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北朝鮮金総書記「南北関係改善したい」 弔問団、韓国大統領に伝達
NIKKEI NET 2009年8月23日


韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領は23日午前、北朝鮮が金大中元大統領の死去を受けて派遣した弔問団の金己男(キム・ギナム)労働党書記らと青瓦台(大統領府)で約30分間会談した。青瓦台報道官によると北朝鮮側は南北関係の改善に関する金正日総書記のメッセージを李大統領に口頭で伝達。政府関係者によると「南北関係を改善したい」という趣旨だったという。

 李大統領が昨年2月の就任後に北朝鮮高官と会談したのは初めて。報道官は金総書記のメッセージの具体的な内容は明かさなかった。

 会談では大統領は北朝鮮の弔問団派遣に謝意を表明。韓国政府の北朝鮮政策の原則を説明し、金総書記に伝えるよう要請した。同時に「南北が誠意を持って対話すれば解決できない問題はない」と南北対話を早期に再開するよう求めた。金己男書記は「大統領との会談実現に感謝する」としたうえで「南北が協力し、あらゆる問題を解決するよう期待する」と応えたという。


アテネ近郊で山火事 ギリシャ政府が非常事態宣言
朝日新聞 2009年8月23日


ギリシャの首都アテネ近郊で大規模な山火事が発生し、政府は22日、非常事態を宣言した。火は強風にあおられて燃え広がり、森林やオリーブ畑などが広範囲にわたって焼失した。また、陸上競技マラソンの発祥地マラトン村の家屋も一部焼けた。

 山火事は21日夜にアテネの北東約40キロ付近で発生。23日になっても火の勢いは衰えず、政府はアテネ近郊の住民1万人に避難命令を出した。伊仏など周辺国も消火の応援に乗り出した。

 今夏、ギリシャでは全土で100件以上の山火事が報告されている。大半は猛暑による自然発火とみられるが、一部は放火の可能性が指摘されている。


ギリシャ、テロ脅威でロンドン警視庁に協力依頼
産経ニュース 2009.3.16


ギリシャ政府は、経済危機の影響で同国内でテロ発生の恐れが強まったとして、テロ対策や捜査で実績のある英国のロンドン警視庁に対策立案などでの協力を依頼した。

 同警視庁の捜査官らが近く、アテネを訪問する予定。ギリシャ紙カティメリニが16日、伝えた。

 ギリシャでは昨年12月、警官の発砲による少年死亡をきっかけに全土で大規模な暴動が発生。今年に入っても2、3月に相次いで米シティバンクの支店で爆弾テロがあったほか、13日には若者ら約150人がアテネで暴動を起こすなど社会的な不安が強まっている。

 テロや暴動発生の背景には20%以上にも上る若年層の失業があるとされる。ロンドン警視庁はテロ対策立案のほか、ギリシャの対テロ部隊の訓練・再編でも協力する予定。


ミンク1万匹、ギリシャの町を襲撃
AFP BBNEWS 2009年08月15日


ギリシャ北部のある町が、ミンク数千匹の襲撃と闘っている。活動家とみられる人物によって、付近の毛皮業者からミンクが放たれたためだ。地元町長が13日語った。

 ギリシャ北部のアスキオ(Askio)では9日、ミンク約1万匹が町を襲撃、ニワトリや家畜のウサギに襲いかかった。

 ミンクを一網打尽に捕獲するため、町は地元の毛皮業者らを動員。しかし、まだ3000匹あまりのミンクが捕獲できずにいるという。

 同町のVassilis Patras町長は、AFPに対し「やつらは危険な肉食動物だ。小さい羊なら殺してしまうこともできる。捕獲しなければ、この地域には小動物の一匹たりとも残らないだろう」と語った。

 ギリシャのメディアは、4歳の少女がミンクに足をかまれたと伝えた。また町長によると、ミンクは付近の高速道路で大量に死んでいるという。

 ミンクを飼育場から放した人物については、「Corvus Revengis(復讐のカラス)」と自称する活動家グループが関与しているとの見方が出ている。

「復讐のカラス」は前年12月に、付近のSiatistaで同様の騒動を起こしていた。当時、「復讐のカラス」はインターネットを通じて声明を発表し、ミンクが悲惨な環境で「地獄」に拘束され、生きたまま皮をはがれていると主張していた。


台風11号:5人けが 空の便、一部欠航
毎日新聞 2009年9月1日


台風11号は1日午前0時現在、仙台市の南東約140キロの太平洋上を時速約35キロで北北東へ進んでいる。千葉、茨城両県の一部は一時、風速25メートル以上の暴風域に入り、千葉県などで5人がけがをした。台風は勢力を弱めながら東北の太平洋側を北上、1日夜には北海道の南東海上に達する見通し。上陸の可能性は低くなったが、東北の一部では1日朝にかけ、1時間に30~40ミリの激しい雨が降る恐れがあり、気象庁は注意を呼び掛けている。

 気象庁によると、中心の気圧は985ヘクトパスカルで、最大瞬間風速は35メートル。千葉県銚子市では31日午後6時53分ごろに最大瞬間風速36・4メートルを記録した。

 千葉市消防局によると、31日午前8時半ごろ、市内の歩道で男性(52)が強風にあおられて転倒、左足を骨折した。また千葉県市原市で女性(63)、銚子市で男性(77)が転倒して軽傷を負った。

 神奈川県茅ケ崎市の老人福祉施設では、倒れてきた木が当たった女性職員(35)が背中などに軽傷。茨城県鉾田市では午前8時20分ごろ、自宅雨どいを清掃していた男性(52)が屋根から落ち、胸部打撲などの軽傷を負った。

 交通機関にも乱れが出た。成田、羽田などを発着する国内・国際線のうち▽日本航空グループ14便▽全日空24便▽スカイマークエアラインズ6便の計44便が欠航し、計約5500人に影響した。日本航空は1日午前も、成田発の中国便3便と、青森-羽田、仙台-伊丹の計5便が欠航する。


民主公約「子ども手当・控除廃止」恩恵は?負担は?
朝日新聞 2009年8月24日


民主党は今回の衆院選の政権公約(マニフェスト)で、「子ども手当」の創設と「配偶者控除」などの廃止を掲げる。新たな給付と負担増が並び、結局、世帯ごとの損得はどうなるのか、わかりにくい。大和総研の試算によると、全体的には収入増となるものの、23歳以上の子どもを扶養している場合など負担増の世帯も出る。

 恩恵が大きいのは、低所得層と中学生がいる世帯。手当の額は一律だが、控除の廃止による負担増の影響が小さく、給付の面からも、児童手当は小学生以下が対象だったためだ。年収300万円程度で中学生が1人いる世帯は、30万円近くの所得増になる。

 ただし、高所得層が低所得層より得をするケースもある。小学生の子どもがいても、所得制限に引っかかって児童手当が給付されていなかった年収800万~1千万円程度の世帯だ。

 就労の仕方で見ると、夫婦いずれもが一定額以上の収入がある共働き世帯は、配偶者控除が廃止される影響がない。このため、中学生以下の子どもがいれば「片働き」世帯よりもメリットが大きくなる。

 逆に、片働きで子どもがいなかったり、高校生以上だったりした場合は、控除廃止の負担増だけがのしかかる。共働きでも、23歳以上の子どもを扶養している世帯は負担増になる。

 民主党は全体の4%、200万世帯ほどが負担増になると認めたうえで、鳩山代表は「社会で子どもを育むという発想から、理解を求めていきたい」と訴える。また、高齢者夫婦には負担が増えないよう配慮し、公立高校の授業料(年12万円程度)の無償化も打ち出している。「家計の可処分所得を増やして消費を拡大する」と、成長戦略でもあるとの位置づけだ。

 問題は、子ども手当だけで民主党によると年約5兆6千億円かかる財源の確保。児童手当や税控除の廃止で約1兆7千億円ひねり出しても約3兆9千億円足りない。これ以外にも、高速道路の無料化(1.3兆円)など、目玉政策の実現には軒並み巨額の資金が必要だ。

