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前項でスターリンの名前の語呂合わせを述べたが、英文翻訳の過程でとんでもない事実に直面した。愕然としたが、これも陰謀かどうかきわどい話だ。判断は読者にゆだねる。
話は仮説に基づくもので、その理由も示しながら話すと話が長くなる。それで、一方的だが、一部仮説に基づいて物語を編集してみる。この話は少なくとも400年はさかのぼる。だが、要点だけにとどめるために日本の幕末から述べる。
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ロシアと日本の接触とフランス革命の勃発
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松平 定信
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日本のフランス革命に対する執着はすでに述べたが、その中でも際立つのが、ロシアと江戸幕府の接触だった。アメリカ大陸では英国からの独立機運が高まり、1773年ボストン茶会事件が起こる。これは1775年アメリカ独立戦争に発展する。
ロシアにとってアラスカ方面は脅威であるとともに、領土拡張の最後のチャンスとなる。ロシアはただちに探検隊を派遣する。1775年、シェリホフは千島列島とアリューシャン列島への探検を開始する。この話はすぐに江戸幕府に伝わる。ロシア海軍から官房長に昇進したレザノフはシェリホフの娘と結婚し、国策露米会社「シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社」を引き継ぐ。
1782年、日本の回船(運輸船)が嵐のためアリューシャン列島に漂着、1789年その船頭大黒屋光太夫は、イルクーツクに向う。途中、光太夫はカムチャツカでフランス人探検家に出会う。この情報は、江戸幕府にも伝わったはずだ。一方、江戸幕府は1788年、江戸の材木商飛騨屋に蝦夷地の蝦夷檜(エゾマツ)伐採を許可し、国後(クナシリ)島にて、大規模な搾粕(シメカス)製造を開始した。アイヌ人に対する日本人支配は過酷を極めた。
アイヌ女性が年頃になると国後島に送られ、漁師達の慰み物になった。また、人妻は会所で番人達の妾にされた。男は離島で5年も10年も酷使された。独身者は妻帯も難しかった。その結果寛政年間には2000余だった人口は、幕末には半減していた。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方全体で明治13年に955人いたアイヌ人口は、明治24年には381人にまで減った。
1789年5月、アイヌ人は日本人に対して反乱を起こす(クナシリ・メナシの戦い)。国後島のアイヌ人総首長ら要人が日本人に毒殺され、危機を感じたアイヌ人が一斉蜂起した。日本の鎮圧軍は7月8日にノッカマップに到着、7月21日37人のアイヌ人を処刑した。
この間7月14日、ヨーロッパではフランス革命が起こりバスティーユ牢獄が襲撃された。当時ヨーロッパと日本の情報交換に数ヶ月を要したはずだが、この時期の一致は奇妙だ(指摘するサイトも多い)。
1792年、ラクスマンは、光太夫一行を返還する目的で日本との通商を求め、江戸幕府老中松平定信はロシアとの国交樹立を約束した。だが、翌年松平定信は尊号一件などを理由に辞職を命じられ、白川藩に戻る。
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解説(一般論)
これらの歴史的事象は、一見無関係に見えるが、今日他の事件等を比較対照すると、明らかな日本の陰謀が浮かび上がる。陰謀は複雑怪奇であり、納得できる解説には長文を要するが、時間の都合で要点だけ箇条書きに述べる。詳細は、他の書籍やリンク等で検証されたい。
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1.
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室町時代から安土桃山時代にかけて海外と公式・非公式に交易した日本人は多かったはずだ。歴史上の記録に残っているか、情報公開されているかは問題ではない。倭寇などは、その一例だ。もちろんヨーロッパに住み着いた日本人も多くいたはずだ。商魂たくましい日本人が金儲けのチャンスを見逃すはずがない。
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2.
