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鹿児島市内観光編 パート1
社会保険労務士 溝上久男事務所


さて20日きりしま11号で西鹿児島駅に着いた私は宿泊先のホテルへ向かった。ところで宿泊先のホ テルは、インターネット予約したJR九州グループ会社経営のJR九州ホテル鹿児島という、まだオープン して2ヶ月もたってない新しいホテルなのであった。しかも西鹿児島駅からの専用の連絡通路でスロー プ1つで2階にあるフロントへ直結している。宿泊特化しているようで朝食は1階のパン屋さんか駅構 内の和食かの選択で割り引き朝食券を購入することができることになっている。まだオープン間もない のでフロントのスタッフも緊張しているようだった(ここのおねーさん美人だったけど・・・)。部屋も6,5 00円とは思えないほど広くて設備も良かったので私としてはおすすめである。また1階にはこれまた JR九州グループ会社のコンビニがあるからロケーション抜群であると思う。  大学時代の友人とは20時半西鹿児島駅で待ち合わせだったので、しばらくダイヤ調整をしたのち に出かけた。約2年ぶりの再会で滅多にない私の鹿児島遠征と言うこともあり熱烈歓迎をもって迎えら れた。で・・・晩飯の事に移り私はリクエストに、折角鹿児島に来たんだから黒豚が食べたいと思って いた。時間帯が時間帯だったが市街地の中で開いている店があってめでたくありつけることができた。 注文したのはたしかセットものの様な記憶があるが、店も落ち着いた雰囲気の内装で本場黒豚料理 を堪能したのは言うまでもない(店の名前控えるの忘れたけど・・・)。

 21日は友人の愛車で城山へ脱線しながら展望台へ向かった。城山といってもそんなに高い山で はないがちょっとした観光地にはなっているのか、鹿児島ループバスの経由地にもなっていた。この シティビューバスは市内観光地を路線にもち風変わりな路線バスであり、ほぼ30分毎に鹿児島市内 の観光地を結んでいるお手頃な交通機関であるし、また1日乗車券もあるのでおすすめです。城山 展望台からの市内の展望は非常によくほぼ正面に桜島がみえ、桜島フェリーの運航状況が手に取 るように分かるほどであった。山を下りる途中で西南戦争(明治10年)の時に西郷隆盛終焉の地であ った洞窟をみることができた。

 昼食は市街地薩摩ラーメン専門店にたどり着くことになったが、これが意外と濃くなくややあっさりと していた。その後は市街地から西北へ海岸沿いに車を進めて、鹿児島・島津家別邸の仙厳(せんが ん)園に到着した。地元では別名磯公園と呼ばれていて、管理は島津観光㈱か管理しているので ある。入園料は千円とやはり民営のためかやや高いような気がした。ちょうど団体が入っていてガイド がついていて色々案内していたので、我々も後ろについて行くことにした。しばらくして島津家の御 紋丸に十文字のエビソードだが、当初は十文字だったのだが16世紀中頃にキリスト教の布教に鹿児 島に上陸したフランシスコ・ザビエルが、この十文字を見てキリスト教徒が多いのかと勘違いしたほど であり、この後今の御紋になったといういわれがあるそうである。のんびりとそぞろ歩きをしながら御殿 の前庭にたどり着いた。御殿の建物もさることながら前庭からの錦江湾と桜島の眺めは絶景かな・・・ という気分であった。そういえば昔水戸黄門(東野英治郎バージョン)のロケ地にもここが使われてい たのを記憶にしているのか、その場所に来た実感がした。御殿の裏側は閑静なちょっとした自然が あり、なんといっても裏山には千尋厳(せんじんがん)と巨岩に掘られた文字があった。でもこんな絶 壁の所にしかも江戸時代に足場を組み相当な領民が動員されたことだろうと思われる。しかしあたり は9月の終わりにかかろうとしているのにまだセミが鳴いていたのには驚かされた。

 さてさてこの公園の中には薩摩焼と薩摩切子の専門店があって、ついつい薩摩切り子の方に入っ ていったのが、その美しさに魅了されてしまいしばらく居座ってしまった。これはカットグラスで透明な ガラスの上に薄い色ガラスを吹き付けた上で削っていき、その削り具合と光の反射で目で楽しむ作 品である。ここは即売もしているのだがちょっとしたものでもうん万円・・・魅了させられる作品は数十 万円するのが所狭しと並んでいたのである。でここでハッとひらめいたのが、丁度私の高松にいる親 友がこのほぼ1週間後にめでたく御結婚されることになっていたし、挙式には参列できないのでここ でお祝いを購入しようと思った。あれこれと迷ったのだが1つではちょっと・・・だし個数はご夫婦むつ まじく2つということで店内をみまわした。すると手頃な小さなグラスというか焼酎むけの木箱入りのセ ットがあったのでそれに決めたのである。

 その後は磯公園に隣接する尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)という島津家の資料館を見学した。 入場料は先の磯公園の入園料に含まれており、これなら千円も納得であった。中には主に幕末から 明治にかけての資料展示物中心に島津家の流れがよく分かって、また斉彬(なりあきら)公の幕末の 時勢を改革していこうとした偉業、同じ時期に方法・目的こそ同じだったのに相対する立場になってし まった水戸・徳川斉昭公をだぶらせつつ歴史を感じながら回ってみると、結構歴史のいい実体験にな ったような気がしてならない。

 次はやや市街地に立ち返り、海手沿いを走っていくと鹿児島の新名所である石橋記念公園に到着 した。ここは平成12年に鹿児島市街地にあった5つの有名な石橋のうち3橋をを移築保存しており、 また5橋の歴史や建築技術を紹介した資料館(無料)がある。これら復元されている橋は実物で実際 にわたることもできて、橋の全体を近くで見ることのできるようになっている。  


「島津に暗君なし」と言われる理由
島津義弘.com


薩摩島津家は、鎌倉時代来明治に至るまで続く名家中の名家だが、時代の変革期に歴史上に燦然と輝く名君を出すという幸運に恵まれた。

戦国時代には、島津家中興の祖・島津忠良(日新公)を排出。その子・貴久は「島津の英主」と称えられ、貴久の子であるいわゆる「島津四兄弟」は義久、義弘、歳久、家久とそれぞれ文武ともに才能あふれる武将たちであった。

「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」。島津忠良が孫の四人を評した言葉である。

親兄弟であっても下剋上が日常茶飯事であった戦国の世においても、島津四兄弟の結束は固く、島津家興隆を実現させ、豊臣秀吉の九州征伐の前に屈するまで九州全域に勢力を拡大していった。

幕末期には、「蘭癖大名」の代表とされる島津重豪(しげひで)、祖父である重豪の影響を多大に受けた幕末期最大の名君・島津斉彬(なりあきら)、そして斉彬の異母弟で斉彬逝去後の薩摩藩の実権を握った島津久光と立て続けに名君を輩出。

時代の節目に名君が出たことが、鎌倉時代に土着から始まった島津家が明治維新まで名家として続き、維新時には薩摩勢が日本を動かすという結果に繋がった。

薩摩という中央政権の手の届きにくい僻地であったこと、海に面した立地により海外の情報が入ってきやすかったことなど環境に恵まれた面もあるとはいえ、それらの環境を最大限に活用した島津家当主たちの活躍は称賛に値する。それらを総合して「島津は暗君なし」という言葉が生まれ、存在し続けている理由かもしれない。