 試算した大和総研の是枝俊悟研究員は「財源が確保できなければ、結局は国債の増発に頼る懸念がある」と指摘する。(生田大介)

     ◇

 〈子ども手当と配偶者控除〉 民主党案によると、中学生以下の子どもがいる世帯すべてに1人あたり月2万6千円(10年度は半額)の子ども手当を支給する。所得制限は設けない。現行の児童手当(5千~1万円)は廃止する。一方で、妻(夫)や子どもらを減税対象とした所得税の「配偶者控除」と「一般の扶養控除」(0~15歳と23~69歳の扶養家族が対象)を廃止する。


「子ども手当」高所得層、恩恵 大和総研試算 民主、思惑とズレ
産経新聞 2009年8月11日


民主党のマニフェスト(政権公約)に盛り込まれた月額2万6千円の子ども手当について、「800万~1千万円」の比較的高い所得層の手取り収入が大きく増えることが、大和総研の試算で10日わかった。所得制限のある現行の児童手当が廃止される一方、所得制限がなく一律支給される子ども手当が創設されることで、高所得者の手取り額を押し上げることになるからだ。

  [エコノミスト緊急アンケート] 政権交代で「景気浮揚」vs「財政悪化」

 試算では、税込み年収が300万~1千万円などのケースについて、子供の年齢や人数、片働きか共働きかという条件ごとに実施した。

 基本的に子ども手当は、所得税を納めている層の税額を抑えている扶養控除などの廃止とセットで導入されるため、低所得者への恩恵が大きい。年間の手取り増加額で最も多いケースは57万円で、中学生の子どもが2人いる年収300万円の片働き世帯だった。

 しかし、「所得が低いほど手取りが増える」とならないのは、月額5千~1万円が国から支給されている現行の児童手当が廃止されて子ども手当に置き換わるため、現在は児童手当の支給対象になっていない高所得者の手取り額も押し上げることになるからだ。

 2人の子供がともに3歳未満の共働き世帯の中で、手取り増加額が最大の47万円となる層は、試算によると夫婦で多い方の年収が800~1千万円となった。試算をまとめた大和総研の是枝俊悟研究員は「子育て世代に多い600~700万円の層への恩恵が比較的小さい」とも指摘している。低所得者向け支援を重視する民主党だが、「所得が低いほど恩恵が大きい」仕組みにはならず、不公平感を訴える声が出る可能性もありそうだ。


税制の日米比較
「ペットより障害者やお年寄りに愛を、人間に必要なのは競争でなく助け合いだ」


●資産性所得課税、日本は分離課税、アメリカは総合課税、したがって日本の高額所得者には極めて有利で税額が4~5分の1なのです。

累進性を強化しても、資産性所得が総合課税でなければ大金持ちにはそれほど影響はないのです。大金持の所得は、給与などの所得ではなく、株の譲渡益や配当金が多くを占めるのです。ビルゲイツが日本の税制なら数分の一の納税額で良いのです。ライブドア、楽天の社長さんも同じですね。日本だから税が少ないのです。日本の財政赤字はこの資産性所得の分離課税が大きく影響いしているのです。

土地や株の売却益、利子や配当課税は日本は低率の分離課税(20%や10%と極めて低い)アメリカは総合課税で最高税率は49.1%です。 日本は税に占める個人所得税の割り合いが極めて少ないと言われています。所得には資産性所得も含むので、この税率が極めて低いことが大きな原因なのです。もちろん3000万以下の税率が低いことも原因です。


私は長期間盗聴を受けている

事情をよく理解できない方は、こちらを参照ください。

■電話やネットの盗聴は、どの国でも幅広く認められ、また行われています。

日本では、公安警察が法律に基づいて盗聴を行います。反体制勢力と見なせば盗聴ができます。私などは、「日本政府を陰謀組織」と非難していますので、当然に「要盗聴団体」でしょう。

しかし、私の場合は、「日本の陰謀」を主張したから盗聴をされているのではありません。私の場合、生まれる前、親の代から国の監視下にありました。私の両親は、いろいろな事例に苦しみながら、ついに最後まで、その原因が日本政府と警察にあることを全く気付かず死んでゆきました。もちろん病気になった理由の一つは嫌がらせであり、死んだ時も、嫌がらせは続いていました。

幸か不幸か、私は嫌がらせの主体が政府・警察であることに気付いたのです。生まれて40年以上気づかなかったことが、全て明らかになったのです。不可解な事例が全て説明できました。

これは、インターネットによる情報収集のおかげでした。ネットなくしては、私のサイトはあり得ませんでした。

多くの人が、政府・警察に苦しめられ、しかもその実態も犯罪の主体にも気付かず人生を終わっています。これでは、あまりにひどすぎます。それで、困難を承知の上で、「日本の陰謀」を立ち上げました。この時は、直観のみで、具体的な材料は全くありませんでした。しかし、材料は、ニュースとして次々に飛び込んできました。

■世界的規模の盗聴としては、エシュロンが有名です。そのほかにも、公式、非公式の情報盗聴組織はあります。

■盗聴が悪いのではありません。盗聴を悪用して犯罪(嫌がらせ)を行うことに問題があるのです。

私たちの個人情報は人間社会である限り、どこまでも筒抜けです。銀行員は預金残高を知っています。警察官は、犯罪情報を知っています。役場の職員は家族情報を知っています。しかし、誰も第三者に話すことも、それをもとに行動を起こすこともありません。それは、法律があるからではありません。人間の常識・本能です。だから、私たちは安心して個人情報を提供するのです。

しかし、いったんこれらが悪用されるとなると話は異なります。東ドイツのシュタージなどはその典型的な事例です。残念ながら、こういった恐るべき犯罪も未だに完全に解明されていません。

■盗聴やストーカー行為については、すでにいくつかの項目で触れています。参照ください。

86水害での個人的体験
集団ストーカー
犯罪被害者の会は、警察応援団
ヤクザの本性を現す警察
秋葉原通り魔事件
政府管理下の日本企業



「お騒がせした」谷氏辞任へ 民主公務員改革へ後任焦点
朝日新聞 2009年9月11日


人事院の谷公士(まさひと)総裁が10日記者会見し、辞任する意向を正式表明した。麻生政権が進めた公務員制度改革で、国家公務員の幹部人事を担う「内閣人事局」の新設をめぐり甘利行政改革担当相と対立したことを理由に挙げた。一方、新政権の中心となる民主党も「公務員制度の抜本改革」をマニフェスト(政権公約)に掲げており、後任選びが改革に向けた最初の焦点となる。

 任期を約2年半残しての辞任で、11日の閣議で承認される。人事院総裁は国会の同意を受けた人事官3人の中から選ばれるもので、当面は人事官の原恒雄・元JR東海副社長が総裁代行を務める。

 谷氏は旧郵政事務次官などを経て06年4月に人事院総裁に就任。国家公務員の給与引き下げを求めた8月11日の人事院勧告直後、河村官房長官に辞表を提出していた。

 谷氏は記者会見で「今年の春、国家公務員法の改正問題に関する対応を巡り、皆さまをお騒がせする事態になった。私の主義にも趣味にも合わず、職を辞すべきだと考えた」と説明。一方、「政権交代が要素となったか」との質問には「そう受け止められると困る。1月から『いずれ折を見て』と決めていた」と否定した。

 谷氏と甘利氏は、各省庁の給与に連動するポストの定数(級別定数)をめぐって鋭く対立。甘利氏が柔軟な人事配置をするため、人事院が握る級別定数の権限を内閣人事局に移すよう求めたのに対し、谷氏は人事の中立・公正性の確保などを理由に反発。首相主催の会議を欠席したり、異例のテレビ出演で政府批判を展開したりした。

