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日本の陰謀(3) 2項


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150  フジモリの秘密 2009/5/14
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  2009/4/25  #207

日本の陰謀 (147)

スターリンの秘密(1)


前項でスターリンの名前の語呂合わせを述べたが、英文翻訳の過程でとんでもない事実に直面した。愕然としたが、これも陰謀かどうかきわどい話だ。判断は読者にゆだねる。

話は仮説に基づくもので、その理由も示しながら話すと話が長くなる。それで、一方的だが、一部仮説に基づいて物語を編集してみる。この話は少なくとも400年はさかのぼる。だが、要点だけにとどめるために日本の幕末から述べる。

ロシアと日本の接触とフランス革命の勃発

松平 定信
日本のフランス革命に対する執着はすでに述べたが、その中でも際立つのが、ロシアと江戸幕府の接触だった。アメリカ大陸では英国からの独立機運が高まり、1773年ボストン茶会事件が起こる。これは1775年アメリカ独立戦争に発展する。

ロシアにとってアラスカ方面は脅威であるとともに、領土拡張の最後のチャンスとなる。ロシアはただちに探検隊を派遣する。1775年、シェリホフ千島列島アリューシャン列島への探検を開始する。この話はすぐに江戸幕府に伝わる。ロシア海軍から官房長に昇進したレザノフはシェリホフの娘と結婚し、国策露米会社「シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社」を引き継ぐ。

1782年、日本の回船(運輸船)が嵐のためアリューシャン列島に漂着、1789年その船頭大黒屋光太夫は、イルクーツクに向う。途中、光太夫はカムチャツカフランス人探検家に出会う。この情報は、江戸幕府にも伝わったはずだ。一方、江戸幕府は1788年、江戸の材木商飛騨屋に蝦夷地の蝦夷檜(エゾマツ)伐採を許可し、国後(クナシリ)島にて、大規模な搾粕(シメカス)製造を開始した。アイヌ人に対する日本人支配は過酷を極めた。

アイヌ女性が年頃になると国後島に送られ、漁師達の慰み物になった。また、人妻は会所で番人達の妾にされた。男は離島で5年も10年も酷使された。独身者は妻帯も難しかった。その結果寛政年間には2000余だった人口は、幕末には半減していた。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方全体で明治13年に955人いたアイヌ人口は、明治24年には381人にまで減った。

1789年5月、アイヌ人は日本人に対して反乱を起こす(クナシリ・メナシの戦い)。国後島のアイヌ人総首長ら要人が日本人に毒殺され、危機を感じたアイヌ人が一斉蜂起した。日本の鎮圧軍は7月8日にノッカマップに到着、7月21日37人のアイヌ人を処刑した。

この間7月14日、ヨーロッパではフランス革命が起こりバスティーユ牢獄が襲撃された。当時ヨーロッパと日本の情報交換に数ヶ月を要したはずだが、この時期の一致は奇妙だ(指摘するサイトも多い)。

1792年、ラクスマンは、光太夫一行を返還する目的で日本との通商を求め、江戸幕府老中松平定信はロシアとの国交樹立を約束した。だが、翌年松平定信は尊号一件などを理由に辞職を命じられ、白川藩に戻る。

解説(一般論)

これらの歴史的事象は、一見無関係に見えるが、今日他の事件等を比較対照すると、明らかな日本の陰謀が浮かび上がる。陰謀は複雑怪奇であり、納得できる解説には長文を要するが、時間の都合で要点だけ箇条書きに述べる。詳細は、他の書籍やリンク等で検証されたい。
1.

室町時代から安土桃山時代にかけて海外と公式・非公式に交易した日本人は多かったはずだ。歴史上の記録に残っているか、情報公開されているかは問題ではない。倭寇などは、その一例だ。もちろんヨーロッパに住み着いた日本人も多くいたはずだ。商魂たくましい日本人が金儲けのチャンスを見逃すはずがない。

2.

日本は、東南アジアに日本人町を形成した。だが、現地の反発を買った日本は鎖国政策を導入し、表向きは日本人の影響は東南アジアから消えていった。だが、これは、表向きのことであり、江戸幕府は、国内で公儀隠密を各地に派遣するのと同様に、海外にも公儀隠密を多数派遣した(西郷隆盛は事実上公儀隠密だった)。特に、その活動はヨーロッパで成功した。

3.

公儀隠密の仕事は、諜報活動、破壊工作活動、マネーロンダリングだ。これらは今日のスパイとほとんど変わらない。だが、最も注目すべきは、「子作り」だ。現地の異性との間に混血児を残し、その家系を将来にわたる日本の協力隊に仕上げる。もちろん、生活費を定期的に支給する。国内の母子家庭福祉手当と考えれば、戦争に比べはるかに安上がりだ。

4.