今も西郷さんを愛し、懐かしむそれぞれの人たち
Livedoorニュース 2005年09月26日


鹿児島県鹿児島市の南洲神社で24日、西南戦争終結の1877年9月24日に同市の城山の陥落して自刃した西郷隆盛を御祭神とし、その命日を同神社の例祭とした南洲神社秋季「百二十八年例大祭」が行われた。参列者は西郷家を代表して西郷隆文さんや島津家からは34代当主島津修久さんをはじめ、城山で亡くなった薩摩軍遺族の子孫の方々など約120人。

 今から128年前、1877年9月24日の午前4時ころ、城山に立てこもる薩摩兵士300人に対し、約5万からなる官軍の総攻撃が開始した。死を決したその日西郷さんは、妻のイトさんが縫った縞(しま)の単重に白い兵児帯(へこおび)の出立たちで、5日間過ごした洞窟を出た。ゆっくりと岩崎谷に下り、銃声の中西郷さんに銃弾が命中し、足におびただしい血が流れた。最後に「晋介どん、ここでよか」と言って、別府晋介の介錯を仰ぎ、49歳の生涯を終えた。

 関西鹿児島県人会・総連合会副会長の安藤隆重さんは、城山で西郷さんと最後をともにした安藤正太郎さんなど7人の御先祖を持つ。「示現流は1人で10人の相手にどのようにして戦うかを学ばされます。逃げたらやられる。それは1番強いヤツに向かっていくことです」と示現流高段者の安藤さんは話す。「難しいことなどもない。『負けるな』『ウソをつくな』『弱い者いじめをするな』ができれば、何人だって相手にできます」と耳元に刀のつばを寄せて、腰をわずかに落として示現流上段の構えを披露した。西郷さんの息子菊次郎さん方子孫にあたる西郷隆文さんとは昔から懇意だという。

 その安藤さんに「こちらが島津修久さん。斉彬公の血を引く島津家の36代目です」と引き合わされた。島津さんは名君と誉れの高い斉彬公に面影がよく似ており、静かな物腰だ。その後ろからすぐにその顔つくりでわかる西郷家の人が現れ、島津さんと安藤に挨拶をされた。この人が西郷隆文さん。「島津さんとは月に1回ほどお会いしますよ」と言う。「みなさんは幕末史をよく勉強をしておられて、ぼくらも勉強しないといけません」と気さくに笑うのは島津さん。西郷さんは現在、NPO法人「西郷隆盛公奉参会」の理事長を務め、先祖の西郷隆盛の研究に力を入れている。島津家とそれにかかわる子孫の人たちが今もこうして目の前にそろっている。

 南洲神社宮司の鶴田伊都雄さんは「毎年日本全国から例祭に参列されます。御霊を慰めると同時に西郷南洲遺訓の中にある敬天愛人を若い人に継承してほしいですね」と話す。神社の額に飾ってある「敬天愛人」の書は西郷隆盛直筆かとの問いに対して「とんでもない。美術館においてあっても危ないくらいですよ」と答えた。同直筆の「敬天愛人」の書は数枚以前の宮司が持っているとのこと。

 西郷隆盛の大ファンで、神奈川県横須賀市から5年ほど前に鹿児島に移り住んでしまったのが梅田あかねさん。「西郷さんの逸話を知れば知るほど、その心の広さとやさしさに惹かれます」。残っている妻の西郷イトさんの話に「これはよくできました」「ありがとう」といつも誉め言葉をかけてくれて、何ひとつ残さず食べた話が残っている。こんなところにも男性ばかりか女性の心までさりげなく奪ってしまう。

 私学校の若者たちに命を預けて、故山城山の露となって消えていった西郷さんに勝海舟が詠んだ歌がある。

「濡れぎぬを ほさんともせず こどもらの なすが まにまに 果てし 君かな」


島津藩?薩摩藩?
OKWave


NHKの大河ドラマを見ていてふと思ったのですが
島津藩?薩摩藩?どちらが正しいのでしょうか?
そもそも島津藩と薩摩藩は同一のものでしょうか?
それともまったく別のものなのでしょううか?
薩摩藩、藩主、島津氏これは分かるのですが・・・

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質問者が選んだベストアンサー
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そもそも、江戸時代当時には「**藩」という言葉はありませんでした。明治以降に、歴史学者が便宜上作り出した言葉です。

別に江戸幕府が公式に決めたわけでも、現在の法律で決まっているわけでもないので、お尋ねのことについては

1) 「鹿児島藩」
2) 「薩摩藩」
3) 「島津藩」

どれでも間違いではありません。特に、薩摩の島津家は日本第二の大藩ですから、1から3のどの表記でも間違える人はおりません。

ただし、現在の歴史の本では、(1)のパターンで「藩の政庁の所在地」藩、即ち「鹿児島藩」と呼ぶのが標準です。

なぜかというと、
A) この表記なら、日本に数百あった藩を全て識別できる。
B) (2)の表記では、一つまたは複数の国を全て領地とする僅かな大名しか表現できない。
C) (3)の表記では、同姓の大名が多数いたので、識別できない藩が多く出る。

例えば、
仙台の伊達家(62万石の大藩)
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/mutudewa/sendai.html
を1から3のパターンで表現してみましょう。

1) 「仙台藩」でOKです。
2) 「陸奥藩」と呼ぶわけには行きません。陸奥国には多くの藩がほかに存在しましたので。
3) 「伊達藩」と言えば普通は「仙台の伊達家」の事を指します。
ただし、
伊予国・宇和島10万石の伊達家
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/shikoku/uwajima.html
も「伊達藩」と呼ぶことが出来ますので、混乱が生じます。

(1)のパターンで呼ぶのが一番分かり易いことがご理解頂けたでしょうか。

ただし、何事にも例外があります。
長門国・萩(幕末には周防国・山口に政庁を移す)の毛利家36万石
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/chugoku/hagi.html
は、歴史の専門書でも、一般にも、「長州藩」と呼ぶことが普通です。萩藩と呼ぶ方が例外と言えます。


木崎原の戦い 島津義弘


元亀3年(1571年)思わぬ知らせが義弘のもとにもたらされます。隣国日向の伊東氏の軍勢3000が、島津の城加久藤城に迫っているというのです。加久藤城を守っていたのは、義弘の妻とわずか数十人の兵でした。「加久藤城を救わねばならない。」、義弘は直ちに兵を集めます。突然の出来事に集まった兵は200人余り。しかし、義弘は兵たちにこう告げます。「戦(いくさ)の勝敗は数の多少ではない。将兵が一丸となって勇気を奮って戦えば必ず勝てる。この義弘に命を預けよ。」

義弘は少ない手勢で十倍の軍勢に立ち向かうために、兵を三つに分け挟み撃ちにする作戦を立てました。60の兵は加久藤城の援軍に向かい、40は白鳥山の麓に潜ませました。そして130の義弘本隊は敵の背後へと軍を進めます。

戦いが始まりました。義弘は自ら先頭に立ち3000の敵に突撃、そしてすぐさま後退して木崎原(きざきばる)の平地へと敵兵をおびき出します。そこに白鳥山に潜んでいた兵が背後から攻撃、不意打ちを食らい隊を乱した伊東勢は、義弘本隊が反転して攻撃、これに加久藤城の兵が加わります。一糸乱れぬ義弘軍の攻撃に伊東勢は敗走しました。

自ら先頭に立ち、部下の心を一つにして敵を打ち破った義弘、その武勇は九州一帯に轟くことになりました。 この後、島津家は九州制圧に向けて進軍します。父の跡を継いで当主となった兄の義久は後方で全軍を統率、義弘は最前線に身を置き快進撃を続けます。やがて島津家はほぼ九州全土を制圧するに至ります。