 政府は3月、人事院の反対を押し切って級別定数の権限を移管する関連法案を国会に提出。だが、法案は7月21日の衆院解散で廃案になった。

一方、民主党はマニフェストで「内閣の一元管理による新たな幹部職制度の実施」「公務員の労働基本権を回復し、民間と同様、労使交渉によって給与を決定する」としている。谷氏は民主案にも慎重な立場だったうえ、後任については、鳩山内閣で人事案を出すことになる見通し。それだけに、今回の谷氏の辞任は民主党の改革に「追い風」になる可能性もある。

 退官後、公益法人に天下りし、所管業界に「わたり」をした谷氏をはじめ、人事院総裁は官僚OBの指定席だった。ただ、人事官のうち長年マスコミ関係者が占めていた1人について、今年は千野境子・産経新聞元論説委員長を充てる政府案に民主党が同意せず、慣例が崩れた経緯がある。

 人事院幹部は「民主党は天下りやわたりの禁止を掲げているが、民間の人が総裁になって省庁を説き伏せられるのか。民主党にとっては難しい判断になる」とみている。


■「パチンコを許可する」と法律には書いてない。

「公安委員会の許可を受けなければならない。」となっているが、公安委員は県知事が任命しており、事実上、県知事が許可する。公安委員を隠れ蓑にして、県・警察・県知事は責任を免れる。

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風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律
第二章 風俗営業の許可等>


(用語の意義) 第二条  この法律において「風俗営業」とは、次の各号のいずれかに該当する営業をいう。

七  まあじやん屋、ぱちんこ屋その他設備を設けて客に射幸心をそそるおそれのある遊技をさせる営業

(営業の許可)

第三条  風俗営業を営もうとする者は、風俗営業の種別(前条第一項各号に規定する風俗営業の種別をいう。以下同じ。)に応じて、営業所ごとに、当該営業所の所在地を管轄する都道府県公安委員会(以下「公安委員会」という。)の許可を受けなければならない。

2  公安委員会は、善良の風俗若しくは清浄な風俗環境を害する行為又は少年の健全な育成に障害を及ぼす行為を防止するため必要があると認めるときは、その必要の限度において、前項の許可に条件を付し、及びこれを変更することができる。


鳩山新政権のキーパーソンは財務省の勝主計局長
民主党と財務省はすでに協調関係?
【森岡英樹の金融スクープ】産経新聞 2009.09.15


衆議院選挙の歴史的な大勝を経て、鳩山民主党政権が16日に発足する。社民・国民新党との連立も決まり、新政権にとって当面、最大のハードルとなるのは2010年度予算編成だろう。その鍵を握るのは、言うまでもなく予算編成を担う財務省との関係になる。

 「官僚主導からの脱却」を掲げ、予算についても政府主導をうたう鳩山政権は、首相直属の「国家戦略局」を設置し、予算案の大枠を決めることにしているが、過去の経緯も含め財務省の協力は不可欠 特に最優先課題は、(1)子ども手当の創設(2)ガソリンなどにかかる暫定税率の廃止(3)高校教育の実質無料化-の3政策で、民主党は衆院選のマニフェスト(政権公約)で、いずれも10年度からの実行を明記している。

 このため財源問題は避けて通れないが、足もとの09年度補正予算の執行状況によると、国庫からの交付が決まっていない「未執行」の予算は半分に満たない。

民主党は都道府県や公益法人などにいったん交付した予算の返還を求めることも検討するが、交渉が難航するのは必至。決着が長引けば、来年度予算案の年内編成に黄色信号がともりかねない。さらに、企業収益の低迷から税収減が避けられず、財源確保は喫緊の課題になっている。

 「財務省とのアコード(協調)の確立が課題」(民主党有力議員)といえるが、この点、民主党と財務省にはこんな“材料”がある。鍵を握るのは、予算編成の本丸の主である勝栄二郎・財務省主計局長である。

 民主党関係者によると、「鳩山代表と勝主計局長は若いころから接点があり、信頼関係が築かれている」という

 勝主計局長は、幕末に活躍し、官軍の「江戸城無血開城」を導いた
勝海舟の曾孫にあたり、旧大蔵省入省当時から、将来の次官最有力候補といわれてきた。

 その勝氏がまだ若手官僚だったころ、同じように保守合同を実現し、自民党の初代総裁に就いた鳩山一郎氏の孫で、将来の首相候補と目された由紀夫氏と、ある勉強会を通じて顔を合わせている。

 この勉強会を主催したのは、鳩山由紀夫氏と学習院初等科時代の同級生だった大武健一郎元国税庁長官にほかならない。

 大武氏は、由紀夫氏の将来を見越して、若手で優秀な官僚を勉強会に参加させたが、その中に勝氏もいた。この時から鳩山、勝の両氏は気脈を通じる関係が築かれているという。その接点が今、まさに鳩山政権発足とともに生かされるときを迎えている。大武氏の慧眼には驚かされる。

 民主党と財務省の関係は、小沢一郎氏が1987年に竹下内閣で官房副長官になった際に、秘書官を務めた香川俊介総括審議官が有名で、小沢氏が「大蔵省(現財務省)にはこんな優秀な人材がいたのか」と驚いたとの逸話が残っている。

 こうした経緯もあり、早くも、民主党政権の中核となる「国家戦略局」に香川氏が入るのではないかと取りざたされている。

 勝主計局長や香川総括審議官をはじめ、民主党政権発足を見据えて最も早く行動を起こしたのは財務省だった。

 衆議院選挙直後の1日、真砂靖官房長と星野次彦文書課長が連れだって国会内の民主党の各部署にあいさつ回りをする姿が見られた。他の省庁からの訪問はその後のことである。民主党と財務省は、すでに人的アコードを結んでいる。


勝茂夫 欧州・中央アジア担当副総裁
世界銀行東京事務所


東京大学大学院卒業後、グレナダ計画省開発アドバイザーとしてUNIDO(国連工業開発機関)に勤務。1979年世界銀行入行(ヤング・プロフェショナル・プログラム)。西アフリカプロジェクト局においてエコノミストとして勤務。ベナン、コートジボワール勤務などを経て2003年8月より現職。

Q1. 世界銀行に入ったきっかけは?

ウィーンで大学院時代を過ごしていた頃から開発には関心を持っていた。その後UNIDOのプログラムでグレナダに勤務した。小さな島で開発庁に勤務したため、若かったにもかかわらず何でも任された。その2年間で開発とはどんなものかを学んだ。その後、途上国の開発により貢献したくて、開発援助の主要機関である世銀のYPを受けた。

Q2. やりがいを感じることは?

世銀入行後もアフリカなどフィールドでの経験を多くつむことができた。若かった頃は今思えば多少向こう見ずなこともやったが、その時の経験が大きく役立っていると思う。若い時の途上国での経験はとても大切だと思う。自分は人にもとても恵まれ、多くの経験を積むことができ幸運だったと思う。ただ、チャンスを最大限に活かす努力も必要だ。

Q3. 国際協力を目指す日本人へのメッセージは?

日本はとても恵まれているのだから、若い人たちは、もっと外に目を向けて世界に貢献して欲しい。ただそのためにはしっかりした専門知識が必要。日本の若い人は、自分もそうだったが、「何となく」過ごしてしまうことが多いと思う。世界には多くの国、様々な人がいて、地球は飽きない。情熱とエネルギーをもって世界に羽ばたいて欲しい。


官邸模様替え迷走 大臣大部屋構想も
産経ニュース 2009.9.13


16日の鳩山政権発足を前に、民主党は首相官邸の部屋割りの検討を始め、政権交代に向けた準備を水面下で活発化させている。官邸サイドによると、副総理兼国家戦略局担当相に就任予定の菅直人代表代行が陣取るスペースをすでに確保している、という。だが、新政権が官邸内をどう使おうと考えているのか情報が乏しく模様替えの準備に取りかかれないとして、官邸サイドは困惑している。

■手探りの官邸側

民主党の岡田克也幹事長と直嶋正行政調会長は今月2日、首相官邸に河村建夫官房長官を訪ね、政権移行への協力を依頼。河村氏も引き継ぎに応じ、「幕末の勝海舟による江戸城無血開城の心境で臨みたい」(政府高官)としていた。