日本が政治的に「改革」という表現を使う時、外交交渉や戦争などの陰謀を働いている。「享保の改革」、「寛政の改革」、「天保の改革」の江戸時代の三大改革は、常に外国との交渉での陰謀を含んでいた。最近の、「小泉構造改革」もこれをまねたもので、もちろん陰謀に満ちていた。

明治維新」もこの分類では「改革」なのだが、規模がとりわけ大きかったこと、表面上、武士社会から近代社会へ転換したことから、特別に「維新」という言葉が使われた。だが、その性質は、過去の「三改革」そして、今日の改革となんら変わらない。詳細は後述する。

解説(寛政の改革)

寛政の改革の本来の目的は、ロシアの開国要求をかわすことだった。だが、日本は、ロシアの詳細な情報を得るために、
ロシア国王に謁見しロシア国内を旅行した日本人水夫を取り戻したかった。この目的を果たすために壮大な演出が行われた。
1.

この時期日本の難破船がロシアに漂着し、外交問題に発展することは多かった。それまでロシアは、何も東方領土拡大を急ぐ必要はないと高をくくっていた。だがロシアは急速に日本に関心を示してきた。1776年米国が独立し、アラスカを含む北米大陸、北太平洋の広大な地域に大国が出現する可能性が出てきたのだ。ロシアは1705年、首都サンクトペテルブルクに日本からの漂流民を招いて日本語学校を設立している。だが、1753年には日本人教授を大幅に増やしてイルクーツクに移転し、来るべき日本との交渉に備えていた。

2.

1787年、江戸幕府は、14才の徳川家斉を第11代将軍に就任させ、老中に松平定信を置いた。これは、ロシアの開国交渉を二枚舌で乗り切るための陰謀だった。

この種の陰謀は日本の政治で今日まで繰り返される。つまり、外交交渉で相手側から最大の譲歩を勝ち取り、日本の示した譲歩は後日、「将軍は未成年者で判断能力がなかった。」「その男は失脚した。」「その約束は個人的なもの。」「その男は死んだ。」「日本の政治体制は転換して、現政府は過去の約束は知らない。」などといった逃げ口上を用意する。この陰謀は相手国に見破られないように事前に周到な準備がなされる。

この時、江戸幕府は、老中松平定信を日本最高の権力者として交渉の前面に押し立て、用がすんだら消えてもらうシナリオを設定した。もちろん松平本人も承知の上だった。今日の自民党政権でもこの種のインチキは多い。後日述べる。

1787年松平定信は、尊号一件で朝廷と幕府の全面対決を招いた(朝廷・幕府ぐるみのやらせ事件)。これは、明治維新の尊王攘夷の対立と酷似する。そして、この事件はぐずぐずと長引く。

3.

ロシアは、日本の難破船の船頭を国王に謁見させ、その返還を条件に日本に開国させる政策を取った。それに対し、日本は1789年、ただちに日本のスパイであるフランス人探検家をイルクーツに送り、情報を入手した。

4.

1789年は上述したように、日ロ関係は緊張する。日本は、ロシアをヨーロッパに釘付けにするためにフランスで革命を起こした。日本は、こういった革命の準備に数十年かけている。詳細は後述する。もちろん、多くの日本人混血が動員されたとみていい。この年、日本は年号を「天明」から「寛政」に改めた。寛政の改革は日本版フランス革命だった。

5.

1792年、それでもロシアは日本に強硬に開国を求めた。日本は拒否できないと判断、松平定信は船頭たちを受け取ることを条件に開国に同意した。これは、インチキで単なる時間稼ぎだった。ロシアが日本をあきらめるまで、いや、日本が北方領土を含むシベリアを獲得するまで、日本のヨーロッパでの陰謀は終わらない。もちろん今日まで終わったことはない。

6.

1793年老中松平定信は尊号一件を理由に突然辞職を命じられる(これは本人も含めた「やらせ」)。これで、江戸幕府内では開国の約束は反故にされた。

7.

これを知らないロシアは1804年9月、レザノフを日本の長崎に派遣、松平定信が約束した開国を求めた。ここでも日本はぐずぐず時間を引き延ばし、レザノフを追い払う。ロシアは、「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と確信し、1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉(エトロフ)港ほか各所を襲撃する(フヴォストフ事件)。日本は本格的な戦争を覚悟した。だが、ロシアでは、追い払われても仕方のない事情が背後で起こっていた。

8.

フランスではナポレオンが登場し、1804年12月即位式を行った。これ以降ヨーロッパは戦乱に明け暮れ、ついにナポレオンは、1812年大軍を率いてモスクワを攻撃した。

9.