平成の大獄
論壇 平成21年03月11日


過日、小沢民主党代表は常任幹事会後に羽田孜氏との会話で今回の公設秘書逮捕について 「まるで安政の大獄のようだな 」 ともらしたそうだ。

差し詰め 「 井伊直弼 」 が漆間官房副長官であり、その意にそって検察権力を行使しているのが大林宏東京高検検事長となろう。

大林氏については面白い記述がある。 1980年に中国に極秘渡航したまま27年間幽閉された元日本共産党伊藤律氏 ( 故人 ) の回顧録である。

『午後三時過ぎに迎賓館に着いた。…(中略)日本大使館の当局者はすでに来ていた。大使代理(?)の一等書記官大林宏、一等書記官渡辺、二等書記官某の三人。質問は大林が行い、渡辺が筆記して私に示し、答えさせる。…(中略)大林は威圧的で、時には旧特高式の睨みをきかせ、時には日本料理を食べないかとか、日本のえらい医師に私の病気をみさせようとか硬軟両方の手を使う。少しでも多く喋らせようとの魂胆がありありだ。帰国後に判明したのだが、大林は法務省刑事局の幹部検察官で、当時「外務省出仕」となっていたのである。つまり本物の公安検察官だったのだ』 (『伊藤律 回想録~北京幽閉二七年 』文藝春秋社、1993年、325ページ)

安政の大獄では、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると一気に維新の革命が進行し、200年続いた徳川幕府は崩壊して行く。 平成の大獄の展開はどうなるだろうか。 戦後60年続いた自民党政権の終わりに繋がるだろうか。


権力者となった田原総一朗氏が漂わせる老醜
現代産業情報 2005.10.15


古稀を過ぎてなお、田原総一朗氏が元気だ。
 「朝まで生テレビ」「サンデーモーニング」といったテレビ朝日の番組は今も好調で、月刊誌を中心に執筆活動は旺盛、講演依頼はひっきりなしで、出演、取材、執筆、講演依頼を断るのに苦労しているという。
 ただ、率直な感想として田原氏は老いた。もともと、ジャーナリスト精神にかられて伝えたいことを伝える人ではない。「面白ければいい」「視聴率が大事」というテレビ屋的な発想が根底にあり、その“見せ方”を常に考え、時に怒り、時に引きというパフォーマンスをしつつ、取材相手を挑発、あるいは調子に乗せることで番組を盛り上げてきた。
 テレビもまた商業ジャーナリズムであることを考えれば悪いことではないし、否定してしまえば資本主義という国家のシステムそのものに抗することになるので、意味はない。問題は、左右の論客を猛獣使いよろしく差配、ショーにしてきた田原氏の切れ味が衰えたことだ。「権力者」と化した自分の意見に従う政治家やジャーナリストは認め、そうでない人間は容赦なく打ちのめすか、発言を打ち切って反論の機会を与えない。これはすでに老害の域であり、田原氏の影響力の大きさを考えれば、黙って見過ごせない問題である。
 なぜ田原氏は老いたか——それは、田原氏が権力者としての階段を登っていくことを好み、その上昇志向につきあう番組スタッフやジャーナリストが、田原氏との対決を避け、「お説ごもっとも」と、追従しているからではないか。ダイエー・中内、西武・堤といった、ワンマン経営者が陥ったのと同じ構造であり、それは権力者ゆえの孤独がもたらすものである。
 愛妻家として知られる田原氏だったが、夫人を昨年亡くし、その落胆は傍目にもわかるほどだった。その孤独を埋めるために田原氏は、ますます仕事に打ち込み、ついには責任編集の『オフレコ!』という雑誌まで創刊した。孤独を情報発信に振り替えているわけだが、そうした旺盛な執筆活動を応援しようと出版社が企画、7月、都内ホテルで開かれた「田原総一朗自選集出版パーティー」の出席者に、彼の権力者ぶりが表れている。
 安倍晋三、平沼赳夫、加藤紘一、小沢一郎、大田昭宏、平沢勝栄など与野党のそうそうたるメンバーが集まり、大手出版社幹部、著名作家、ジャーナリストが会場を埋めていた。こうして権力中枢と、それと対峙する側の両方に人脈を持ち、双方が田原氏を恐れ、一方でその孤独を気遣う。こんなポジションに20年近くも座っている田原氏に、驕りが生まれぬわけはなく、その驕りはジャーナリストとしての冴えを失わせた。
 月刊誌『創』の11月号で、田原氏は『話の特集』元編集長の矢崎泰久氏、『WILL』編集長の花田紀凱氏と対談を行なっている。普段は、「ヨイショ」になれた田原氏だが、ひとつ年上の矢崎氏が遠慮なく突っ込むので、思わず発する発言が、田原氏の権力志向と思い上がりぶりを伝えて興味深い。
「私は何人か総理大臣を潰しているんだけど、橋本龍太郎を潰した時には活字では絶対に無理でした」 「僕の番組には、スポンサーがウェイティングサークルにたくさんいる。なぜかと言えば、僕の番組は質が高いからですよ」
 自分に逆らえば、総理大臣も「潰せる」という驕り。逆に、意に沿えば持ち上げるわけで、小泉政権への露骨な肩入れは目に余り、矢崎氏を「あなた共産党?」と挑発したうえで、「小泉さんを支持する」と言い切る。電波は公共のものであるがゆえに、放送法は「不偏不党」を義務付けているが、数字(視聴率)と田原氏の好き嫌いの感情の前では、そんな“建前”など吹っ飛ぶ。
 かといって、頑固一徹を貫き通すわけでもない。3年ほど前に田原氏は、天皇・右翼に関して発言する際、口をすべらせて街宣を含む右翼・民族派の攻撃を受け、悩んでいたことがある。田原氏にとっては勝手の違う世界であり、手打ちを望んだ。結局、大物フィクサーの主催する勉強会で「陳謝」して決着、ところがテレビで、「中国じゃないが、石原慎太郎と街宣右翼を一緒にしている」と発言するなど、反省はしていない。というより、これもよる年波か、右翼・民族派とすったもんだの末、頭を下げたことなど忘れているのだろう。
 筑紫哲也氏の引退が迫っていることではあり、同年代の田原氏も老醜を晒さずに引退したらどうだろうか。時代は既に田原氏を見限っており、“長居”はその“名声”に傷をつけることになりかねない。


朝青龍、母国モンゴル企業経営で巨額損失か
SANSPO 2010.2.5


朝青龍は母国モンゴルでは、一族で「ASAグループ」という企業集団を経営している。高級ホテル、投資銀行、旅行代理店などの経営のほか、国営サーカス施設も買収し、2008年8月にはそこで大相撲のモンゴル巡業も実現させている。

 モンゴル事情通によると、ASAグループは20社前後あり、こうしたファミリー企業を築き上げた原資はやはり日本で稼いだ金。「横綱の年収は2億円といわれるし、テレビCMに何本も出た。そうした金をモンゴルに送って会社を興したり買収したりしたのだろう」(事情通)。

 ただ、ファミリー企業の経営は必ずしも順調ではないようだ。

 「傘下の投資銀行は一昨年秋のリーマンショックで巨額損失を出したうえ、昨年夏にはモンゴルでも政権交代があり、余波で経営がうまくいっていないといううわさがある」(大相撲関係者)

 今後、帰国すれば国会議員を目指す可能性も。08年6月には旭鷲山が野党・民主党から立候補してトップ当選で国会議員になったが、「次の選挙は12年で朝青龍が出るなら人民革命党からでは」と事情通は指摘した。