 ただ、民主党と、官邸の事務方との間の意思疎通は必ずしもうまくいっていないようだ。

 政権交代の日が刻一刻と迫る中、官邸サイドには民主党から十分な情報が得られず、「突然討ち入りされるみたいなものだ」(政府筋)と嘆きの声が漏れている。官邸側はひとまず、国家戦略局の拠点が官邸内に置かれるとの前提で「スタッフ30人程度」とマスコミで報じられた情報をもとに準備を進めている。

 情報収集中の政府高官は、「菅氏には使いたい場所があるようだ」と明かす。菅氏は1日、「民主党新型インフルエンザ対策本部長」として官邸内で河村氏と協議を行っている。

 菅氏周辺からは「官邸内を模様替えして新たな部屋を作るべきだ」との意見も出ており、菅氏は国家戦略局の入る部屋をどうするのか思案しているようだ。

 一方、現官邸には完成時から「副総理が使用することを想定した部屋」(政府関係者)があり、初めて主を迎える可能性が高い。直近の副総理は、平成8年に橋本内閣で蔵相と兼任した社会党の久保亘書記長(当時)。副総理の誕生は13年ぶりで、14年4月から運用が始まった現官邸で副総理が執務したことはない。


西郷寅太郎披露宴
系図でみる近現代


明治29年、西郷従道の目黒の別荘にて、 当時、歩兵中尉であった西郷寅太郎と、 園田実徳長女・ノブの披露宴が催された。

勝海舟が、往年の西郷隆盛との関係や、 今日に至る寅太郎へのひとかたならぬ世話等から、主賓の座に座った

出席者には、当日の主人たる西郷従道を始め、 時の総理松方正義や、川村純義、樺山資紀、高島鞆之助等、 薩摩の錚々たるメンバーの他、 寅太郎友人の薩摩の青年も数多く参加していた。

酒が入るにしたがい、勝海舟の話は、佳境に入り 西郷隆盛の思い出話から、維新当時の談に及んだ。

その機微をとらえた巧みな話術もあって、 一同話に聞き入り、披露宴ではあるが、思いがけない 勝海舟の追憶談に皆、酔いしれたという。

西郷隆盛を慕い、行動をともにし、 命がけで維新を導いた薩摩のお歴々にとっては、 はからずも、西南戦争で敵対し、追いやってしまったという自責の念を含め、 さまざまな想いが去来したことでしょうか。

また、薩摩の青年たちにとっては、 今や伝説となった維新の立役者・郷土の英雄である自分の友人の父、 しかし政府からは賊徒のレッテルをはられた大西郷の話を 維新の一方の雄・当事者である勝海舟その人から聞けて、 感激、まさに夢・感動の境地だったのではないでしょうか。

当然のことながら、この場には、花嫁の父である園田実徳はいた事でしょう。

花嫁の叔父である武彦七はどうだったのでしょうか。


「事務次官会議」123年の歴史に幕
読売新聞 2009年9月14日


中央省庁の官僚トップで構成する「事務次官会議」が14日を最後に廃止される。

 民主党が「官僚主導政治の象徴」として廃止する方針を決めているためだ。内閣制度が発足した翌年の1886年から開かれてきたとされ、123年の歴史に幕を閉じる。

 漆間巌官房副長官は同日の会議で「最後の事務次官会議になるだろう」とあいさつした。

 同会議は法令に設置の根拠はないが、毎週月、木曜の2回、首相官邸で開かれ、翌日の閣議にかかる案件を事前に調整してきた。事務の官房副長官が進行役を務め、閣議に上げる案件について、原則として全会一致で決定してきた。


北方領土は「日本の領土」明記 改正北方領土特措法が成立
産経ニュース 2009.7.4

「わが国固有の領土である北方領土の早期返還を実現するため、最大限の努力をする」と明記した改正北方領土問題解決促進特別措置法が3日、参院本会議で全会一致で可決、成立した。北方領土が日本領土である法的な位置付けを明確にさせ、返還運動への国民の関心を高める狙いがある。

 改正特措法は、日本国民と四島のロシア人住民が旅券や査証(ビザ)なしで相互訪問する交流事業の促進や、元住民の高齢化に伴う返還運動の後継者育成支援も盛り込まれた。平成22年4月に施行する。 

 これに対しロシア上院のミロノフ議長は3日、「日本の議会の決定に無関心ではいられない」と反発、7日にも上院で「極めて激しい内容」の特別声明を採択するとの見通しを示した。

 また、8日からイタリアで開かれる主要国首脳会議(ラクイラ・サミット)の際に予定されていた、麻生太郎首相とメドベージェフ大統領の会談が9日午前(日本時間同日午後)に行われることが固まった。改正特措法の成立が今度の首脳会談に影響を与える可能性もある。

 首相は6日夜、特別機で羽田空港をたち、11日夕に帰国する予定。


薩摩藩・装束屋敷跡
“蔡温時代”の探訪ノート


江戸時代、ここには薩摩藩の中屋敷がありました。 中屋敷とは、藩主の跡継ぎが住んでいたところ。薩摩のような大大名は江戸に上屋敷・中屋敷・下屋敷の所有を許されていました。藩主が住んだのは上屋敷です。

この中屋敷が装束屋敷と呼ばれるようになったのは、江戸上りの琉使一行が江戸城に登城する際、ここで装束を着替えたからと言われています。 ここから江戸城の正門である大手門まで、1.5キロメートルほどでしょうか。 琉使の登城時は沿道が見物人で埋め尽くされ、幕府は交通整理に苦心したそうです。 ちょっと笑ってしまったのは、「交通が妨げられるので見物人を立ち止まらせないように」という幕府のお触れが町奉行に出されていたこと。現在でも、人出でにぎわう場所では「立ち止まらないでくださーい」という係員の声をよく聞きますね。 こういうことは昔も今も変わらないものです。


前原誠司 生い立ち 脚注
ウィキペディア


2005年9月の代表選の立会演説会において、前原は「父親を早く亡くし、母子家庭で苦労した」という体験談を披露し、その父親について新聞のインタビュー記事などでは「立命館で法律の勉強をして、京都家庭裁判所に就職、最後は簡易裁判所の裁判官」と明言している(記事論文)。だが、実は裁判官ではなく、父親は「京都家裁の庶務係長で、飛び込み自殺していた」とされる。その根拠として「マイホームの借金苦に 特急に飛び込み即死 島根で京都家裁係長」という新聞記事(昭和51年6月1日付)がある。そのとき、前原は中学2年だった(週刊新潮2005年10月13日号)



記事・論文 政治家の本棚――71 運命の高坂正堯『国際政治』との出会い
衆議院議員前原誠司


―――お生まれは。

前原:京都生まれの京都育ちです。

―――やはり何か雰囲気をお持ちというべきかな。

前原:根っからの京都の人というのは三代百年住んでいないとなかなか認めてくれないんです。私のおやじもおふくろも島根県の境港という漁村なんですよ。昔の人から言うと,まだ「入り人(いりびと)」という範疇に入ります。

―――へえー,面白いなあ。

前原:五月の地元の神社のお祭りで神輿を担いだんです。その神輿に関わった年次で徹底的な上下関係ができている。年下の人でも先に入っていれば「おい前原くん,これやってくれ」「はい,わかりました」と。地元の料理屋さんでも「安土桃山から代々」などという話です。

―――ご両親はどんなお仕事を。

前原:おやじが立命館で法律の勉強して,京都家庭裁判所に就職して最後は簡易裁判所の裁判官に。おふくろとは見合いで地元から連れてきたと。

―――小学校は?