それから100年後、1904年日本は日露戦争を起こし、ロシアに復讐を果たす。

結論

一連の事件には明らかな関連が感じられる。これだけで日本の陰謀を主張するのは早計かもしれないが、他の事件を参照することで事実が見えてくると思う。

1635年、江戸幕府は日本人の渡航と帰国を禁じた。 これが問題の始まりだった。

日本近海では今日でも年間数百隻の船舶が難破する。九州だけでも数多くの中国船が漂着する。日本のマスコミは全く報道しないが、海外の報道で知ることができる。

国内に帰れない日本人は累積的に膨れ上がる。これは、江戸幕府は想定していなかった。もちろん海外には公儀隠密を派遣していたから、秘密裏に殺すこともあっただろう。現に、東南アジアの日本人町の侍の中には、日本を逆に攻撃・支配しようとする動きをする者もいた。

日本の公儀隠密の当初の目的は、こういった日本人の取り締まりだったが、その目的はいつしか近代的スパイ活動に変わり、日系混血を増やすことで、国内の忍者組織同様の組織が海外に広がった。今日のテロリストの中には、こういった者たちも多い。

危急存亡の時、日本で登場する人物には共通するパターンがある。主流派ではない少数派で、強固な支持基盤はないが何故か急激に人気を博し、大事件を処理する、目的が達せられると簡単に消えるか、政治的に始末される(松平定信、井伊直助、西郷隆盛、大久保利通東郷茂徳東條英機岸信介田中角栄中曽根康弘小泉純一郎など)。

1853年浦賀に来航した米国海軍司令官ペリーは、『ペリー提督日本遠征日記』で次のように日本を記述している。

「日本に諜報員(スパイ)を常駐させねばならぬ」

「日本人は(他のアジア人に比して)ずる賢く狡猾な国民であり、交渉をずるずると引き延ばす技術にたけている」

日本が交渉を引き延ばすのには、必ず理由がある。江戸の仇を長崎で討つ、その時間を稼いでいるのだ。ペリーはそこまでは気がつかなかっただろう。

レザノフは日本から帰国して1年、ペリーは帰国して4年で死亡している。米国のもう一人の外交官タウンゼント・ハリスは日本滞在中に体調を崩し帰国した。

こういった傾向は一貫して江戸時代から変わらない。江戸時代の陰謀の伝統やしがらみを現代の日本政府もしっかりと引き継いでいる。それゆえ、現在の日本政府は未だに江戸幕府の大本営に支配されていると私は主張するのだ。

千島南部/ロシア・日本関連年表

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  2009/4/28  #208

日本の陰謀 (148)

ナポレオンの秘密(1)


前項でスターリンの秘密を編集するうち、当然のことだが、ナポレオンの歴史を調べた。以前から日本と何らかの関係があると指摘していたが、新たな事実がいくつか出てきた。途中ではあるが、ここで特にナポレオンと日本の秘密について簡単にまとめてみる。

歴史上の日付の一致点

ナポレオンの歴史上の重要な日付は、日本の歴史上の日付と一致するものが多い。現在の新暦(グレゴリオ歴)と旧暦(旧太陰暦)を比較すると、さらに多くの事例が浮かびあがる。これまでに気がついたものを取り上げるが、まだまだ多くの事例があると思われる。わかり次第追加する。

ナポレオン・ボナパルト

新 暦 旧 暦 出 来 事
1804.2.11 文化元年1月1日 1787年松平定信が老中に就任し、寛政の改革が始まる。この2年後、フランス革命が起こり、1804年、ついにナポレオンがフランスの頂点に立った。この年、日本は年号を「文化」に変えた。

この年号の始まりとなる正月は、西暦1804年2月11日だった。のちに明治政府はこの日を紀元節(現在の建国記念の日)に定める。その説明は一応なされてはいるが、こじつけがましい。このナポレオン皇帝就任の年の正月を建国記念日にしたのは間違いあるまい。

しかも、文化という年号は、前の年号の享和4年2月11日に改元するという念の入れようだ。すなわち、文化という年号は、2月11日から始まる。この日は、西暦の1804年3月21日だった。

明治維新の時に一世一元の詔が出され、天皇の代毎に改元する一世一元の制に改められた。だが、明治以前は、天皇の交代時以外にも随意に改元していた。
1804.12.2 文化元年11月1日 ナポレオンは皇帝に就任する日を選んだ。それは12月2日だった。私は当初、語呂合わせは想像さえしなかった。だが、上の語呂合わせが判明したとき念のために旧暦を調べた。文化元年11月1日だった。

何故ナポレオンは1月1日を選ばなかったのか考えた。答えは簡単だった。文化元年は西暦3月22日に始まっており、数字の一の語呂合わせが最初に巡ってくる日は、1804年12月2日(文化元年11月1日)だった。

こじつけが過ぎると思う人もいるだろう。だが、フランスは、その後も似たような語呂合わせを繰り返している。第一次大戦終結の日時設定など、全く同様の語呂合わせを行っている。

11月11日パリ時間午前11時に第一次世界大戦の休戦協定が成立した。当然語呂合わせだ。

新 暦 旧 暦 出 来 事
1815.2.26 ****** 1815年2月26日、エルバ島を脱出したナポレオンは、パリへ向けて進軍を開始した

1936年2月26日、陸軍皇道派の青年将校らが「昭和維新断行」を掲げて二・二六事件を起こす。二・二六事件はナポレオンを記念して決行されたクーデターだった。
1815.6.22 文化12年5月15日 ヨーロッパ各国は第七次対仏大同盟を結成してナポレオンの打倒にかかった。これに対し、ナポレオンはベルギーへ出撃して戦いを挑むが、1815年6月18日のワーテルローの戦いで決定的敗北を喫し、6月22日皇帝を退位した。この日は、文化12年5月15日だった。

