかりしていたということが上げられます。ある土地からできる作物の大体半分が王様のものになっていた。税金ですね。そして残りの半分を土地所有者とそこで働く納品が半分ずつにしていたのです。 こういう風になっていましたから、土地を測る必要がありました。 土地の広さとナイル川の氾濫と種の量がわかれば生産量がわかる。生産量がわかれば税金もわかります。つまり、予定納税ですね、そういうことでやったのですが、なんと十進法による計算法を使っていたんです。 古代エジプトでは長さを測る時、1キュービットという単位を使っていました。これは王様の腕の長さなんです。 だとしたら、王様が変わると長さも変わるのか?という疑問が出てきますね。実は変わってたんです。一見困りそうですよね。実は何も困っていなかった。 我々が現在使っているメートルとかフィートというのは絶対値、誰がどうやって測っても変わらないものです。地球上どこへ行っても1メートルは1メートル、1フィートは1フィートとなっていますが、古代エジプトでは王様が変わると絶対距離、絶対値が変わります。相対値ですね。今の我々には大変なことです。まぁ、コンピューターがあるからうまくいくかも知れませんけど。ところが、相対値も比例計算をしていく限り、変わるものではないんです。 良かった点もあります。王様と腕の長さが同じ人が、その王の時代に大臣になったとします。しかし、王様が変わったらもう大臣になれるとは限らない。つまり、政権交代するということです。 また、後の時代、我々考古学者にとって、いいことがあります。例えば、ピラミッドの一辺の長さを絶対値で測り、キュービットに変換するとその王様の腕の長さがわかりますよね。そうしたら、ミイラがなくとも、その王様の大体の身長がわかるんです。便利なんですね。 我々は絶対値の世界に浸っていますが、実は相対値、比例というのは大切なんです。比例というのは計算するのにとてもいいんです。古代エジプトの計算は非常に確かです。整数で割り切れる。小数がないんです。ですから、我々が今研究するのには大変便利で正確な計算術を古代エジプト人は持っていたということになります。 |
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寿陵について
金光泰観墓相研究所 ■寿陵は誤った考え 生前墓=寿陵は長生きするという根拠のない話をよく聞く。寿陵は秦の始皇帝稜に代表されるように、世界中の権力者たちは競って自らの墓を生存中に造った。これは一国の権力者のように、多くの人材と費用を自由に費やされる者にしか出来ない建立法であって、一般庶民が真似をする事は決して良いことではない。しかも寿陵造営は多くの人々の犠牲と国の財政を圧迫し、国力の衰退を招いたという恐ろしい事実がある。寿陵建立法は特殊なものとして捉えるのが良いと思われる。 中国では例え王と云えども安閑とした日々は少なく、王の地位を狙う者達から我が身を守ることが最も重要な事の一つであった。そのため、彼らはその地位を安泰にするために風水の専門家、つまり墓相の達人を身近に置いたのである。墓や墓の環境から過去・現在・未来を知ることが出来る。この術は秘中の秘とされ、ごく一部の人間のみ知るところであった。 目を国内に向けると、日本の寿陵として例えられるのは「聖徳太子」の墓であろう。聖徳太子は西暦574年、用明天皇と穴穂部間人皇女の間に生まれた。父の用明天皇は太子が14歳の時亡くなっている。父用明天皇の追善供養と学問習得道場として建立されたのが法隆寺であり、法隆寺国宝薬師如来像は用明天皇の理想の姿として造られたものといわれている。 「和を以て貴しと為し、忤ふこと無きを宗とせよ。人皆党有り、亦達れる者少し、是を以て或は君、父に順はずして忽ち隣里に違へり。然れども、上和らぎ下睦びて、事を論ふに諧ひぬる時は、即ち事理自に通ふ。何事か成るらざらむ」 聖徳太子は当時の社会情勢を憂い、自らの子17名に諭すが如く十七条憲法を制定し、推古天皇の摂政として活躍した。聖徳太子には10人の妃と17人の子供がいたが、将来子供たちが天皇の座を狙い争乱を起こすようでは国の為にならないと思い、熟慮の末ある事を実行した。