朝青龍「陰謀にはめられた」説 モンゴルで急浮上の理由
JCAST 2010/2/ 8


2月4日の引退会見で、「しばらく休みたい」といった朝青龍は、翌日からハワイへ。これをまた、取材陣が追い回す。

赤いサンバイザーにサングラス、黒いTシャツ姿で、リムジンにゴルフバッグを積み込んで、いずこかへ去った。これが日曜日の映像で、前夜はカラオケに興じていたという。日曜夜に予定されていた会見も、キャンセルになった。

そのハワイにはTBS外信部の記者がいた。みのもんたが、いいことを聞いた。

「(取材が)1人もいかないで放っておいたら、どうなりましたかね?」 しかし、この記者が全然ダメ。しゃれた答えがかえってくるどころか、「(着いたばかりで)まだ、朝青龍の姿を見ていない」というのだから、会話にならない。みのはそれに、「今後はタレントとしていくんでしょうか?」なんて聞く。そんなこと、外信の記者にわかるわけがない。

スタジオに、元モンゴル国立大学客員教授の宮田修が登場。これで、本人そっちのけで盛り上がった。

「モンゴルでは酒のうえで多少あばれるなどはよくあること。だから現地では、朝青龍は陰謀にはめられた(優勝記録の更新を阻んだ)などといわれている」という。現地の声も、「あんなことで引退することない」といっていた。

みのは「今後の交流は大丈夫?」

宮田は「心配ない。モンゴル力士は沢山いるし……それより、朝の4時5時まで酒飲んでいた人が優勝しちゃうんじゃね」といって、さらに「朝青龍は次のロンドン五輪にモンゴルのレスリングの選手で出れば、金メダルをとれるかもしれない」「へえー」

すでに「ASAグループ」というのを率いていることは知られている。旅行会社、人材派遣会社、レジャー施設、国営サーカスから投資銀行まで買収しているのだと。「国会議員に出れば、120%当選する」と宮田はいう。

すでに国会議員になっている元旭鷲山のダバー・バトバヤルは、ホテルやテレビ局など30社くらいの新興財閥を形成していて、ASAグループはそれに次ぐのだという。

そのバトバヤルは、「(朝青龍は)旧正月(13日)には帰ってくると聞いている」と。大相撲では因縁のある先輩、後輩だが、「人生の横綱になってほしい」と余裕を見せていた。

朝青龍の退職金、特別功労金(多少減額ともいわれる)など合わせると、1億をはるかに超える額になる。宮田は、「懸賞金の積み立てが1億5000円あると聞いてる。モンゴルでは10倍の値打ちがあるから、相当なことができる」

しかし、もし政治家になるんだったら、「まず大学へいって勉強してほしい。みのさん、どこか紹介してやってください」(大笑い)


朝青龍、引退-「相撲に対する悔いはない」
IBTimes 2010年02月05日


大相撲の横綱朝青龍(本名ドルゴルスレン・ダグワドルジ、モンゴル・ウランバートル出身、高砂部屋)は4日、高砂親方と共に都内で記者会見を開き、現役引退を明らかにした。朝青龍は「大変ご迷惑をかけた。責任をもって引退をしました」と語った。

 朝青龍は初場所中の1月、都内で酔って一般人に暴行するという騒ぎを起こした。4日に開かれた日本相撲協会の理事会には、高砂親方と朝青龍が呼ばれ、事情を聴かれたという。各紙報道によると、朝青龍は理事会からも横綱審議委員会からも引退を勧告され、最終的に本人が引退届けを提出し、本人の決断としての引退が受理された。

 朝青龍は会見で、「けじめをつけるのは僕しかいない」と述べ、「相撲に対する悔いはありません」と語った。ただ時折、涙目になる場面も見られた。

 朝青龍は1997年に高知県の明徳義塾高校へ相撲留学し、1999年に現高砂部屋に入門し初土俵を踏んだ。2003年初場所後に横綱に昇進し、スピード出世を達成。優勝回数は歴代3位の25回を記録している。しかし、素行の悪さがたびたび問題視されており、出場停止処分等を受けたこともあった。


モンゴル新大統領が決意表明 就任演説で「汚職根絶へ」
47NEWS 2009/06/18


5月のモンゴル大統領選で現職を破った民主党出身のエルベグドルジ新大統領(46)の就任式が18日、ウランバートルで行われ、新大統領は就任宣誓演説で「汚職根絶へ不退転の決意」を表明した。

 同国が一党独裁の社会主義国から民主化した1990年以降、4人目の大統領で、民主党系は2人目。任期は4年。

 行政の最高責任は首相にあるが、大統領には国会の法案に対する拒否権があり、バヤル首相(人民革命党)と協調して国家的事業の鉱物資源開発などに取り組む。

 新大統領は演説で、政治家・官僚の深刻な腐敗の現状を踏まえ「正義の実現のため、外国の投資家も(わいろを渡さないなど)協力してほしい」と呼び掛けた。

 日本からは自民党の武部勤元幹事長(自民党日本・モンゴル友好促進議員連盟会長)が政府特使として出席。「モンゴルは北東アジアの平和と安定のため重要な国で、交流を政治面から経済面へも積極的に拡大させたい」と話した。


伊藤忠、モンゴルで架空取引 900億円超す
はてなブックマーク 2009年1月28日


伊藤忠商事は28日、モンゴルでの建機取引で発覚した架空取引で、過去8年間に計上した架空の売上高が累計941億円、売上総利益が累計44億円にのぼり、2004年3月期以降の決算を訂正すると発表した。同取引に関係した社員約10人に新たに自宅謹慎などの処分を下した。社内調査によると、08年10月に解雇されたモンゴルでの建機取引担当の元社員は、ロシア企業から仕入れたブルドーザーなどをモンゴルの資源会社に販売する取引を続けていた。実際には2000年度以降の大半の取引で商品の受け渡しは無く、伊藤忠が支払った仕入れ代...


朝青龍将来のモンゴル大統領目指す
日刊スポーツ 2009年1月26日


横綱朝青龍(28=高砂)が「モンゴル大統領」を目指していることが25日、分かった。元特等床山床寿の日向端隆寿氏に構想を明かしたもので、30歳まで現役を続けた後、早ければ2012年の国会議員選に出馬し、大統領選挙で夢を実現させるつもりだ。この日の優勝インタビューではモンゴル語でもあいさつ。復活優勝で第2次黄金時代を築き、母国での人気と知名度をキープして、最終目標の政界進出に勢いづける腹づもりだ。

 涙の復活優勝にの裏側に、朝青龍の「壮大な夢」が秘められていた。場所前に元特等床山床寿の日向端隆寿氏に胸の内を明かしていた。「オレはモンゴルの大統領になりますよ」。日向端氏は「日本国籍を取得して、1度親方になって箔(はく)を付けて、お金も貯めてからがいい」と勧めているが、現段階では大統領選出馬を目指し、モンゴル国籍を貫く意向のようだ。

 会場での優勝インタビューではモンゴル語でも「まだまだ頑張ります」とあいさつした。国技館に応援に駆け付けたモンゴル人、そしてテレビ観戦している母国の大衆に復活を訴えた。国民に愛されなければ大統領にはなれない。近い関係者が言う。「横綱のチンギスハンへの思いはすごいものがある。だからこそ、将来は国のトップに立つ思いも相当強いんです」。

 23回の優勝を誇る横綱でありながら、母国では既に大実業家の一面も持つ。表向きは、親族が経営中だが、銀行も含めた財閥「ASAグループ」の形成に尽力し、既に政界への強い影響力も持っている。昨夏の総選挙では与党の勝利に反する野党支持者が、暴動を起こしたが、朝青龍は与野党双方の首脳と信頼関係を築いているという。