前原:京都一のマンモス校,校庭は芋洗うみたい。私が四年ぐらいのとき,その修学院小学校の分校ができました。


中川氏、循環器に異常・血液中にアルコール
読売新聞 2009年10月5日


東京都世田谷区内の自宅で4日朝、遺体で発見された自民党の中川昭一元財務・金融相(56)について、行政解剖の結果、循環器系に異常が発見されていたことがわかった。

 一方、警視庁による検視の結果、中川氏の死亡推定時刻は3日午後11時頃と判明した。

 同庁幹部などによると、4日午後に行われた行政解剖では、血管などの循環器系に数か所異常が発見されたほか、血液からは微量のアルコール成分が検出された。

 中川氏は、発見前日の3日も午前中からベッドに横になっており、妻が午後9時頃に帰宅した際は、ベッドの上で眠っていたという。

 死亡していたベッドには嘔吐(おうと)した痕跡があったほか、自宅からは医師から処方された睡眠薬など数種類の薬が発見されている。

 中川氏は少なくとも今月に入ってから、体調を崩していたといい、同庁は病理検査を行い、死亡との因果関係について調べている。


中川昭一元財務相が死亡
iZaイザ ニュース 2009/10/04


今朝、10時少し前にNHKで 自民党の中川昭一元財務・金融相が東京都世田谷区下馬の自宅で死亡していたとの第一報が流れた。その後テレ朝の田原のサンプロの冒頭でメモが渡されて番組で伝えられている。

中川氏の地元である北海道の事務所の方が番組の中で、連絡は入ってはいるが詳細は不明とのこと。

報道によると中川氏はベッドにうつぶせになって死亡していたといい、外傷はなく事件の可能性はないというが、発見をされた時には冷たかったという。昨夜のうちに亡くなったのだろ。

中川氏の妻が4日朝8時ころに、中川氏が起きてこないため様子を見に行ったところ、ベッドでぐったりしていて冷たくなっていたということである。遺書のようなものは見つかっていないのと薬も見つかってはいないという。

8月の衆院選では落選していて、復活当選もできなかった。 ただ、「次の選挙に出馬をする気があるのか?」というくらい、不安定な状況だったと伝えたコメンテータもいた。

詳しい結果は、伝えられるだろうが、本当のことが伝えられるのかは不明としか言いようがない。

中川一郎は、「池の外に飛び出したらそれきり日干しだぞ」で自殺であったが、中川昭一は落選で「池の外に飛び出したらそれきり」となってしまったのか。

サンプロに、91歳になる中曽根が出演をしていた。悪党はなかなか死なないものだ。

中川昭一氏のご冥福を祈ります。 合掌


五輪招致失敗の石原都知事が帰国
日刊スポーツ 2009年10月5日


東京の16年五輪招致に失敗した石原慎太郎都知事が4日朝、帰国し、都庁で会見に臨んだ。「満足とはいえないが、十分戦い尽くした充足感はある」としながらも「私なりの情報では、五輪選考では目に見えない非常に政治的な動きがある。昔の自民党総裁選みたいなもの」と指摘し、候補地選考の激しい戦いの現実を、あらためて振り返った。一方で「帰りの飛行機で泣いたよ」と、告白。1泊3日の弾丸ツアーで応援に来た都民らに機内で激励され、「同じ日本人の熱い心のきずなを感じた。不覚ではなく気持ちのいい涙だった」と述べた。

 20年五輪の招致については「経験の内容やデータを詳細に発表し、ことの認識を持ってもらった上で民意を斟酌(しんしゃく)する。私たちが一方的に決めるものではない」と指摘。公表した150億円を超えるとされる招致活動費について「都民の前に(内訳を)明らかにすることが最低限の責任」と述べた。


月光仮面戦術

日本には「やらせ」という独特の文化がある。これは私には受け入れがたい。理屈はわかるが体が受け付けない。しかし、日本の社会で出世するためには必ず必要な技術のようだ。

私は鹿児島出身だが、「やらせ」を正当化する話は公の場で聞いたことがない。私が初めて認識したのは、長野県の会社員と同席する機会があり、その席でその会社員が堂々と、「私は、『やらせの○○』と呼ばれるほどやらせのうまい男です。」と言った時だった。その時は、変った人もいるものだと思ったが、今日、いろいろと日本社会を検証すると、これこそが日本の核心であることに気がついた。

そして、昨年たまたまCS放送で安っぽい映画を見た時、日本のやらせの本質を確信した。そのストーリーには日本のやらせの全ての要素が凝縮されていた。要約してみる。

少年Aには片思いをしている金持ちの可愛い少女Xが同じ町にいた。この少年Aには子分の少年B(パシリ)がいた。この少年Aは、少年Bに少女Xを襲わせ、そこに少年Aが現れ、少年Bを殴って撃退し、少女Xに感謝させ、付き合いのきっかけを作ることを考えた。

殴った時の鼻血としてトマトケチャップを用意した。

少女Xが浜辺を歩いている時、計画どおり少年Bは少女Xに襲いかかる。泣き叫ぶ少女Xの声を聞いた少年Aは現場に駆けつけ、少年Bと喧嘩になる。少年Aは近くの小屋に少年Bを引きずり込み、少女Xの見えない物陰で二人の少年は大声を出す。

「あ痛た。」・・パチン・・「あ痛た。」・・パチン・・「ごめん。ごめん。」

ここで、少年Bは用意したトマトケチャップを鼻のまわりに着け、小屋を飛び出し、少女Xの前を走って逃げる。

驚いた少女Xに少年Aは,優しく声をかける。

少年A:「お嬢さん、怪我はなかったですか。」

少女X:「ありがとうございます。私、○○と言います。あなたのお名前を教えていただけませんか。あとで母とお礼に参ります。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あまりにばかばかしいので、このあとのストーリーは覚えていない。ただこのシナリオは、私の脳裏に焼きついた。私にもこの手の「やらせ」に引っかかった思い出があったからだ。

こういった「やらせ」は、ここでは、「月光仮面戦術」と呼ぶことにする。マスコミがよく使う「マッチポンプ」という言葉も同義語と解していい。

関連事件
岩倉使節団とシカゴ大火
大塩平八郎の乱
由井正雪の乱
地下鉄サリン事件



天保の改革 新暦旧暦対照表

1841年7月3日 天保12年5月15日 江戸幕府が老中・水野忠邦の主導で天保の改革に着手
1845年3月29日 弘化2年2月22日 水野忠邦老中辞職




賢王カメハメハ3世
ハワイの神話と伝説


摂政カアフマヌの没後、カメハメハの娘キナウを新クヒナヌイ(摂政)として、カメハメハ3世の時代がはじまります。ハワイ王国は、この時点ではまだ古典的な絶対君主制であり、西欧諸国からは「野蛮な王国」という目で見られていたようです。カメハメハ3世は大変な苦労の末にハワイを立憲君主国にし、さまざまな法制度も導入してハワイを近代国家の1つとして立ち上げ直したのです。ここでは、カメハメハ3世の残した功績を分野別に解説していきます。

【政治改革】

1839年、イギリスのマグナカルタを手本にした「権利宣言」を行い、翌1840年には憲法を公布、ハワイで立憲君主制度が成立したのです。1845年には第1回議会も開かれます。しかし、近代化のための西欧制度導入を急いだために、ハワイ国内での人材育成が間に合わず、たまたまハワイにやってきた白人の知識人階級を、無謀とも言える抜擢でハワイ王国の要職に採用していきました。例えば、アメリカからはじめてハワイにやってきた弁護士はいきなり法務大臣に。2人目の弁護士は最高裁判事に。医師は内務大臣に、など、枚挙にいとまがありません。

1852年には合衆国憲法をモデルとして憲法改正されました。奴隷制の禁止なども盛り込まれています。(ちなみに合衆国で奴隷制が禁止されたのは1863年です)

【土地制度】

ハワイにはもともと土地の個人所有という概念は無く、敢えて言うならば土地はすべて王または酋長のものであって、人々はアフプアアでの自給自足経済で暮らしていました。1848年に制定されたマヘレ法(分配という意味)では、土地を所有物・財産として見る西欧型の考えが導入され、まずハワイの全ての土地はカメハメハ王と245人の族長の間に分配されました。また、王の領地の大半はハワイ政府の所有する官有地とされ、結果、王領23.8%、官有地37%、族長領地39.2%という割合になったのです。