それは、まず自らの墓を建立する事であった。 聖徳太子は仏教のみならず墓相にも造詣が深く、どうすれば人を殺め、我が身を守ることが出来るかを知っていた。しかし人を殺めるよりも自らの家系を断つ事によって紛争を未然に防ごうとしたのである。このことは徒然草の一節に「聖徳太子のお墓をかねて築かせまいける時に、ここを切れ、かしこを断て、子孫あらせじと思ふ」と書かれていることからも窺える。 聖徳太子は墓石の天石から人石、地石に至るまで疵をつけ、将来子孫が絶えるよう秘術を尽くされたのである。しかし生前に墓を建立し、疵までつけたとあっては無事でいられる筈もなく、石の欠けは肉体・命の欠けと言われるように、疵をつけた二ヵ月後聖徳太子はお亡くなりになられた。西暦622年2月22日の事である。 聖徳太子のように、自らがそれを願って建立したものならばいざ知らず、何も知らない人がむやみに生前墓を建立する事は出来るだけ避けるようにする方が賢明である。勿論、生前墓を建立しても長生きしてる人はいるだろうが、それは先祖の「徳」という有難い財産を受け継いだからであって、使った財産は減るということも忘れてはならない。私の周りには止めるのも聞かず生前墓を建立し、一年から三年以内にお亡くなりになられた人が何人もいらっしゃる事を付記する。 ところが、生前墓を建立した夫婦のうち何れかが早くお亡くなりになると、残された人は不思議と長生きをされている。寿陵は長生きをするといわれるのは、実はこの辺りにあるのかもしれない。 ■死者が死者を呼ぶ、墓が仏を招くと言う 立派な墓を建立しても誰も入る人がいなければ、墓も寂しいものである。いや、誰も居なければ何処からとも無く彷徨っている霊が入り込む場合もある。墓を護るために夫婦のどちらか、或いは家族の誰かが早く亡くなるという場合もあるので、生前墓の建立はよくよく考えねばならない。墓の建立は決して無造作にするのではなく、順逆に則った正しい祀り方によって、子が親の墓を建立するという事を知って頂きたい。 |
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英エコノミスト誌、欧米のリーダーたちが「日本人化」していると批評する記事掲載
FNNニュース 2011年8月3日 イギリスのエコノミスト誌が、経済危機の解決に、難しい決断を先送りするアメリカとヨーロッパのリーダーたちが「日本人化」していると批評する記事を掲載した。 7月30日発売のイギリスのエコノミスト誌は、表紙に富士山をバックに着物姿のアメリカのオバマ大統領と、頭にかんざしをつけたドイツのメルケル首相を、浮世絵風のイラストで掲載した。 記事の中で、「欧米の恐るべきリーダーの不在」、「日本人化」との見出しで、財政問題やヨーロッパの経済危機の収拾にあたるオバマ大統領やメルケル首相らは、難しい決断をしたがらず、問題を先送りして事態を悪化させていると批評した。 バブル崩壊後に、日本の政治家が問題を先送りし、政治が停滞していた状態を引き合いに出し、欧米の政治家は教訓とするべきだとしている。 |
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日本の陰謀における「しりとり」方式日付の語呂合わせ
日本の陰謀では、語呂合わせが複雑な組み合わせで行われる。その目的はよくわからないが、おそらく、身内の陰謀団 での次世代教育のために巧妙な記録を歴史に刻んだものだろう。 年月が過ぎると巧妙な陰謀は、その説明さえも難解になる。部外者や敵に対してはそれでいいのだが、身内の特殊部隊には、正確に事実を引き継がねばならない。だが、これだけの巧妙な事件の連鎖を、偶然ではなく、計画的陰謀だと納得させるのは難しい。そこで採用されたのが、この日付の語呂合わせ、そして「しりとり」方式だろう。 これまでに取り上げた事例は下記の通り。 第2回ワールド・ベースボール・クラシック 防衛省が発足 ノルマンディー上陸作戦 スペイン列車爆破事件 硫黄島の戦い・沖縄戦 中国・唐山地震 バルチック艦隊 |