 23度優勝という実績から考えても、日本国籍を取得すれば親方として角界でも地位は築ける。しかし、かつてモンゴル人力士のパイオニア、旭天鵬が日本国籍を取得するや、大半の国民は「国を捨てた」と非難。白鵬が07年に妻紗代子さんと結婚した際も「日本人女性を選んだ」と反発されたという。朝青龍は「最終目標」を見据えて、母国民の感情に配慮して、モンゴル国籍に執着している。

 昨年12月に次兄スミヤバザル氏が首都ウランバートル市議会議員選挙に当選。一報を聞いた朝青龍は「オレも選挙に出ようかな」ともらしていた。近い関係者は「3年後(12年)の総選挙は念頭にあるはず」と話す。本人も「30歳までは現役でやりたい」と話している。政界進出のため現役横綱として人気と知名度をキープし続ける決意。4年ごとで、今年も行われる大統領選挙は立候補者は「国会議員」に限られる。朝青龍の夢は、大統領へとつながる。


日本人墓地(ダンバダルジャ墓地)
モンゴル滞在記 ~モンゴルで過ごした1年間~


第二次世界大戦終了の間際、旧ソ連軍に中国北東部で強制収容されていた日本兵は、シベリアへと抑留されました。
当時、モンゴルは旧ソ連の一国であった為、モンゴルにも日本兵が抑留されていた時期があります。
ここモンゴルで強制労働をさせられ、異国の地で亡くなられた日本人の英霊の御霊は、今でもモンゴルに数箇所ある日本人墓地で眠っています。
中には、ノモハン事件等で亡くなられた御霊も祀られています。
厳寒の地で強制労働に従事させられ、亡くなられた日本兵は835名、氏名が分かっているのは内614名だと言われています。
日本兵が造った建造物は今でもウランバートル市内の残っています。
モンゴルの国会議事堂が例です。
ここダンバダルジャ日本人墓地はウランバートル市内から約10キロほどの場所にあります。
モンゴルを訪れる予定の方は、是非、足を運んでみてください。
今では写真の様に綺麗に整備され、記念碑や霊堂が建てられています。
また、モンゴル人の僧が鍵を持って管理してくれています。
いつ日本へ戻れるかも分からないまま、厳寒の地で強制労働され亡くなられた日本人の方もいるんです。
自分もモンゴル在住中、短期で渡航している時には必ず一度は手を合わせに行っていました。
過去の歴史と事実を忘れない為にも。


大隈重信文書による明治2年旧暦1月1日付の府藩県別人員表
早稲田大学リポジトリ(DSpace@Waseda University)


108万0210人 金沢藩
92万1517人 名古屋藩
81万3886人 静岡藩
77万2354人 鹿児島藩
71万9990人 熊本藩
71万4022人 徳島藩
67万4447人 東京府
55万2671人 山口藩
52万8408人 和歌山藩
51万6866人 高知藩
51万4157人 広島藩
43万5267人 秋田藩
42万7395人 大坂府
42万5762人 佐賀藩
42万1690人 神奈川県
41万8711人 柏崎県
41万5706人 日光県
37万4496人 西京府
37万3065人 鳥取藩
36万6924人 福岡藩
36万4256人 水戸藩
35万8640人 岩鼻県
35万8337人 岡山藩
35万2900人 甲府県
33万1941人 山形県


五輪リュージュ:グルジア選手事故死 練習中、コース外に
毎日新聞 2010年2月13日


バンクーバー五輪の開会式を目前にした12日朝(日本時間13日未明)、山間部の競技会場となるウィスラー・スライディングセンターで行われたリュージュ男子1人乗りの公式練習で、グルジア代表のノダル・クマリタシビリ選手(21)がコース外に投げ出されて死亡した。冬季五輪に参加する選手・関係者の死亡事故は5例目。

 国際オリンピック委員会(IOC)によると、同選手は最終コーナーを曲がったゴール付近でバランスを失い、防護をほどこしていないコース脇の鉄柱にたたきつけられた。今回のコースは直線的でスピードが出やすく、時速160キロ近くに達する世界屈指の高速コース。前日までの公式練習でも制御を失った選手に負傷者が出ていた。

 IOCによれば、事故原因は調査中。競技を続行するかも検討している。この日の開会式では、グルジア選手団は国旗と腕に喪章をつけて行進した。

 ロゲIOC会長 冷静でいることは難しい。心から冥福を祈りたい。


関ヶ原の戦い 島津義弘


慶長5年(西暦1600年9月15日)午後2時、島津義弘率いる300の軍勢が突如怒涛のように東軍数万の只中に突進します。目指すは、敵陣中央突破。隊列を整え一直線に突き進む島津隊、後に島津の退き口と呼ばれる前代未聞の脱出劇です。

その決死の勢いは東軍随一の勇猛さを誇る福島正則の軍勢もひるめます。島津隊はさらに前進、一気に家康の本陣に迫るとその前をかすめ、街道筋めがけて進路を変えます。

「島津を逃してはならない。」家康は追撃を命じます。島津隊に迫る家康の精鋭部隊。その時、疾走する島津隊の中から追手の前に立ちはだかる者が現れます。「すてがまり」と呼ばれる捨て身の戦法で追撃を遅らせようとする義弘の家臣たちでした。義弘に忠義を誓った家臣たちは、一人また一人とその役を買って出ては命を落としてゆきました。

みるみるその数を減らしながら、義弘と島津隊はなおも疾走を続けます。やがて義弘は伊賀を越えて堺の港まで脱出に成功、ようやく船で薩摩にたどり着いた時、義弘に従った軍勢はわずか80人となっていました。



ネイサンの逆売り
Webで学ぶ 情報処理概論


1815年2月、 ナポレオンは流刑地のエルバ島を脱出してフランスに上陸しパリに帰ると再び皇帝になった。 6月、彼はイギリス・オランダ連合軍9万5千と、 プロイセン軍 (ドイツ軍) 12万とが合流しないうちに、 これらを各個撃破することを計画し、 12万4千の兵を率いてベルギーのブリュッセルに向かった。
 そして、 6月16日リニーの戦いでプロイセン軍を敗走させ、 ワーテルロー(Waterloo)で18日、 ウエリントン公率いるイギリス・オランダ連合軍と対戦することになった。
 11時半頃に開始された戦闘は、 総体的に見ればナポレオン軍の有利に展開した。 13時半頃にはイギリス軍の左翼が破られ、 イギリス軍は混乱に陥る。 中央部ではスコットランド竜騎兵がフランス騎兵隊の攻撃で潰走する。 夕刻に至るとナポレオン軍はイギリス軍の中央部を陥れる。 ここで19時頃、 ナポレオンはイギリス軍に最後のとどめを刺すべく、 無敵と云われた親衛隊を投入する。

しかし、 こここで戦況が逆転する。 (まるで源義経の壇ノ浦のように) この親衛隊がイギリス軍近衛部隊によって撃退される。 あたかも、 その時、 敗走していたプロイセン軍が引き返してフランス軍の側面に猛攻をかけてきた。 ここに及んで、 フランス軍は完全に崩壊した。 ナポレオンは再びセントヘレナ島に流される。