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日本は、東南アジアに日本人町を形成した。だが、現地の反発を買った日本は鎖国政策を導入し、表向きは日本人の影響は東南アジアから消えていった。だが、これは、表向きのことであり、江戸幕府は、国内で公儀隠密を各地に派遣するのと同様に、海外にも公儀隠密を多数派遣した(西郷隆盛は事実上公儀隠密だった)。特に、その活動はヨーロッパで成功した。
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3.
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公儀隠密の仕事は、諜報活動、破壊工作活動、マネーロンダリングだ。これらは今日のスパイとほとんど変わらない。だが、最も注目すべきは、「子作り」だ。現地の異性との間に混血児を残し、その家系を将来にわたる日本の協力隊に仕上げる。もちろん、生活費を定期的に支給する。国内の母子家庭福祉手当と考えれば、戦争に比べはるかに安上がりだ。
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4.
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日本が政治的に「改革」という表現を使う時、外交交渉や戦争などの陰謀を働いている。「享保の改革」、「寛政の改革」、「天保の改革」の江戸時代の三大改革は、常に外国との交渉での陰謀を含んでいた。最近の、「小泉構造改革」もこれをまねたもので、もちろん陰謀に満ちていた。
「明治維新」もこの分類では「改革」なのだが、規模がとりわけ大きかったこと、表面上、武士社会から近代社会へ転換したことから、特別に「維新」という言葉が使われた。だが、その性質は、過去の「三改革」そして、今日の改革となんら変わらない。詳細は後述する。
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解説(寛政の改革)
寛政の改革の本来の目的は、ロシアの開国要求をかわすことだった。だが、日本は、ロシアの詳細な情報を得るために、ロシア国王に謁見しロシア国内を旅行した日本人水夫を取り戻したかった。この目的を果たすために壮大な演出が行われた。
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1.
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この時期日本の難破船がロシアに漂着し、外交問題に発展することは多かった。それまでロシアは、何も東方領土拡大を急ぐ必要はないと高をくくっていた。だがロシアは急速に日本に関心を示してきた。1776年米国が独立し、アラスカを含む北米大陸、北太平洋の広大な地域に大国が出現する可能性が出てきたのだ。ロシアは1705年、首都サンクトペテルブルクに日本からの漂流民を招いて日本語学校を設立している。だが、1753年には日本人教授を大幅に増やしてイルクーツクに移転し、来るべき日本との交渉に備えていた。
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2.
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1787年、江戸幕府は、14才の徳川家斉を第11代将軍に就任させ、老中に松平定信を置いた。これは、ロシアの開国交渉を二枚舌で乗り切るための陰謀だった。
この種の陰謀は日本の政治で今日まで繰り返される。つまり、外交交渉で相手側から最大の譲歩を勝ち取り、日本の示した譲歩は後日、「将軍は未成年者で判断能力がなかった。」「その男は失脚した。」「その約束は個人的なもの。」「その男は死んだ。」「日本の政治体制は転換して、現政府は過去の約束は知らない。」などといった逃げ口上を用意する。この陰謀は相手国に見破られないように事前に周到な準備がなされる。
この時、江戸幕府は、老中松平定信を日本最高の権力者として交渉の前面に押し立て、用がすんだら消えてもらうシナリオを設定した。もちろん松平本人も承知の上だった。今日の自民党政権でもこの種のインチキは多い。後日述べる。
1787年松平定信は、尊号一件で朝廷と幕府の全面対決を招いた(朝廷・幕府ぐるみのやらせ事件)。これは、明治維新の尊王攘夷の対立と酷似する。そして、この事件はぐずぐずと長引く。
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3.
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ロシアは、日本の難破船の船頭を国王に謁見させ、その返還を条件に日本に開国させる政策を取った。それに対し、日本は1789年、ただちに日本のスパイであるフランス人探検家をイルクーツに送り、情報を入手した。
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4.
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1789年は上述したように、日ロ関係は緊張する。日本は、ロシアをヨーロッパに釘付けにするためにフランスで革命を起こした。日本は、こういった革命の準備に数十年かけている。詳細は後述する。もちろん、多くの日本人混血が動員されたとみていい。この年、日本は年号を「天明」から「寛政」に改めた。寛政の改革は日本版フランス革命だった。
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5.