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第7章:ナチ戦犯受け入れに最も寛容だったフランコ政権とペロン政権 南米に逃げたナチ残党 「終戦直後の数年間に南米の地を踏んだドイツ人は大量にいたが、そのすべてが戦争犯罪人や元SS将校、あるいはゲシュタポの幹部というわけではなかった。多数の技術者や技師、科学者もまた、この先何年ドイツにいても成功する見通しはないと判断し、新しい国で運を試そうと祖国を離れたのである。当然のことながら、こうした人々は引き寄せられるように、アルゼンチン、ブラジル、チリ、パラグアイなど、すでにドイツ人の大居留地があった国々へと渡っていった。」 「だが、1955年のペロン政権崩壊は、アルゼンチンに潜伏したナチスにかなりの不安を与えた。そのため、ある者は別の避難場所を求めて他の南アメリカ諸国、あるいはスペイン、中東に移るほうが賢明だ、アメリカ合衆国でさえまだましだと考え、またある者は、逆に、もっと奥地に逃げこんで、文明から遠く離れた不毛の高地や、パンパスと呼ばれる大草原、あるいはジャングルに新たな居留地をつくるほうがよいと判断した。 ペロンに代わる新しい指導者たちもナチス逃亡者に対する友誼的政策を変えることはなかったものの、政権の交替は彼らに多くの心配と不安をもたらしたのである。その結果、アルゼンチンがパラグアイ、ブラジルと接するところ、パラナ川流域から果てしなく広がるパンパスは、ドイツ領とでも呼べそうなありさまになった。1500人ほどのドイツ人はさらに内陸部へと進み、ブラジルの奥地マトグロッソに着いた。 その一帯には人跡未踏ともいえる広大な熱帯ジャングルが広がり、植物が繁茂し、湿地が水蒸気を立ちのぼらせ、インディアンの部族が文明とは無縁の生活をしていた。ここに近づこうとすれば、舟もやっと通れる川が幾筋かと、ひどいでこぼこ道が2本しかなかった。」 「ブラジル政府からこの一帯を与えられたドイツ人は、ジャングルの開拓にとりかかった。こんな、人間の住むところとはいえない場所での生活は苛酷なものではあったが、それはまちがいなく安全であるという証左でもあった。何者であれよそ者が外の世界から近づけば、数日前にはわかる。そのほうが賢明となれば、身の危険を感じたドイツ人はしばらくジャングルに隠れることも、こっそり友人の農場に逃げこむこともできるし、国境を越えてしまうことすら可能だった。 そもそもマトグロッソは、ナチが入りこむずっと以前から、脱獄者、指名手配の犯人など、ありとあらゆる逃亡者たちの避難場所だった。何かをききだそうとする者などいない。ほとんどだれもが一度ならず殺人を犯してきているのである。この神からも見捨てられた国で守らなければならないルールは2つだけ──密告するな、そして互いに助けあって法に立ち向かえ──だった。まるで暗黒街の掟ではないか。そしてこのどちらもが、ナチスにはうってつけのルールだったのである。」 |
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マキャベリ流経営術第9条 “戦いは自力で行え! KEN中国語教室 古今東西、傭兵(外注)制度を採用した国家は、カルタゴ・後期ローマ・フィレンチェ・イタリアはことごとく破滅の道をたどった。 マキャベリはイタリアの戦争は八百長戦争であったと言い切っています。さも大掛かりな戦争であったとしても、死者はせいぜい数人です。傭兵隊長同士が友達だったりしていたのです。 こんなことを長い間やっていたので、1492年以来、シャルル8世、ルイ12世、フェルディナンド2世、マクシミリアン1世などが、続々イタリアに入ってきたらひとたまりもなく、傭兵軍は逃げ落ちって行ったのであります。 その天、スパルタ、ローマは正規軍で傭兵は一切使いませんでした。 但し、スパルタは自国の2万人の軍隊だけで、それ以上は拡大しようとはしませんでしたが、ローマは占領国の人間で信用のある人々にはローマ市民権を与えて、ローマ正規軍に組み入れたので、同じく2万人のローマ軍は28万人にまで拡大して行ったのです。 マキャベリはフィレンチェ市民軍結成の重要性を啓蒙・献策して、徴兵制の法制化に尽力しましたが、周りは反対の大合唱でした。市民軍を結成したら、彼らが軍事力を利用して、クーデターを起こしかねないという意見が大勢を占めていました。 |