 この戦いの勝敗を欧州中は固唾を呑んで見守っていた。 当時、 世界の金融の中心であったロンドンでも、 投資家たちがそうだった。 ナポレオンが勝てば英国債の価格は下落し 、反対にナポレオンが負けると英国債は高騰するから、 誰もが戦いの結果をいち早く知りたかった。
 その時、 ネイサン・ロスチャイルド(Nathan Mayer Rothschild) と云う金融業者が猛然として売りに出た。 彼の4人の兄弟たちはフランクフルト(ドイツ)、 ウイーン(オーストリア)、 ナポリ(イタリア)、 パリ(フランス)に散らばっていたので、 彼は人々に情報通であると見られていた。
 当時は、 まだ無線電信もなく電話もなかった。 イタリアのマルコーニが無線電信を作ったのが1895年。 アメリカのグラハム・ベルが電話を発明したのが1876年である。 60~80年も後である。 しかし、 ネンサンは、 かねてから早馬、 伝書鳩、 高速船などによる情報伝達網を持っているのだと人々に思われていた。
 そこで人々は、 ネイサンはすでにナポレオンが勝ったと云う情報を持っているのだと思った。 「ウエリントンが負けたらしい。 ナポレオンが勝ったらしい」 と人々は囁き合った。

 ネイサンの売りを見て市場は狂乱的な売りになり、 債券価格はとめどもなく下げ続けた。 これを見ていたネイサンは一転して買いに転じた。 下げ続けてタダ同然になっていた債券を買いまくり、 市場に存在する債券の62%までも手にした。 このため、 翌日ナポレオンの敗北が一般に広報されて債券価格が一気に高騰した時、 彼は巨大な差益を手に入れていた。
 これが、 ロックフェラー財閥と並んで世界の金融界を牛耳るロスチャイルド財閥の始まりの神話的物語である。  これは 「ネイサンの逆売り」 と呼ばれた。 ナポレオンが負けて 「買い」 の局面になったのに 「買い」 を行わないで、 先ず 「売り」 を仕掛けたからである。 そして、 この逸話は、 他人より先んじて情報を握ることの大切さを教えるものであると共に、 こうして掴んだ情報を使う場合においても、 単純に使うのではなく、 そこに戦略的工夫を施すことの必要性を示す例とされてきた。

しかし、 へそ曲がりな私は 、本当にそうだったのか知らと思っている。 ネイサンがみずからの情報網を構築していたことを疑っているのではない。 この時も、 英仏海峡を股にかけていた密貿易船の船長たちに情報を運ばせたとする話まであり、 我が国にも旗振松や旗振山があるくらいだから。
 私が疑問に思っているのは、 彼の 「逆売り」 と云われるものについてである。 彼は意図的に戦略的に 「逆売り」 をやったのではなく、 それは結果的に大成功になった怪我の功名みたいなものではなかったかと思うのである。 ワーテルローの戦況の推移を見ると、 最初はナポレオンが勝っていた。 それが夕刻になって最後のところでナポレオンの敗北になった。 だから、 ネイサンは最初は、 ナポレオンが勝つと思って 「売り」 を掛けたのだ。 それが最後に逆になったから、 彼は大慌てで 「買い」 に転じたのである。 ただそれだけのことではなかろうか。 債券取引の詳細な時間的記録が残っていないから断言することは出来ないけれど、 私には一つの 「まぐれ当たり」 のように感じるのである。  とかく、 成功者の物語は、 すべて美しくすべて高貴に脚色され潤色されるのが常であるから。


島津義弘関ヶ原合戦(島津の退き口)
島津義弘.com


慶長3年(1598年)の秀吉死後、義弘は中立的な立場を貫いていたが、この頃の島津家内部では反豊臣的な兄・義久と親豊臣的な義弘の間で家臣団が分裂していた。また、義弘が大坂に留まっていたのに対し、義久は本国の薩摩にいたため、義弘には本国の島津軍を動かす決定権が無く、大坂にあった少数の兵士しか動かせなかった。そんな中、関ヶ原の合戦に際し、義弘を慕う者の大勢が薩摩から自力で駆けつけ、義弘を感動させたというエピソードは有名だ。

慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を征伐するために軍を起こすと(会津征伐)、義弘は徳川家康から援軍要請を受けていたため、手持ちの1500の軍勢を率いて家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。しかし、元忠から家康が義弘に援軍要請したことを聞いていないと入城を拒否されたため、仕方なく西軍に与した(諸説有り:秀吉への降伏の際、秀吉方の使者として交渉にあたった石田三成の取りなしにより、大隈一国と日向の一部が島津領として残った事から義弘は三成に対して深く感謝し、その後も深い交誼があった。関ヶ原の戦いにおいて島津家中において東軍参加を主張するものが主流派であったが、義弘は自身の三成に対する恩義と親交を理由に、西軍に積極的に参加したとも言われており、最初は東軍に参加するつもりで軍を出していたという説は、江戸時代に島津家が徳川将軍家に臣従していくにあたって、創作されたものであるともいわれている)。

大大名の島津家の雄がわずか1500の寡兵しか率いていなかったことに石田三成ら西軍首脳は驚くとともに、義弘の存在を軽視した。このため、三成は美濃墨俣で東軍主力部隊が到来したことに慌てて撤退するとき、義弘の甥・島津豊久の部隊を危うく敵中に孤立させそうになったり、作戦会議の場で、義弘が献策した夜襲策を採用せず、関ヶ原での野戦に決定するなど、義弘が戦意を失うようなことが続き、義弘は関ヶ原の戦いには参加しながらも、戦場で兵を動かそうとはしなかった。三成の家臣・八十島助左衛門が三成の使者として義弘に援軍を要請した際も同じで、自陣を守るのみで戦況を見つめ続けた。

関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続く。しかし午後2時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり、敗走を始めた。その結果、島津軍1500人は退路を遮断され、敵中に孤立することになってしまう。

この時、義弘は後世まで語り継がれることになる驚くべき行動に打って出る。八方を東軍に囲まれた絶体絶命のピンチを前に、敵の大軍の中を中央突破することを決意したのだ。まもなく島津軍は先陣を甥の島津豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣形で敵中への突撃を開始した。

この時、島津軍は主君である義弘を守るため、捨て奸(すてがまり)と言われる何人かが留まって戦い敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦い方をした。結果、豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが戦死し、多くの将兵も犠牲になったが、東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身は奇跡ともいえる敵中突破に成功した。

義弘は摂津住吉に逃れていた妻を救出し、海路から薩摩に逃れたという。生きて薩摩に戻ったのは、最初の1500人のうちわずか数十名だったといわれる。義弘率いる島津軍の行動は、敵である東軍からも賞賛されたという。

帰国後、義弘は家康に恭順の意を示すため、桜島に蟄居。その後、井伊直政や本多正信による徳川家康への取り成しにより慶長7年(1602年)に赦免された。


オクラホマで起こった恐怖の大事件
アレフ・レポートNo.2


夏休みの図書館で高校生は肩身が狭い。どうしたって、受験勉強用に席を占領する邪魔者扱いだ。でも、今日の僕たちはちゃんと本に用事がある。どこに関係の本があるのかすらわからなかったので、手紙に書いてあることを手がかりに、新聞の縮刷版で調べることにした。  記事自体はすぐに見つかった。結構、アメリカでは騒がれた事件のようだ。わかったところをまとめてみると、こういうことになる。

オクラホマ州はアメリカの中部にある州で、州都オクラホマ・シティは1889年の建設。州として認められたのは今世紀に入ってからの1904年で、46番目の州だというから、ずいぶん新しいということになる。テキサスの北、カンザスの南。純一の好きな西部劇の舞台にもなりそうなところだ。オクラホマ・シティから南へは、あのケネディ大統領が暗殺されたダラスへまっすぐつながっている。そこからさらに南に行けば、ウェイコ、つまりFBIと銃撃戦をやってつぶされた宗教団体ブランチ・デヴィディアンの本拠地に至る。