1932年5月15日、大日本帝国海軍急進派の青年将校は、五・一五事件を起こす。五・一五事件はナポレオンを記念して決行されたクーデターだった。

五・一五事件からちょうど40年後の1972年5月15日、沖縄が米国から日本に返還された。この日も日本政府が設定したことは間違いない。米国が選ぶはずがない。

新 暦 旧 暦 出 来 事
1799.11.9 ****** 革命で混乱するフランスを最後に統一したのはナポレオンだった。1799年11月9日のブリュメールのクーデターでナポレオンは全権を掌握する。

尊王攘夷で混乱する日本を最後に統一したのは薩長連合の明治政府だった。新政府は徐々に権力を掌握するが、その第一弾が1867年11月9日の将軍徳川慶喜大政奉還だった。大政奉還は、ナポレオンのクーデターの日に合わせて行われた

新 暦 旧 暦 出 来 事
1814.5.3 ****** 1812年ロシア遠征を決行したナポレオンは、ロシアの冬将軍に苦しめられ、翌年敗走する。フランスにもどることは出来たが、将軍たちの反乱に会い、1814年5月3日エルバ島に追放された。以後、この日は日本の重要な日になる(敗北を認める屈辱の日、復讐を誓う日)。
1868.5.3 ****** 1868年5月3日(旧暦4月11日)、旧幕府軍代表の勝海舟は、明治新政府軍の代表西郷隆盛との交渉の末、江戸城を明け渡した。ナポレオンを記念した。
1946.5.3 ****** 1946年5月3日極東国際軍事裁判が始まった。大本営の敗北・明け渡しの日だった。
1970.5.3 ****** 1970年5月3日、創価学会の池田大作会長が創価学会と公明党の分離を発表した。批判勢力に対する事実上の屈服だった。

池田会長は、『波瀾万丈のナポレオン』という本まで出版している。

新 暦 旧 暦 出 来 事
1769.8.15 明和6年7月14日 新暦と旧暦に関する関連が多いので、ナポレオンの誕生日(1769年8月15日)を調べた。それは、何と旧暦の7月14日だった。7月14日はフランスの建国(革命)記念日だ。だが、この日は日本では、パリ祭と呼ばれる。これには大きな疑問があった。日本は、この日がナポレオンの誕生日を暗示することを知っている。

では、何故こういうことになったのだろうか。それは、歴史的な革命の決行の日を決定したのが日本だったということだ。それゆえ、命令では、ナポレオンの誕生日の(明和6年)7月14日が指示された。だが、その指示は、ナポレオンの誕生日としてではなく、単に「7月14日」というものだった。それゆえ、革命の決行部隊は、1789年7月14日に刑務所を襲撃した。

この頃ナポレオンは砲兵士官であり、革命に直接影響を与える力はなかったはずだ。もし、背後に日本がいたとすれば、最初からナポレオンを皇帝にする段取りで事が進められたとみるべきだ。日本の陰謀では珍しいことではない。
1863年8月15日薩英戦争が起こった。これを仕掛けたのは英国海軍ではなく薩摩側であり、日付を設定したことがうかがえる。
1914年8月15日日本はドイツに対し最後通牒を行い、第一次世界大戦に参戦した。日本は第一次戦争勃発を知っていた。それで、オーストリア帝国の皇后エリーザベトの名を冠した巡洋艦「カイゼリン・エリーザベト」号を事前に中国に招待し、戦争勃発に合わせて、攻撃し撃沈した。
1945年8月15日、日本はナポレオンの誕生日に連合軍に無条件降伏する。生まれ変わる日本を象徴したのだろうか。私はこれまで日本が カトリックの例大祭に合わせてこの日を選んだと思っていたが、それではないようだ。いや両方を含んでいるのかもしれない。

実際のところ、日本は9月2日降伏文書に調印しており、しばらくはこの日が「降伏記念日」とか「敗戦記念日」と報道されていた。それが、いつしか、日本政府の情報統制で8月15日が終戦記念日となった。日本のこの日に対するこだわりは異常だ。
1812.9.14 ****** 上記の薩英戦争となった生麦事件の日付を調べた。驚いた、ここでもナポレオンが登場する。1812年9月14日、ナポレオンはこの年モスクワを攻撃しついにこの日モスクワに入城した

50年後の1862年9月14日の生麦事件は偶発を装っているが、薩摩が日付を選んで仕掛けた陰謀と考えていい。いくら英国紳士が外国人で日本を知らないといっても、しばらく滞在すれば日本の侍の危険なことくらい知恵を授ける者もいたはずだ。無用の殺傷は、薩摩に何の利益もなかったはずだ。陰謀に基づく挑発行為と考えるべきだ。
1812.6.23 ****** ナポレオンがモスクワ攻撃を開始したのは1812年6月23日。この日は、特にクーベルタンにとって重要だった。クーベルタンは、この日に国際オリンピック委員会(IOC)を創設した。今日、オリンピックデーとなっている。