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1792年、それでもロシアは日本に強硬に開国を求めた。日本は拒否できないと判断、松平定信は船頭たちを受け取ることを条件に開国に同意した。これは、インチキで単なる時間稼ぎだった。ロシアが日本をあきらめるまで、いや、日本が北方領土を含むシベリアを獲得するまで、日本のヨーロッパでの陰謀は終わらない。もちろん今日まで終わったことはない。
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1793年老中松平定信は尊号一件を理由に突然辞職を命じられる(これは本人も含めた「やらせ」)。これで、江戸幕府内では開国の約束は反故にされた。
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これを知らないロシアは1804年9月、レザノフを日本の長崎に派遣、松平定信が約束した開国を求めた。ここでも日本はぐずぐず時間を引き延ばし、レザノフを追い払う。ロシアは、「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と確信し、1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉(エトロフ)港ほか各所を襲撃する(フヴォストフ事件)。日本は本格的な戦争を覚悟した。だが、ロシアでは、追い払われても仕方のない事情が背後で起こっていた。
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8.
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フランスではナポレオンが登場し、1804年12月即位式を行った。これ以降ヨーロッパは戦乱に明け暮れ、ついにナポレオンは、1812年大軍を率いてモスクワを攻撃した。
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9.
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それから100年後、1904年日本は日露戦争を起こし、ロシアに復讐を果たす。
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結論
一連の事件には明らかな関連が感じられる。これだけで日本の陰謀を主張するのは早計かもしれないが、他の事件を参照することで事実が見えてくると思う。
1635年、江戸幕府は日本人の渡航と帰国を禁じた。 これが問題の始まりだった。
日本近海では今日でも年間数百隻の船舶が難破する。九州だけでも数多くの中国船が漂着する。日本のマスコミは全く報道しないが、海外の報道で知ることができる。
国内に帰れない日本人は累積的に膨れ上がる。これは、江戸幕府は想定していなかった。もちろん海外には公儀隠密を派遣していたから、秘密裏に殺すこともあっただろう。現に、東南アジアの日本人町の侍の中には、日本を逆に攻撃・支配しようとする動きをする者もいた。
日本の公儀隠密の当初の目的は、こういった日本人の取り締まりだったが、その目的はいつしか近代的スパイ活動に変わり、日系混血を増やすことで、国内の忍者組織同様の組織が海外に広がった。今日のテロリストの中には、こういった者たちも多い。
危急存亡の時、日本で登場する人物には共通するパターンがある。主流派ではない少数派で、強固な支持基盤はないが何故か急激に人気を博し、大事件を処理する、目的が達せられると簡単に消えるか、政治的に始末される(松平定信、井伊直助、西郷隆盛、大久保利通、東郷茂徳、東條英機、岸信介、田中角栄、中曽根康弘、小泉純一郎など)。
1853年浦賀に来航した米国海軍司令官ペリーは、『ペリー提督日本遠征日記』で次のように日本を記述している。
「日本に諜報員(スパイ)を常駐させねばならぬ」
「日本人は(他のアジア人に比して)ずる賢く狡猾な国民であり、交渉をずるずると引き延ばす技術にたけている」
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日本が交渉を引き延ばすのには、必ず理由がある。江戸の仇を長崎で討つ、その時間を稼いでいるのだ。ペリーはそこまでは気がつかなかっただろう。
レザノフは日本から帰国して1年、ペリーは帰国して4年で死亡している。米国のもう一人の外交官タウンゼント・ハリスは日本滞在中に体調を崩し帰国した。
こういった傾向は一貫して江戸時代から変わらない。江戸時代の陰謀の伝統やしがらみを現代の日本政府もしっかりと引き継いでいる。それゆえ、現在の日本政府は未だに江戸幕府の大本営に支配されていると私は主張するのだ。
千島南部/ロシア・日本関連年表
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