このマヘレ法はハワイの社会制度を根底から揺るがすもとにもなった法律で、グレート・マヘレとも呼ばれます。

1850年にはクレアナ法(土地権)が制定され、庶民でも、自分の小作農地を請求すればそれを自分の土地として所有が認められることになりました。これは画期的ともいえる法律であったのですが、広報不足や手続きの複雑さで、成人男子の3割しか請求せず、請求できた土地を合計しても、ハワイ全土の1%程度でした。

一方、同年、外国人による土地私有も認められたため、法律に強く、ある程度資金もあったハオレ(白人)たちは、対外債務を抱えていたハワイ政府から、格安で王領地や官有地の売却を受け、1862年までにはなんとハワイ全土の75%がハオレの個人所有になっていったのです。

【外交】

1839年、ハワイにおけるプロテスタント重視に不満を抱いたカトリック国のフランスが、ハワイに対して、武力を背景に5か条の要求をつきつけ、さらにはフランスとハワイの間に、関税自主権の無い不平等条約を締結させます。(各国との不平等条約のはじまり)

1843年2月には、今度はイギリスが、といっても、ジョージ・ポーレット卿という男の独断であったのですが、ハワイに対して、イギリスに暫定的に領土を割譲するよう要求し、カメハメハ3世をラハイナに強制隠居させてハワイ王室にイギリス国旗を掲げさせるという事件が起こりました。

この事件は7月に来航したイギリスのトーマス少将が、ポーレットのやりすぎを認め、イギリス女王はハワイを併合する意思など無いことを確約して解決しましたが、瞬間的とはいえ、ハワイ王国が消滅していた時期があったのです。

カメハメハ3世は無事にオアフに戻り、1842年に完成したばかりのカワイアハオ教会 で、今でもハワイ州のモットーとされている「土地の命は正義と共に生き続ける(ua mau ke ea oka aina ika pono)」という有名な演説を行います。また、今でもホノルルの中心 に残るトーマス・スクエアは、このトーマス少将の名を記念したものです。

また、この事件に先立つ1842年、カメハメハ3世は欧米諸国に対して、ハワイ王国を承認してもらうべく特使を派遣していました。まずアメリカのタイラー大統領が承認したのを皮切りに、43年11月には英仏両国が共同宣言というかたちで承認します。

1844年にはイギリスとの間にも不平等条約を結ぶことになりますが、1849年にアメリカとハワイの間で、はじめての「平等条約」を結ぶことができ、これを根拠として、1851年にはイギリスとの間で条約改正、ついでスウェーデン・ノルウェーとも平等条約を締結していくことになります。

【教育】

1820年に宣教師が来航するまで、ハワイには文字というものすら存在しなかったのですが、わずか30年後の1850年には、ハワイ王国は世界でも有数の識字率を誇る国へと変容していました。

1831年に、ロッキー山脈より西で初めての学校といわれるラハイナルナが開校、34年には太平洋地域で初めての新聞発行(Ka Lama Hawaii)、1842年には王族の子弟の教育のためのプナホウ・スクール開校、と、ハワイの教育水準は急ピッチで高まっていきます。

1850年には、土地の5%を教育にあてるという教育法が成立、1859年にはついに義務教育法が制定されるにいたりました。こうした、ハワイ住民の教育水準の高まりは、ハワイ人の間に、キリスト教文化を身につけた「文化人」をも生み出すことになり、旧来の伝統文化を貧しいものとして、ハワイ人自身によって伝統文化が否定されるという、皮肉な側面も生みました。

1855年、激流を駆け抜けたカメハメハ3世は41歳の若さでこの世を去りました。



岩倉具視、遣外使節団特命全権大使に任命。1871年
livedoorニュース 2007年10月08日


岩倉具視という公家がいた。500円札の肖像であったのだが、1982(昭和57)年の500円硬貨の登場でお札の500円(製造は1985(昭和60)年までされた)もなくなってその顔を知る人も少なくなった。しかし、その系譜の子孫は結構、政財界・芸能界でも活躍している。この岩倉具視は、幕末の公武合体論の推進者でもあり、明治維新では影の動きをした人物であった。俗説が多く存在している。

 「明治4年、明治政府は条約改正のために、10月8日(新暦11月20日)外務卿岩倉具視を以て右大臣兼特命全権大使に任じ欧米締盟国に差遣に決し、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文、外務少輔山口尚芳(節臓 伊万里藩士)之に副して、米国、英国、仏蘭西、西班牙、葡萄牙、白耳義、和蘭、独逸、露西亜、丁抹、瑞典、伊太利、墺地利、瑞西14ヶ国に巡聘することとなった。」(引用:資料近代日本史)

 1871(明治5)年11月12日(新暦12月23日)首脳は薩摩・長州の実力者、書記官は旧幕臣、理事官は各省派遣の専門官という構成の総勢46名に、随従者18名、そして同行の留学生43名を加えた107名が太平洋会社郵船にて横浜港を出帆、大任の途についた。この時、米国に寄せられた国書には、次のように記されてあった。

 「朕天佑ヲ得テ万世一系ノ大統ヲ継キ此天位ニ昇テ以来未タ使節ヲ派シテ之ヲ友邦ノ政府ニ到ラシメス 然ルニ今ヤ其切要ナルヲ思フ 依テ朕カ信任ノ(中略、この部分は使節団の構成、官位・名前などが記されている)各其全権ヲ持シ北米連邦若クハ爾余ノ政府ニ前往シ朕カ友愛ノ意ヲ表シ其修好ヲ尋テ更ニ之ヲ拡ケ又之ヲ堅クセシム 今顧フニ条約改正ノ期ハ既ニ迫テ一年有弱ノ時ニ在リ 朕大ニ之ヲ改正シ我国ヲシテ文明ノ諸国ト対頭ノ位置ヲ保タシメ其権利ト其実益ヲ全フセンコトヲ思フ 然トモ朕カ国土ノ文物制度大ニ外国ニ異ナレリ 是ヲ以テ 朕直ニ条約改正ノ事ヲ成就スルヲ望マス 唯夕方ニ文明諸国ノ制度ヲ考ヘ其最モ朕カ国土ニ適スルモノヲ撰ヒ之ヲ採テ之ヲ行ヒ徐ニ我政治ト風俗ヲ改良シ以テ文明諸国ト平等ノ位置ヲ保ツニ至ラシム 是ヲ以テ朕今使節ヲ派シ連邦政府ニ就テ朕カ国土ノ事情ヲ露示シ我制度ヲ改良スルノ手段ヲ商議セシム 而シテ朕カ使節ニシテ復命セハ朕将ニ条約改正ノ事ヲ撰思シ以テ朕カ平生ノ望ヲ達セン」(引用:資料近代日本史)

 使節団の目的は、条約締盟国への以上のような国書の捧呈(ほうてい)と条約改正の予備交渉であったが、改正交渉は進ちょくせず、また意見の調整もできないため、専ら文物・制度の調査・研究に専念したようである。1873(明治6)年9月13日に、帰国する。この使節団の構成メンバーや留学生(津田梅子・山川捨松・永井繁子らの女子アメリカ留学組もいた)の多くが明治の日本を大きく変えていく力となる。

 しかし、使節団の欧米外遊体験と留守政府との間にうまれた考え方の差が、征韓論問題で西郷隆盛らの下野を招くこととなり、明治初年の政情不安を招きだす。岩倉具視も1874(明治7)年1月14日に赤坂喰違で、高知県士族武市熊吉らに襲撃され負傷する。

 条約改正には、アメリカは好意的な対応があったが、まだまだ時間がかかり、完全な税権回復の条約への調印をするには、1911(明治44)年までかかることとなる。


シカゴと日本
在シカゴ日本国総領事館


1)出会い

 シカゴを初めて訪れた高名な日本人は1872年(明治5年)の岩倉具視特使一行でした。ワシントンD.C.に向かう途上の一行がシカゴに到着したのは、シカゴの大火の3ヶ月後の1872年1月でした。焼き払われたシカゴの光景を見た一行は、旅先であったにもかかわらず5千ドルという多額の寄付をしたといいます。