1945年6月23日、沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決した。太平洋戦争自体が東京オリンピック成功を目的とするものであった以上、この日が沖縄玉砕に選ばれたのは当然だ。
1985年6月23日のインド航空182便爆破事件も、オリンピックをめぐる日本とフランスの陰謀だと考えられる。日本の日付へのこだわりは尋常でない。


本当に次から次に出てくる。ここで一休みさせて欲しい。日本に何故このような力があるのか不思議に思う人も多いだろう。それには「埋蔵金」というからくりと日本という国家の長期戦略を説明せねばならない。後日述べたい。

また、旧暦と新暦の対照については、江戸時代には京都において真太陽時による暦の計算がおこなわれていた。日本は既に天文学に基づく高度な技術を確立しており、日本独自の太陰暦を採用していた。正確な新暦の日付も知っていたはずだ。

ナポレオンは、身長167センチで軍人としては小男で風采も上がらなかった。よく写真を眺めると、目の特徴や足の短さなど、日本人に見えて見えて仕方がない。それは私だけなのだろうか。

ちなみに、民主党代表鳩山由紀夫は1947年2月11日生まれだ。新たなナポレオン誕生だろうか。

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  2009/5/10  #209

日本の陰謀 (149)

ナポレオンの秘密(2)


前項でナポレオンと日本の関連を述べたが、ナポレオンの顔立ちが日本人に似ていることが脳裏から離れない。それで、一族の写真を比較してみた。やはり、日本人だ。これは、私の偏見だろうか。画像はネット上でもいくつか見ることができるが、信頼性を考慮して、ウィキペディアに限定して紹介する。

ナポレオンの

ナポレオンの両親とも日本人の混血だと思われる。



ナポレオン1世

ナポレオンとはイタリア語でナポリのライオンという意味だ。日本のナポリに対するこだわりは尋常ではない。当時ヨーロッパで日本人を知る人は極めて少なく、日本人の顔をしていても誰も疑うことはなかった。


ナポレオン・コンプレックス

背の低い人には劣等感があり、攻撃的であるという説がある。「ナポレオンは、目立って背が低く、コンプレックスをもっていた。その反動として、それを克服するために激しい征服欲を燃やした。」と言われる。ナポレオンの身長には諸説があるが、日本人との関係が全く知られていない時点で背の低さが話題にされたことは重要だ。

ナポレオン(家)とジョセフィーヌ(家)との二重の結婚

ナポレオンの両親とも日本人の混血だと思われる。ナポレオンの歴史は一見滅茶苦茶に見えるが、陰謀という観点でみると、見事に首尾一貫している。ナポレオンの歴史は、ブルボン王朝の権威を引き継ぎながら、ブルボン王朝の血統の全くない、日本人の血統の王室をフランスに作ることだった。その点で、ナポレオンの歴史は見事な出来栄えとなっている。

私は、一連の陰謀の中心はナポレオンよりむしろ最初の妻ジョゼフィーヌと見る。1796年ジョセフィーヌはナポレオンと結婚する。6年後の1802年、連れ子の娘オルタンスをナポレオンの弟ルイと結婚させる。

━━━━━
1796年結婚
━━━━━
1809年離婚
━━━━━
ナポレオン1世 ナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌ
━━━━━
1802年結婚
━━━━━
1810年離婚
━━━━━
ナポレオンの弟ルイ ジョゼフィーヌの連れ子(娘)オルタンス


ナポレオン2世

これで、ブルボン王朝乗っ取りの準備は出来た。ナポレオンは、1809年ジョゼフィーヌと離婚し、1810年、マリー・アントワネットルイ16世の妻)の兄の孫娘マリア・ルイーザと結婚する。事実上、略奪婚だ。ブルボン王朝の子孫がその敵と喜んで結婚するはずがない。

1811年ナポレオン2世が誕生すると、ナポレオンの周囲は慌ただしくなる。1812年にはロシア遠征を決行するなど、ナポレオンは自滅へ向かってまっしぐらに進む。国家というシナリオで考えると、このナポレオンの行動はきわめて合理的だ。一種の自爆テロだった。ブルボン家の血筋を得たことで家柄の正当性が確保できた以上、ナポレオン1世も2世も役目は終わった。つまり、王位継承権で次に来るナポレオン3世(完全に日本の血を引く)に、必然的に王位を譲るためには、「死」しかない。それゆえ、ナポレオンは、派手な戦争での敗北を演出した。ナポレオン2世も若くして死んだ。