 さて、このオクラホマ・シティで事件が起こったのは、95年4月19日の朝だ。ちょうど日本ではオウム騒動真っ盛りのころ。その中心部にある連邦ビルが事件の舞台となった。

連邦ビルというのは、州ではなく合衆国(連邦政府)の機関が集まったところだ。日本でいえば「合同庁舎」といったところだろうか。その連邦ビルの前に、「ライダー」と書かれたトラックが止まっていた。ライダーとは大型引っ越しトラックのレンタル会社だ。現地時間で午前9時4分、そのトラックが、突然、大爆発を起こしたのだ。

 9階建ての連邦ビルは、瞬時にして破壊された。強化鉄筋コンクリートのビルが、その前半分を完全に失っていた。もちろん、その中にいた連邦機関職員や一般市民は無差別に吹き飛んでいる。最終的に、死者は168人、負傷者は600人に達した。

 救助活動は、遅々として進まない。オクラホマだけでは手が足りず、西はロサンゼルス、東は東海岸メリーランド州から、つまりアメリカ全土からレスキュー隊が駆けつけた。さらに、300人のFEMA(連邦緊急事態管理庁)なども救援活動に当たった。

 テレビでは、亡くなった幼児の映像がアップにされた。犯人は「子供殺し」として、大々的に非難された。そして、クリントン大統領が激しく語る。 「こいつらは人殺しだ。人殺しは人殺しらしく扱われるだろう」

 この日は、ウェイコで起こったブランチ・デヴィディアン事件からちょうど2周年。ブランチ・デヴィディアンの残党のしわざかともささやかれたが、犯人として逮捕されたのは、ティモシー・マクヴェイとテリー・ニコルスという、「ミシガン・ミリシャ」の一員だった。

 そのマクヴェイは、97年8月14日(米時間)に、単独犯として死刑判決を受けた。しかし、日本ではほとんど、これに関する報道はなされていない。

 これが、連邦ビル爆破事件に関する情報だ。


次女挙式にフジモリ氏参列 収監先の警察施設で
47News 2010/02/28


現職当時の公金横領事件などで公判中のペルー元大統領、フジモリ被告(71)の次女サチさん(30)が27日、被告が収監されている首都リマの国家警察施設内で結婚式を挙げ、フジモリ被告も参列した。RPPラジオなどが伝えた。

 野党や反フジモリ派からは「特別扱いだ」との批判が出たが、ガルシア政権は「人道的措置」として異例の許可を出した。

 新郎はドイツ人のパイロット。結婚式は施設内の礼拝堂で行われ、双方の家族ら60人が列席。スーツ姿の被告はウエディングドレスを着たサチさんをエスコートした。この後、リマ市内で450人を集めてパーティーが開かれたが、被告は出席を許されなかった。

 フジモリ被告は極左ゲリラ掃討作戦中に起きた人権侵害事件の最終審で今年1月、殺人罪などで禁固25年の実刑判決を言い渡された。


フジモリ元大統領身柄引き渡し請求書提出についての声明
アムネスティ・インターナショナル152G 2003年7月31日


7月31日アルベルト・フジモリ元ペルー大統領への身柄引き渡し請求書、ペルー政府より日本政府に提出

◆日本政府は、身柄引き渡し請求に応じ、適切な裁きを与えるべく、   フジモリ氏をペルーに引き渡すべきである

◆9月、ペルーより被害者遺族が来日、日弁連・人権擁護委員会に人権救済申立を提出

◆概要

 7月31日、アルベルト・フジモリ元ペルー大統領に対する身柄引渡請求書が、在日ペルー大使より日本政府に提出された。身柄引渡請求は、バリオスアルトス事件(1991年11月3日)・ラカントゥタ事件(1992年7月18日)の二つの重大人権侵害事件に基づくものであり、前者はパーティーの最中に軍が突入して銃を乱射し無辜の市民15人を射殺して4名に重傷を負わせた事件、後者は大学に軍が押し入り学生9名と教授1名を拉致し殺害した事件である。これらはフジモリ政権時代の多数の人権侵害事件の代表的事例であり、既にこの事件に関し、本年3月インターポールを通じて国際逮捕手配書が発行されている。フジモリ氏は1990年に政権についた後、軍を権力基盤とし、テロ撲滅の名の下に上記のような事件を多数起こしたのみならず、恩赦法の制定により加害者を免責し、ペルー国内での責任追及の道を閉ざした。

 両事件の被害者および遺族らは、ある日突然生命・家族を奪われ、そして加害者の責任追及の道をも奪われた。さらには、2000年11月、一国の大統領まで務めた人物が自己の政権時代の責任を追及されるや、自身は日本人であるとして日本に逃げ込み、現在に至っても、その責任追及をなしえていない。10年以上もの間、被害者らは、真相究明・責任の明確化を求めて声を上げ続けている。

 フジモリ氏に対しては現在、ペルー最高裁で両事件を含む5件の予審(特別殺人、強制失踪、公金横領、職務放棄等)が開始され、さらに20数件にのぼる捜査が進められている。フジモリ政権の犯罪の主要な責任者は、フジモリ氏を除いてすでにペルーで拘束され、司法の裁きを受けている。フジモリ氏が自らを無実であると主張するならば、裁判の場で明らかにすべきである。

 フジモリ政権は、検察や裁判官を使って政敵に対して冤罪を作り上げ、司法を迫害の道具とした。しかし幸いなことにフジモリ氏失脚後、司法府は独立性を回復した。ペルーの司法府には様々な問題がいまなお残っているが、適正な法手続の下に裁判を執り行う態勢は整っていると言ってよい。

◆日本政府の立場

 日本政府は、2000年11月の氏来日直後に、氏が日本国籍をも有していた旨確認したと発表した。そして、「フジモリ氏に対する引渡請求書が来た際、引き渡すのか」という、2001年の国会での質問主意書に対し、「仮定の話なので答えられない」と答弁した。その後、日本政府は、引渡請求が正式に来た際の対応について明確な答えは示していないが、国内法の手続によれば日本国民は引き渡せないという立場を暗に示唆している。また、本年3月にインターポールより国際逮捕手配書が発布された際も、日本政府・外務省の高島肇久(はつひさ)外務報道官は、3月27日、「インターポールの手配書は、日本の裁判所が発する逮捕状にあたらない」「日本の法制によれば逮捕は日本の裁判所が発する逮捕状によってのみなされる」とし、引渡のための身柄拘束をしない旨発表している。

 以上の如く、この問題について曖昧かつ消極的姿勢を取り続けてきた日本政府であるが、正式に引き渡し請求書がペルー政府から提出された今日にあっては、これまでのような態度であり続けることは許されず、真摯な対応が求められる。

◆法的問題

 フジモリ氏はペルー国籍を有すると共に日本国籍を有すると確認されており、逃亡犯罪人引渡法によれば、自国民は引き渡さないとの原則が定められている(自国民不引渡原則)。

 しかし仮に、日本政府がフジモリ氏の日本国籍が確認されていることをもって今回の引渡請求を拒むとするならば、その判断は形式にとらわれ、物事の実態から目をそむけるものであり、かつ、国際法の流れにも反するものであると批判されねばならない。国際法においては、国籍は、「真正かつ実効的」でなければ対抗力を持たないとする見解が支配的である(実効的国籍原則・ノッテボーム事件ICJ判決(国際司法裁判所・1955年))ペルーの大統領まで務め、今なお2006年のペルー大統領選出馬を目ざして政治活動を続けているフジモリ氏において、実効的国籍がペルー国籍であることは誰の目から見ても明らかである。現在、ペルー政府は、日本政府が氏の身柄引渡を認めない場合のICJへの提訴も検討している。