 1893年の万国博覧会の際には、日本政府は鳳凰殿を寄付し、1934年にシカゴ市は日本への謝意を表するとしてその周囲に庭園を造りました。ここは大阪庭園として今でもシカゴ市民の憩いの場として親しまれています。

(2)現在のシカゴと日本

 2007年10月時点でイリノイ州に進出している日本企業は商社・銀行・メーカー等約1,200(事業所)、雇用者数は約10万人に上ります。在留邦人は駐在員家族・留学生を中心に約14,400人が居住しています。日系アメリカ人は約1万8千人で、その大部分は第二次世界大戦後にカリフォルニアやアーカンソー等の収容所から移り住んできた人達です。50年余りを経て現在シカゴ社会においてそれぞれ中流以上の安定した地位を築いています。シカゴ市は大阪市と姉妹都市関係にあり、2008年には姉妹都市協定締結から35周年を迎えました。また、東京発着のシカゴ直行便は毎日4便が運航しています。


サンデー毎日最新号「五輪敗北『ばらまき』リスト一覧」

10月25日号 見出しより
◇「石原慎太郎大泣き」の内幕

 五輪敗北「ばらまき」リスト一覧

・区市町村に上限1000万円の補助金が2年間256回

・「IOC委員の視察」4日間で経費9億5000万円

まったく、市区町村で招致のためと称して配られた血税でどんな「やる気のない」イベントが行われたのか、とにもかくにも怒り心頭です。

ということで、ぜひともお読みください!!

なおここからは、先週号の内容を一部ご紹介します。

サンデー毎日 2009年10月18日号

「東京五輪誘致」敗北だけじゃない 石原慎太郎の「出処進退」の季節

(略)

 すでに共産党は、招致推進活動経費150億円の「無駄遣いリスト」を作成。追求の構えを見せている。

 「そもそも55億円だった招致経費が、明らかにされたものだけでも150億円に膨らんだ。使い道に相当問題があります」

 そう指摘するのは、共産党と疑団の吉田信夫幹事長。

 「中でも、9月23日に表参道で開催された『応援大パレード』に総額1億円近くかかっていますが、どのような効果があったのか疑問。また、一度しか着ないコペンハーゲンのプレゼン用に、生地から作る1着30万円のオーダースーツを50人分もそろえました」

 世論喚起の名目で、市区町村に自由に使える上限1000万円の補助金支出、IOC委員への対策費に約9億円、北京五輪への職員派遣に約9億円などがあるという。

 この150億円の経費とは別に、今年だけでもスポーツムーブメント事業として、4月から半年間、日本テレビの「ヒーローが見た夢」(毎週金曜22:54~23:00)に2億円余り。3月の「スノースポーツ体験イベント」に6800万円、また、「東京レインボーウォーク」に7000万円かかったことなども指摘する。

「すべて思いつきでトップダウンで進められている。これだけの膨大な税金を招致活動に投入するのなら、不景気で暮らしに困った人たちのために使うべきです。我々は、五輪招致関係でどれだけ税金が投入され、どこに発注されたのか。その全容を都民の前に明らかにします」(吉田幹事長)


明治時代の「1円」ってどれくらい?
日本と世界のお金の歴史 雑学コラム


明治時代の「1円」って、今のお金に換算するとどれぐらい価値があったのだろう? …昔の時代を描いたテレビドラマを見て、そんなことを考えたこともあるかもしれません。

明治時代は、欧米の文化がどんどん日本に入ってきた時期であり、パンやコーヒー、カレーライスやビールといった洋食、背広やワイシャツといった洋服が少しずつ普及し、さらに映画のような新しい娯楽が始まったのもこの頃でした。

単純に、明治30年頃の物価と、今の物価を比べると、今の物価は当時の3800倍ぐらいです。つまり明治時代の1円は、今の3800円ぐらいに相当することになります。

とはいえ、昔のお金と今のお金の価値を比べるのはなかなか難しいことです。人々の仕事の種類も生活のしかたも違いますし、生活に必要な品物も異なるからです。物価も賃金水準も年々変化しているので、明治時代でも前半と後半では違いがあります。

そのことを踏まえて、試算してみることにしましょう。 当時は、日本経済が発展しはじめたばかりで、物価に比べて賃金の水準は低く、いまよりも、職業によっての所得格差も大きかったようです。お給料が安ければ、それだけ1円の重みも違います。明治30年頃、小学校の教員やお巡りさんの初任給は月に8~9円ぐらい。一人前の大工さんや工場のベテラン技術者で月20円ぐらいだったようです。 このことから考えると、庶民にとって当時の1円は、現在の2万円ぐらいの重みがあったのかもしれません。
日本の金貨
ウィキペディア


明治2年(1869年)当時一世を風靡し、事実上の国際決済通貨として世界的に広く流通していたメキシコ銀(8レアル銀貨)に基づき、これと同質量の本位銀貨を発行し、金貨および銅貨は補助貨幣とする銀本位制の採択の意見が大勢を占めたが、当時財政研究のため米国に渡っていた伊藤博文は、世界の大勢から金本位制を採るべきと強く主張し金本位制が採択され、メキシコ銀と同質量の一圓銀貨は貿易決済用銀貨として発行されることになった。両から圓(円)への切り替えは等価とされたため比較的円滑なものであり、当時金貨の流通の大半を占めていた万延二分判2枚分の含有金量と含有銀量の合計が、メキシコ銀1ドルおよび米国の1ドル金貨の含有金量の実質価値に近く、1ドル金貨に近似する質量の1圓金貨を発行するに至った。


「ホテル税導入」の石原都知事は“悪代官”
国際観光旅館連盟 2001年12月26日


税制に精通している海江田万里衆議院議員は税より先に景気浮揚策を考えなければならないと言う。

「年間15億円は小手先の増収先でしかなく、もっと抜本的な増収先というのが必要なのですが、一にも二にも景気が良くならないことには税収は増えません。財務省予算で東京など大都市の再生というのを謳っていますので、重点的に予算配分をしてもらって、東京を活性化させて、そこから日本の景気全体を良くしていかなければならない。景気の悪いときに増収策、増税というのは受け入れられないが、規模が小さくて百円玉1枚2枚のことだから、苦肉の策なのであえて反対はしません。しかし、今後、値上がりしていく可能性もあるため、目を光らせておく必要があるでしょうね」

もし、東京都のホテル税が実施されれば地方自治体がそれに追随し、法定外目的税など地方独自の課税措置を続々と導入してくるのは目に見えている。当初は企業課税がほとんどだったが、昨今では、個人に負担を求める新税が提案されている。東京都の都外からの大型ディーゼル車が入るとき税を掛ける『高速道路利用税』や東京都杉並区の『レジ袋税』、札幌市の道路の除雪費に当てる『雪目的税』などまさに雪だるま式にふくらんでいきそうだ。

ホテル税導入騒動は、'90年の英国・サッチャー政権の幕引きの前奏曲となった人頭税(人の頭数に応じて税を掛ける)騒動を思い起こさせる。所得額に関係なく、長期滞在の外国人も含め18歳以上の住民に一律の税額を徴収する「人頭税」導入にあたり、反税デモがおこり、「マギー(首相の愛称)、アウト」のシュプレヒコールと共にサッチャー女史の人形が焼かれた。そのため、その年11月に行われた保守党党首選挙への立候補を断念せざるをえなくなったのである。石原知事もホテル税の導入成功でほくそえんでいると、後味の悪い結末になる可能性もある。

石原氏の打ち出した新税は追随する地方自治体を生み出すことになり、国民は払う負担が増える一方である。それぞれの自治体が無駄な施設等を処分し、会議の際の足代、人件費などを削減するのがまず先決である。これから新税をエスカレートさせていけば、石原知事はまさに悪代官そのものになってしまう。民草(たみくさ)もいつまでも黙っていませんぞ。