二人目の妻マリア・ルイーザ ナポレオン2世

ナポレオン3世

ナポレオン2世は父ナポレオン1世の失脚後、1815年一時的に形式的皇帝に即位する。だが、父が
セントヘレナ島に幽閉され、そして死亡するに及び、本人も絶望の中病死する。すべてが計画どおりのように見える。次回ナポレオン家から皇帝が選ばれるとき、第一位皇位継承はナポレオンの弟ルイとオルタンスの間に生まれたナポレオン3世だった。だが、この皇帝にはブルボン王朝の血は一滴も流れていない。それどころか、ますます日本人に似てくる。ナポレオン3世はナポレオン1世をまねて1952年クーデターを起こし皇帝に即位する。時あたかも日本は幕末でナポレオン1世の時と同様にフランスの援護射撃を必要とした。もちろんナポレオン3世も江戸幕府を支援するなど、いろいろ戦争を仕掛けるが帝政は崩壊に向かう。日本の軍資金も底をついていたのだろう。江戸幕府崩壊から3年目、1870年ナポレオン3世はプロイセン軍の捕虜となり、フランスの君主支配は終わりを告げた。

ナポレオン4世

ナポレオン4世は、皇太子として父ナポレオン3世を支えた。写真では、ますます日本人に似てくるように見える。最後は、アフリカの戦場でイギリス軍に加わり、1879年戦死した。



ナポレオンの関係者たち ナポレオン家系図

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  2009/5/14  #210

日本の陰謀 (150)

フジモリの秘密


ナポレオンの秘密を編集しながら、日本は世界中で同じことをしていると思った。そうすると、ペルーのフジモリ元大統領が浮かんだ。いやな予感がしたが、一応誕生日を見てみた。

驚いた。フジモリは、1990年7月28日に大統領に就任したが、その日はフジモリの52才の誕生日だった。フランス革命を参照してまた驚いた。

アルベルト・フジモリ

1789年起こったフランス革命は、ジャコバン派ロベスピエールが中心になって急進的な革命が推進された。だが、1794年7月26日ロベスピエールは、「粛清されなければならない議員がいる」と演説をした。これは自殺を示唆する演説で、実際7月27日テルミドールのクーデターが起こった。

1794年7月28日、ロベスピエールを含むジャコバン派22人が革命広場(現在の「コンコルド広場」)で処刑された。その後も粛清が続き、フランス革命はこの事件をもって終わりを告げ、次のナポレオン皇帝の時代に移ってゆく。

一方、ナポレオンはロベスピエールの弟オーギュスタン・ロベスピエール(兄とともに処刑)と繋がりがあったため軍務をはずされた。だが、1795年王党派が蜂起(ヴァンデミエールの反乱)すると、再び軍に登用され、パリ市街地に大砲を撃ち込み鎮圧に成功する。そして1796年ジョゼフィーヌと結婚する。以後、英雄となったナポレオンは皇帝への道をまっしぐらに進む。

反対派を利用しながら英雄に上り詰めるシナリオは、極めて日本的だ。日本には、反対派を使って目的を達成する詐欺の伝統がある。この点で、ペルーのフジモリも極めて日本的な戦術を使った。国民の不信感を払拭させるために、ゲリラを使ってフジモリだけが正義の味方であることを演出した。ペルー革命が終わり、フジモリがペルーのナポレオンの道をまっしぐらに進み始めた日が1990年7月28日だった。

驚いたことに、この7月28日はペルーの独立記念日だった。何故、1822年7月28日なのかは詳細がわからない。だが、南アメリカ諸国をスペインから独立させたアルゼンチンの軍人ホセ・デ・サン=マルティンに関係があることは間違いない。

フジモリの人生は最後までナポレオンのあとに続くようだ。ナポレオンは、1815年大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉される。フジモリも、国家警察の収容所に収容され、今年、禁固25年の判決が出た。フジモリは控訴している。

念のため7月28日の事件を調べた。奇妙な事件が結構多い。関連は後日調べたい。

1904年7月28日ロシアの内務大臣プレーヴェが暗殺された(日本の特務機関員明石元二郎の内部工作)。

1914年7月28日第一次世界大戦勃発。

1945年7月28日エンパイアステートビルディングに爆撃機B-25が激突。前々日には日本に降伏を要求するポツダム宣言が発表されていた。7月28日、日本政府は大手新聞を通じて、ポツダム宣言を笑い飛ばした

1976年7月28日24万人以上の死者を出した20世紀最大の唐山地震が発生した。 火力発電所建設のために派遣されていた日立製作所の社員3人が犠牲になった。日本の関与した人工地震の疑いがある。

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  2009/5/19  #211

日本の陰謀 (151)

スターリンの秘密(2)


当初スターリンの秘密を書き始めた理由は、現在の日本が江戸幕府の体制を温存していることを論証するためだった。しかし、寛政の改革あたりからロシアとフランスの影響が無視できなくなり、その分析を試みた。だが、英文の翻訳を通じて、新たな目を見張る事実が次々と現れた。ここでは、スターリンに限って要点を述べる。

スターリンの名前は、「コバ

スターリンは、仲間に自分のことを「コバ」と呼ぶように要求した。これは当時グルジアで広く読まれたアレクサンドル・カズベギの英雄物語の小説の主人公の名前であり、その題名は「父殺し」といった。革命家としてのスターリンは、この偽名を使い続けることになる。「コバ」は、日本語の「木場」または「木庭」を強く連想させる。

カトー(エカテリーナ・スワニーゼ)

During his education in Tiflis, he picked up the nickname "Koba", a Robin Hood-like brigand and protagonist from the 1883 novel The Patricide by Alexander Kazbegi. This became his favorite nickname throughout his revolutionary life. During conversations, Vladimir Lenin called Stalin "Koba".