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妙円寺詣り二つののぼり 読売新聞 2011年10月22日 戦国武将・島津義弘(1535~1619年)ゆかりの伝統行事「妙円寺詣(まい)り」が22、23日に行われる日置市伊集院町で、参拝場所の徳重神社ののぼりとは別に今年初めて妙円寺ののぼりが立てられ、住民の目を引いている。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺となった後、再興されて約130年。その事実がほとんど知られておらず、徳重神社と混同されることが多いだけに、行事当日、参拝者が戸惑うことも予想される。(丸茂克浩) 妙円寺は、島津義弘が生前に自らの菩提寺と定めた曹洞宗の古刹(こさつ)。明治2年(1869年)に廃寺となって焼かれ、跡地に義弘を祭る徳重神社が建てられたことから、妙円寺詣りの参拝場所も同神社となった。同13年(1880年)に徳重神社近くに再興されたが、妙円寺詣りにはかかわることなく今日に至っている。寺には義弘の位牌(いはい)が安置されている。 伊集院の商店街や大通りには毎年、妙円寺詣りの行事の1か月ほど前から、日置市商工会青年部の呼びかけで企業や団体が奉納した徳重神社ののぼりが立てられる。同商工会によると、今年は10年に1度の更新の年で、紫を白く染め抜いたデザインに統一。今月初めから51本を立てている。 一方、今年登場した妙円寺ののぼりは白と黒のツートンカラーで、「妙円禅寺」と書かれている。伊藤憲一住職(55)によると、檀(だん)信徒や企業、団体が51本を奉納し、同じデザインの小旗30本とともに今月16、17日に設置したという。伊藤住職は「徳重神社とはきちんと区別したうえで寺にも参拝してもらえれば」と期待する。 張り合うように風になびくのぼりに、伊集院の住民の受け止め方は様々だ。 商店経営の男性(81)は「寺と神社で本家争いをしているような感じがする。商工会の関係もあり、妙円寺詣りでは徳重神社にウエートを置くが、妙円寺も大事。個人的に厄払いに行っている」と言う。 伊集院で生まれ育ったという女性(67)は「妙円寺ののぼりは初めて見た。よそから来た人は神社と寺ののぼりを見て疑問に思い、どちらに参ったらいいか戸惑うのでは」と話した。 妙円寺詣り 関ヶ原の戦い(1600年)で、敗れた西軍に付いた島津義弘が敵中を突破して薩摩に戻った苦難をしのぶ「鹿児島三大行事」の筆頭。江戸時代、関ヶ原の戦いの前日に当たる旧暦9月14日の夜、鹿児島城下の武士がよろいかぶとを着て伊集院まで往復約40キロを歩き、妙円寺に参拝したのが始まりとされる。現在も多くの人が鹿児島から歩いて徳重神社を参拝。武者行列や奉納行事、スポーツ大会なども行われる。 ※ これまでの検証で、伊集院は、徳川幕府入植地の「中心」であることがわかった。 伊集院は、薩摩藩城下町の「鹿児島」にとって、「箱根の関所」にあたる要衝の地だ。そして、古代エジプト王朝の末裔である天皇・徳川一族の最も好む拠点だ。 この一族は、拠点を山間部の中心部で、特に「湖」の周囲に拠点を築く。エジプトでは、エルサレム。ヨーロッパでは、スイス。日本では、琵琶湖の畔、京都、そして諏訪湖の畔、諏訪・松本。枚挙にいとまがない。 伊集院では、朝鮮人の移住地を「美山」と呼ぶが、これも偽装朝鮮人である、天皇・徳川一族だ。 島津氏も、天皇一族から薩摩を滅ぼすことを命じられた一族だ。最初から、最後(今日)まで、一貫して鹿児島を「ゆでガエル方式ほめ殺し」にかける。 妙円寺詣りには、東京政府の鹿児島いじめ、鹿児島に入植・派遣された天皇・徳川一族「屯田兵」の裏切りが縮図となって表れている。 |