伊藤博文暗殺から100年、韓国で記念式典
読売新聞 2009年10月27日


韓国の独立運動家、安重根(アンジュングン)が日本の政治家、伊藤博文をハルビン駅で暗殺して100年にあたる26日、ソウルで韓国政府主催の記念式典が行われた。

 鄭雲燦(チョンウンチャン)首相や独立運動家の遺族ら約1200人が参席し、鄭首相は、暗殺事件が「民族の独立の意志を世界中に知らせた」と意義づけ、安重根を「民族の魂の表象だ」とたたえた。

 安重根は韓国で、日本の植民地主義に抵抗した人物として英雄視されており、暗殺事件は「義挙」と呼ばれている。ソウルでは今月に入って安重根を主人公としたミュージカル公演や学術会議、遺墨展などの関連行事が続いている。ただ、国民の反応は冷静で、ブームや反日感情の高まりは見られない。

 有力紙では、安重根が事件後、獄中で書き始めて未完成に終わった「東洋平和論」や裁判所での主張に着目し、「東アジア共同体」論の先覚者としてとらえる記事が目立つ。朝鮮日報は26日付の社説で、安重根は、韓国、中国、日本が「弱肉強食」の帝国主義を超克し、共同繁栄する道を追求したと評価。「3国共同銀行」の設立など具体的な提案をしていたと指摘した。


天保15年5月10日1844年6月25日
妖異大年表

05月10日 †

江戸城本丸炎上

土井利位の刺客、火災の中で将軍家慶を狙うも加納左馬ノ助に阻まれる 『書院番殺法帖』


天保の江戸城炎上
【HERMITAGE】


先頃、故吉田茂邸が炎上した。

歴史的価値も高い邸宅であったようなので、惜しまれる。 吉田邸は総檜造りの居館であったようだが、当たり前といえばそれまでだが、やはり木造建築物は火災に大変弱い。

ごくごく最近まで、日本の建築物は大半が木造であったし、現在でも木造建築は住宅を中心に大変多い。阪神淡路大震災以降、木造建築の耐震化が叫ばれている(あまり進んではいないが)が、防火対策ももう少しまじめに取り組まないと、大災害や大火災にはひとたまりもないだろう。

最近読んだ『井関隆子日記』を主題とした本の中で、天保十五年五月十日に起こった江戸城炎上がかなり詳細に記されていた。

江戸城は当時、言わずと知れた日本の政治の中心であり、京都禁中と並ぶ格式ある邸館でもある。江戸時代を通じて江戸城は何度も火災を起こしているし、市中の大火の貰い火を受けた事もある。

こういった場合、城中ではどのような状況に陥っていたのか、どういう対策を講じようとしたのか、また事後処理はどう行ったのか、などは意外にあまり知られていない部分でもある。

『井関隆子日記』の著者はあくまで旗本の老後家であったが、同居していた義理の子息や孫が御城大奥詰の上級役人であり、またこの老後家とは大変関係が良好であり、城中の様子を詳しく伝えていたため、意外に知られていないような城中(特に大奥関係)の様子を正確に残してある貴重な資料でもある。

当時を描いた幕府の正史『続徳川実記』ではわずか数行に満たない文章で書きとめられているにすぎない天保の炎上は、実はかなり深刻なものであった。

火災は、大雨の降る早朝に起こっている。

このところ長雨続きで、誰も火災の心配などしていなかったのが運のつきで、夏の短夜の事でもあり、ぐっすりと寝静まっている大奥で火の手が上がった。
気づいた端女が大声を上げたが、大雨の音にかき消され、気付く者が少ない。

ちなみに、江戸城大奥では「火事だ!」と叫ぶことは禁止されていたのだという。誤って騒ぐもとにもなりかねないし、小さい火ならば消せる事も多いため、むやみには「火事だ」と騒がないようにしていたのだそうだ。

ところが、この時もその習慣に従って騒ぐだけにしていたのが、大雨によって周囲の変化に気付きにくい時でもあったため、最悪の惨事を招く原因となった。

ようやく気付いた女中衆はパニック状態に陥り、ただただ泣き騒ぐのみで右往左往するばかり。大奥には、避難経路などの取り決めがなかったことがわかる。

大奥御広敷詰の役人が(隆子の子息らもいる)ようやく気付き、女中衆に詳細を訪ねるが、誰も耳を貸さずに泣き騒ぐのみ。 出入り口の門なども、番する者が逃げてしまっているため開ける事が出来ず、やむなく役人が木槌などで壊し、そこに集まってた女中達は、その破れ目から辛くも難を逃れた。

長雨が続いていたにも拘らず、本丸御殿の火の回りは非常に速かった。 火難を逃れた女中達や役人は、大雨の中を泥に足を取られながら吹上の庭へと非難した。

この大騒動の渦中、大奥の主である将軍の妻女や大御台といっても、避難するには大変であった。

隆子の子息・親経は、大御台所広大院が担当であったため、逃げ惑う女中衆から広大院の安否を聞き出そうとするが、誰も耳を貸しはしない。
大奥詰の役人といっても、大奥の中まで入る事はほとんどないため、大奥内がどうなっているか分からず、ようやく顔見知りの表使女中を捉まえ、広大院の居室へと案内させた。大騒ぎの渦中ではあるが、大納戸から乗り物(上流の使用する駕籠は「乗り物」と呼ぶ)を出して、女中衆に担がせて退避した。
将軍家慶の養女精姫君は、女中が背負って脱出したとある。
将軍もしばらくして吹上に姿を現し、あまりに騒然とした女中や役人の姿を見かねて「整然と行動するように」と声を度々かけたという。

本丸御殿と西の丸御殿は、規模こそ西の丸の方が小さめだが、構造は大変よく似ている。どちらも、大奥が最も火事に弱い造りであったと、すでに当時から認識されていた。大奥は土壁が全くなく、隔ては全て板であったというのだ。
それをわかっていながら、誰もそれを変更しようと思わなかったというのは、幕府役人がいかに前例至上主義であったかがよく判る。

火が回るスピードが、大雨の中とは思えないほど速く、しかも大奥から見れば出口にあたる一の側の局付近から出火したため、脱出できなかった女中衆が大勢亡くなった。

運良く役人によって門を破られた辺りに逃げた女中は助かったが、板門を開ける事が出来ずにそのまま焼死した女中も多く、逃げ場を失った女中達の焼死体が折り重なって前栽に打ち伏し燻っていた光景を、暗澹と描き出している。

翌日になっても火の勢いは衰えなかった。

以前、西の丸が炎上した折には、多くの町火消しを動員して消火に当たったそうだが、盗難が非常に多かったため、今回は自然に消えるのを待つという方針を、陣頭指揮にあたっていた老中・土井利位が打ち出していたためである。

ところが、火勢が衰えない上に風まで出てきたため、西の丸御殿までが危うくなってきたというので、富士見櫓や蓮池櫓などを火消しが打ち壊してようやく難を逃れた。

こうして、本丸御殿は残らず、一宇も余すところなく全焼。
書類、調度、宝物はもちろん、蔵の金銀まで焼け、特に銀は溶け流れてしまっていた。
奥女中達の亡骸は親類縁者に引き渡すことになったが、判別不可能になるまで焼けてしまったものが多く、上﨟の遺体として親族に渡したのが端女であったという事もあったそうだ。

火元は、広大院付き御年寄り・梅谷の管理下にあった端女の不始末という事になったらしい。水で消した炭を壺に入れて炭置きに置いたが、その炭の燠が燃え始めて周囲の炭俵に燃え移ったとされた。

江戸城炎上の記録で、ここまで大奥を中心に語られた記録は少ない。
いろいろな面でこの日記は貴重である。

この後も、幕府崩壊までの間、江戸城では火災がやはり相次いだ。

官軍が接収した江戸城も、すでに本丸御殿は焼けており、天璋院・静寛院宮ら将軍家親族が使用していた西の丸御殿が、この後、皇居宮殿として整備されて行く。
果たしてこれほど甚大な被害を与えた火災が、後代の江戸城内に教訓をもたらしたかどうかは、詳細が不明である。
大奥女中 桂川てや こや


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