「木場」という姓は日本に約9900名おり、苗字の順位は1621位だ。大隅の豪族の姓で、薩摩に豊臣氏の末裔である木場氏がいた。現在、鹿児島県に多い姓だという。

「木庭」という姓は日本に約3200名おり、苗字の順位は3772位だ。発祥は熊本県菊池藤原氏隆家流。備前などにも多いという。 

スターリンの妻の名前は、「カトー」

1905年、スターリンは最初の妻となるエカテリーナ・スワニーゼと出会う。翌年二人は結婚し、1907年スターリンの最初の子供ヤーコフが生まれる。妻エカテリーナは1907年12月5日チフスで死亡する。彼女の死はスターリンを非情にさせた。彼は友人に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語った。息子のヤーコフが出世すると、スターリンは息子を見捨てた。

エカテリーナは、「カトー」というニックネームで呼ばれ、ロシア軍女性兵士の仕立係として働いていた。

Ekaterina, nicknamed Kato, was a tailor who worked for the ladies of the Russian army.

「加藤」という姓は日本に約86万人おり、苗字の順位は11位だ。加賀の藤原氏、藤原利仁の六世正重に始まり、全国に分布する。

「嘉藤」という姓は日本に約4300人おり、苗字の順位は3058位だ。出自は不詳で、現在、島根県に多い。 

「河東」という姓は日本に約1500人おり、苗字の順位は6373位だ。発祥地は甲斐国巨摩郡河東などで、現在、東日本に多い。 

スターリンの妻の姉妹の名前は、「マリコ」と「サチコ」

スターリンの妻エカテリーナには二人の姉妹がいた。一人は、アレクサンドラ(ニックネームは「サチコ」)、もう一人は、マリア(ニックネームは「マリコ」)。男の兄弟は一人以上いたらしい。記録の残っている兄弟は、アレクサンドル・スワニーゼで、ドイツに留学しドイツ語とフランス語を話した。スターリンの妻エカトリーナの家族は裕福だったことは間違いない。アレクサンドルはトビリシ歌劇場の歌手マリア・コロナと結婚した。

マリコやアレクサンドルなど、妻エカテリーナの家族の大半は、スターリンの大粛清により処刑された。

スターリンは後日、「母以外に本当に愛した女性はエカテリーナだけだった。」と述べた。エカテリーナの葬式で、彼は友人に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語った。

日本人特務機関員の可能性は否定できない

これだけの名前がそろえば、日本人ならだれもが疑うだろう。スターリンの結婚の経緯もナポレオンと似ている。本人自身も日本人の影響が感じられるが、最初の妻に日本人の強い影響が感じられる。しかも、裕福な家族だ。これまでも述べてきたが、現在でも日本の特務機関員とみられる有名人は多い。

日露戦争ロシア革命

ロシア革命は日露戦争と重なる部分が多い。日露戦争直前からロシア国内は騒然としており、1903年、西部のロシア軍の3分の1が、「国内鎮圧活動」に従事していた。これらは、日本の破壊工作に間違いない。1904年2月8日の日本軍奇襲攻撃で始まった日露戦争は、こう着状況が続いた。ロシア公使館付陸軍武官の明石大佐は革命支援工作を画策した。この年、レーニンと会談して、資金援助によりロシアにレーニンを送り込んだ。1905年1月、ロシア第一革命が勃発、血の日曜日事件が起こる。この年、スターリンは結婚する。1905年2月の奉天会戦、1905年5月の日本海海戦で日本はこう着状況を打破していく。

スターリンとヒトラー

スターリンもヒトラーも日本の影響を強く感じるが、スターリンは軍事上の宿敵であるはずのヒトラーを称賛することがあった。両者ともお互いを称賛した。

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  2009/5/29  #212

日本の陰謀 (152)

ヒトラーの秘密


前項でスターリンの秘密を検証したが、最後はヒトラーとの共通点で終わった。ヒトラーは無謀なロシア遠征を行った点でナポレオンとの共通点も多い。まずは、誕生日などの日付で調べた。

チャップリンとの共通点

これまでも述べたが、チャップリンにはヒトラーとの共通点が多い。だが、それだけでは問題にならない。問題は、チャップリンが軍事クーデターなどを通じて日本と大きくかかわっていることだ。日本のほのめかし戦術の典型的事例だ(五・一五事件萩本欽一)。チャップリンは作品の中でも、ナポレオンとヒットラーにこだわり続ける。