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橋下知事「ほぼ事実」…父親が元暴力団報道 スポーツ報知 2011年10月29日 来月27日投開票の大阪市長選で平松邦夫市長(62)を推薦する連合大阪の決起集会が28日、大阪市内で開かれた。毎日放送で平松市長の先輩アナウンサーだった斎藤努氏(69)が、市長選にくら替え出馬する橋下徹大阪府知事(42)を、殺害されたリビアの元最高指導者カダフィ氏になぞらえる過激批判。一方、週刊誌で自身の出自についてバッシングされた橋下知事は「ほぼ事実」と笑顔で認めながらも、中傷合戦には徹底抗戦する構え。双方の対決姿勢がさらにヒートアップしてきた。 橋下氏はこの日夜、堺市内で行われた講演会に大阪府知事選候補予定者で大阪維新の会幹事長の松井一郎氏(47)と出席。亡くなった父親が暴力団員だったなどの週刊誌報道が相次いでいることに関して「時代が違えば鉄砲や大砲。今は週刊誌という武器なんですね。ほぼ事実です」と笑い飛ばす余裕を見せた。 また、“応援演説”した堺屋太一元経済企画庁長官(76)は「週刊誌に同じタイミングで橋下批判が載ったのは霞が関発。大阪都ができて権限がなくなると困る国家官僚がネタを流してるんです」と分析。 橋下氏も「敵はすべての既得権を守りたい勢力。中傷合戦で何が出てくるか。僕は法律に違反したこともカネにまつわる嫌らしいこともありません。お約束します。どういうことやられようが結構ですよ」と“ケンカ上等”の姿勢。平松氏側の過激発言にも動じることはなさそうだ。 |
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《日本に渡来した象》 象動物園へようこそ 生身の象が日本に初渡来したのは1408年(慶年15年、室町時代)足利義持の時代、南蛮船で若狭国。2度目の渡来は1574年(天正2年)明船が博多に象と虎を持ち込み、その翌年には同じく明船が象1頭の他に虎など数種の動物を贈ったが、この象は間もなく死亡している。 初渡来から2度目の象がくるまでに166年あいている。その後も1597年(慶長2年)豊臣秀吉にはマニラの総督から、又1602年(慶長7年)徳川家康には交趾国から贈られている。しかしこれらの象達がどうしたのかはわからない。長生きしたとは到底思えない。 そして時代も家康から8代将軍吉宗に移った1728年(享保13年)「象が見たい」の一言でアジアゾウ(オス、メス)2頭が長崎に着き、メスは吉宗に会うことなく間もなく長崎で死亡している。一方、オスの方は江戸で待っている吉宗に会うべく長崎から歩いて1729年、江戸までたどり着いている。 実に80日かかっての旅だ。 当然、この象1人(いや一頭)で歩くはずはありません。一緒に付き添ってきたベトナム人の象使いとこの任務を仰せつかった武士達で途方もない旅となったのでした。しかも、京都で天皇に見せるために位をもらってしまったからさぁ大変。将軍様のための象でしかも位がついちゃったもんだから、「象を死なせてなるまい」と象が通過する宿場町はお触れに従って”象様一行”を迎えた。 参考までにこの象の位は「広南従四位白象」、御存知忠臣蔵でおなじみの吉良上野助が従四位、浅野内匠頭が五位。象が格上なのだ。まっもっとも象からしちゃこんなものつけられてもぜ~んぜん知ったこっちゃない。だってこの象、江戸に着いてから吉宗は2.3度しか見ちゃいないし、その後13年間も飼育していたものの持て余していた所にずるがしこい農夫に払い下げとなり、見世物にされ商売に利用され世話なんぞやいてもらえず翌年死亡した。死んでも尚、象の亡骸は見世物になった。 わざわざ遠い国からやって来たのに、日本人に利用されるだけ利用されこの世を去った象は一体どれだけいるだろうか。ごく最近では2~3年前、某動物プロダクションが老齢の象をタイに送り返して一部問題にもなりましたが、きっと初渡来した象から今現在日本に住んでいる象達は皆そういう運命になってしまうのではないだろうか。 今でも私達日本人は都合が悪くなればそれこそ”ポイッ”してしまう。日本にきた象の歴史において、この”ポイッ”がつきまとう。これが象達にとって最悪の歴史の始まりでもあるように私は思えてならない。 |