日本的プロパガンダ

日本の宣伝活動は、政治とは一見無縁に見えるが、映画、音楽、スポーツといった大衆の扇動に大きな効果を上げる分野で行われる(「七人の侍」、「少林寺拳法」)。

アドルフ・ヒトラー

ヒトラーはナポレオン3世の生まれ変わり

ヒトラーの誕生日からナポレオン3世との関係を見つけるまで時間はかからなかった。ヒトラーの生まれた年「1889年」は、日本史を学んだことのある高校生なら誰でも一度は覚えた年だ。

1889年大日本帝国憲法発布…いち早く(1889)定めた明治憲法

だが、私にとってこの語呂合わせは極めて不可解だった。明治22年の憲法制定は近代国家としては遅すぎた。それまでは一体何をよりどころに政府は運営され、何を根拠に外交が行われたのだろうか。振り返って考えると、日本という国家にとって憲法は玄関の花飾りのようなものだ。今日、政治家から憲法の声は聞かれない。聞かれるのは、「憲法改正」の声だけだ。国会での審議の最大の焦点は、行政が憲法・法律に準拠して適正に運営されているかだが、このような議論は聞いたことがない(重箱の隅をつつくような些細な議論はある)。

この1889年という年は、もう一つの混乱を含んでいた。それは、フランス革命の1789年と100年違いで、しばしば日本史のテストで混乱した記憶がある。だが、これまでの検証で、この100年には重要な意味が含まれていたことが判明した。日本の憲法は、フランス革命を記念して制定され、明治維新から22年間、その時を待って、発布された。これでは、一人前の独立国とは言えまい。だが、さらに検証すると、一人前でなかったのはフランスではないかとの疑惑が起こった。ナポレオンは、日本が作り上げた怪物である可能性が大きいのだ。

1889年はフランスにとってお祭りの年だった。パリ万国博覧会エッフェル塔など祝賀行事が続いた。そして、日本でも大日本帝国憲法が発布された。その日は、フランス革命を記念する2月11日だった。その日、英米派の文部大臣森有礼暗殺された。1891年には、美濃・尾張地震が起こる。

実は、この年、すでに次のヨーロッパ革命が計画された。50年後のナポレオンの再来だった。1889年4月20日生まれの男が探された。そして白羽の矢があたったのが、ヒトラーだった。フランス革命100周年の年に生まれた男だ。しかも誕生日はナポレオン3世と同じ4月20日生まれの男だった。そして、この男は命令どおり、1939年9月1日、第二次世界大戦を勃発させた。この9月1日は、またもや日本の復讐の日だった。

ヒトラーの名前も語呂合わせで変えられた

ヒトラーを認知した父の姓は「ヒードラー」であったが、のちに「ヒトラー」と改姓している。「認知」と「改姓」に大きな疑惑がある。後日のために親族を排除する必要があった。語呂合わせのために、「ヒトラー」に名前を変えた。当時の日本では、「ヒットレル」と表記された。日本語の「ひっ捕らえる」の語呂合わせと考えるとつじつまが合う。今でもこの語呂合わせをからかうサイトは多い。今日でも日本に関連する政治家には語呂合わせが多い。

ナポレオン崇拝者ヒトラー

ナチス・ドイツ占領下の1940年、ヒトラーは、オテル・デ・ザンヴァリッドの地下墓所にナポレオン2世を移した。 ヒトラー率いるドイツ軍は、ナポレオンを記念して1941年6月22日ソ連攻撃を開始した。ナポレオンのロシア侵入は1812年6月22日だった。

結局ヒトラーは全て日本に都合よく動いた

東京オリンピックをめぐり、ヒトラーもスターリンも日本に都合よく動いた。これらの歴史を検証すれば、世界の腐敗した独裁者やテロリストが日本の作り上げた怪物であるという主張を否定することは出来ない。

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  2009/6/4  #213

日本の陰謀 (153)

北朝鮮の後継者 金正雲


北朝鮮で金日成金正日、金正雲(キム・ジョンウン)と続く3代権力世襲が企図されている。北朝鮮当局は5月28日、海外の公館長に、「金正雲後継者内定」の事実を伝えた。住民には金正雲を「金大将」と呼ばせ、称賛する歌を教えているという。

これまでも、金一家の誕生日の語呂合わせを指摘したが、またもや語呂合わせだ。ここまでくると本当に滑稽だ。

もう大したニュースではないが、一応取り上げる。金正雲の誕生日は、1984年1月8日だ。驚いた。小泉純一郎と同じ、大詔奉戴日だ。これは、大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動だった。

ここまで徹底しているとは恐れ入った。

(参考)
小泉純一郎の父小泉純也は朝鮮人という説がある。小泉純一郎の家族と金正日一家の特殊な関係はここにその発端を見出すことが出来る。

小泉進次郎と金日成の誕生日

金正雲(似顔絵)
金正雲(子供の時の写真)
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2008/2/1   ##
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