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米大統領首席補佐官が交代 オバマ政権立て直しなるか 産経新聞 2012年1月11日 オバマ米大統領は9日、政策立案や議会折衝を統括してきたデーリー首席補佐官が辞任し、後任に行政管理予算局(OMB)のルー局長を起用すると発表した。交代は月末の見通し。オバマ政権は財政赤字削減などで議会と激しく対立し、 ◆後任にルー氏起用 新任のルー氏は国務副長官を経て、2010年11月にOMBの局長に就任。オバマ政権の財政再建策を主導し、米議会にも太いパイプがある。オバマ氏は記者会見で、ルー氏について「経済面でのアドバイスは貴重で、私は信頼している。国外での重要課題についてもそうだ」と述べ、手腕を評価した。 デーリー氏はクリントン政権下で商務長官を務め、金融大手JPモルガン・チェース銀行の役員から首席補佐官に就任。豊富な財界人脈や持ち前の調整力で、金融界や議会との関係改善が期待されていた。 しかし、昨夏の連邦債務上限引き上げ問題で議会との対立を回避できず求心力は低下。昨年9月に大統領が行った議会上下両院合同会議演説の日程も調整不足で二転三転し、民主党内からも批判にさらされた。 デーリー氏は大統領選後の退任に言及していたが、今月3日に突然辞意を伝え、一度は慰留した大統領も翌日に許可した。 ◆高官辞任が相次ぐ オバマ政権の高官は次々に辞任しており、首席補佐官は発足当初のエマニュエル氏(現シカゴ市長)からピート・ラウス氏、デーリー氏にバトンタッチされていた。 経済チームでも発足当初から残る主要メンバーはガイトナー財務長官のみで、ガイトナー長官は金融危機の収束など苦楽をともにしてきた“盟友”だが、昨年にそのガイトナー氏もいったん辞任の意思を固め、大統領に慰留された経緯がある。 プリンストン大のジュリアン・ゼリザー教授はロイター通信に、一般の関心が共和党の候補指名争いに向き、政権内の動揺を詮索する報道が出る可能性が低いことからも「人事刷新には良い時期だ」との意見を寄せたが、選挙を控えた中での側近交代は政権の不安定さを示し、オバマ氏にとって痛手となるとの見方も出ている。 |
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戦後60年の原点/その時、子どもだった 児玉清さん(2005年4月6日) 毎日新聞 2011年5月17日 ◇「日本のいちばん長い日」に侍従役で出演、児玉清さん(71) 昭和20年8月14日を描いた「日本のいちばん長い日」(1967年、岡本喜八監督)という映画に侍従役で出ました。血気盛んな、戦わずして敗れるなという軍人がたくさんいる中で、鈴木内閣の仕事はまさに決死行。僕自身が戦争とか戦後史に興味があったので、大変貴重な経験でした。 終戦当時、僕は11歳で国民学校の6年生。群馬県に学童疎開していました。4月12日に、ルーズベルト(米大統領)が死んだと知って僕らは万歳、万歳って大騒ぎした。「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル(英首相)チルチル国が散る」って毎日歌ってましたから。「これでアメリカは力を失う」と言う先生もいましたよ。 大学時代に知ったことですが、ルーズベルトが死んだ時にヒトラーはものすごく罵倒(ばとう)したのに、鈴木貫太郎は弔意を示している。敵国の大統領なのにね。それをドイツの作家トーマス・マンが「日本に騎士道精神あり」と評したそうです。この話はすごく身にしみました。それで鈴木についてのいろんな伝記を読んだら、剣豪に相通じる知恵の深さというか、勝負の見切りとかがある人だと思いましたね。 物事は何でもやるのは簡単だけど収めるのは大変ですよ。ある意味で、日本はまだ鈴木という駒を持っていたんですね。それに比べて、今の政治家には先見性やビジョンがない。 改革、改革って言うけれど、自分たちは今まで何してたんだと。国の借金も根本的なことはほっぽっといて、禍根は全部後ろに残していく。それはちょっとないよ、という気がするなあ。だから鈴木貫太郎みたいな人が、今いてほしいと思いますよ。 |
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