◆国際社会からよせられる高い注目

 日本では、被害者遺族の悲痛な叫びに耳を傾けることなく、フジモリ氏に対する訴追が専らペルー現政権の政治的思惑によるかのような見方が流布している。また、ペルー国内の一部政治家の間には、選挙民に対するポーズとしてフジモリ氏の引渡を声高に求める向きがないではない。しかし、上記の如く重大な人権侵害の真の意味が、政争への注目により失われてはならない。また、フジモリ氏を裁くのは政治家ではなく司法府であり、そこでは公正な裁判が期待できることはすでに指摘した通りである。

 本件は、高い国際的注目の下にある。ドイツ・イタリア・コスタリカ・ニュージーランド等10数カ国は、フジモリ氏が自国の土を踏んだならば国際逮捕手配書に従って身柄を拘束する意思を表明し、ラテンアメリカ議会(中南米の国会の連合組織)も、日本にフジモリ氏引渡を要請する決議を採択している。また、アムネスティ・インターナショナルやヒューマン・ライツ・ウォッチをはじめとする国際人権団体も、ペルーの国内人権団体も、一致してフジモリ氏の引渡を日本に要求している。つまり日本以外では、フジモリ氏が訴追されるべきであると、広く認識されているのである。

 国際社会では国際刑事裁判所が設立され、人権侵害の加害者の免責を許さないというコンセンサスができつつある。過去の人権侵害の免責は、将来の人権侵害につながるからである。1999年に日本が批准した拷問等禁止条約によれば、拷問の加害者については、その身柄を本国へ引渡さないのであれば、加害者の現在国で裁くか、もしくは、同人を第三国へ引き渡さねばならないとされる。

◆被害者来日と人権救済申し立て

 「フジモリ氏に裁きを!日本ネットワーク」は、国際キャンペーンに連動し、フジモリ氏身柄引渡キャンペーンを行っている。昨年8月および本年5月には、調査団がペルーを訪れ、現場検証、被害者からの聞き取り等を行った。ペルーにおいて調査団は、被害者はもちろん、元外務大臣・与野党国会議員・真実和解委員会委員をはじめ多くの人々に歓迎され、会合を求められ、その懸命さに日本との差異を肌身で感じ、本件の重要性を切に認識した。

 本年9月、ペルーよりラカントゥタ事件の被害者および現地NGO活動家が来日する。被害者らは強くフジモリ氏の引渡を求めており、日本弁護士連合会人権擁護委員会への人権救済申し立てを行う。

 被害者らは、この申し立てにより、「日本政府はフジモリ氏に対する逃亡犯罪人引渡手続を開始すべきである」ないし「それが不可能である場合には、日本国内での刑事責任追及を開始すべきである」との日本政府に対する勧告を日弁連に求める。 


2チャンネルがつながりません・・・
OKWave 2010-03-02


韓国によりサイバーテロでサーバーがダウンされているというのですが、昨日も今日も見れないのはつらいです。韓国では、サイバーテロの仕方も詳しく書かれ、詳しくない人間でも攻撃できるように指示しているそうです。以前もサイバーテロをして2チャンネルをダウンしたそうですが、今、韓国がサイバーテロをかけているのは2チャンネルだけなのでしょうか?また、どうしてですか?

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No.1の方が書かれているようにスケート関連です。 もっと詳しく説明すると、2ちゃんねるで、バンクーバーオリンピックのフィギュアスケートの 競技の結果でキム・ヨナが金メダルを獲得しましたが、「点数がよすぎる」とか「採点がおかしい」とか 2ちゃんねるでトピックがたち、それを見た韓国人が怒ってサイバーテロを仕掛けたようです。 まあ、どっちもどっちですね。


仏大統領、「ユーロ圏国家、必要な時にギリシアに支援」
中国国際放送局 2010-03-08


フランスのサルコジ大統領が7日、「ギリシアを目下の債務危機から脱出させるため、ユーロ圏国家は必要な時にギリシアに支援を提供する」と述べました。

 サルコジ大統領は当日、パリを訪れたギリシアのヨルギオス・パパンドレウ首相と会談した後の記者会見で「ギリシアが援助を必要とすれば、ユーロ圏は支援の手を伸ばす。ただ、今のところ、ギリシアは資金援助を必要としていない」とした上で、「ギリシアの債務危機に対し、ユーロ圏諸国は対応措置を検討している。これらの措置にはギリシアに政治的支援を提供するだけでなく、全面的な支援を提供する内容もある」と述べました。

 パパンドレウ首相は「近ごろ、多くのユーロ圏国家がギリシアに政治的支援を示している。ギリシアはユーロ圏内で債務危機解決の方法を求めているので、国際通貨基金の援助はまだ求めていない」と語りました。


バンクーバの聖火台
OKWave 2010-02-16


バンクーバの聖火台

バンクーバの聖火台 開会式のときは室内でした(トラブルありましたが。。。) 競技開催中は外で灯るらしいのですが、 って事はバンクーバの聖火台は2つあるということでしょうか? 機械仕掛けの聖火台を室内に造ってまで見事に?失敗し、わざわざ聖火台を外に灯すのでしょうか?

何か【聖火】の意図がよく理解できない開会式のように思えたのでのですが・・・

どう解釈すればいいのでしょうか??

--回答----------------------------

>バンクーバの聖火台は2つあるということでしょうか? はい、そうです。

開会式では、最終聖火ランナーが5人登場しました。 その内、4人が屋内の聖火台に点火し(1人はご指摘の通り、トラブルで点火出来ませんでしたが。)、 残りの1人が屋外に出て行きました。 そしてこの1人が開会式の後で、屋外にある聖火台に点火しています。

どうしてこうなったかというと、オリンピック憲章では、 「オリンピック期間中は、聖火を市民の見える位置で燃やし続けなければいけない。」 としてあるからです。

今回の開会式は屋内で行われたため、聖火台も屋内に置かれました。 しかし、聖火台が屋内にあったのでは開会式が終わった後は市民が見れなくなってしまいます。 そのために、開会式用の聖火台の他に、市民がいつでも見れるようにするための聖火台を造ったという事です。


バンクーバーオリンピックのロゴ(マーク)が「京」という文字に見えるのは私だけ
Yahoo 知恵袋 2010/2/16


バンクーバーオリンピックのロゴ(マーク)が「京」という文字に見えるのは私だけでしょうか? 皆さんは見えませんか?
ベストアンサーに選ばれた回答

確かに見えます!!

が、

あれは「イヌクシュク」という、イヌイットの文化が元になっています。


オリンピックのロゴ
JHC ろんどんぶろぐ


2012年開催ロンドンオリンピックの公式ロゴ、みなさんはもうご覧になりましたか?

ウルフ・オリンズ社デザインの現代的(革新的という説あり)な作品ですが、これが超ブーイング状態
子供の落書きだの、ロンドンのイメージダウンだの・・・ロンドン市長も自分なら絶対に選ばないデザインと言い切っています。
ロンドンで開催されるのに市長には発言権はなかったのね。
きわめつけは、このロゴの動画バージョンはてんかんの起因になるからとデザイン変更の要請も。これはロゴをフラッシュさせるからであって、デザインが直接的原因ではないと思うのですが・・・

アンケート調査によれば、ロゴを賞賛する人はわずか7%で、67%の人がゴミと酷評しています。
ウルフ・オリンズ社は東京メトロのロゴデザインも手掛けた有名企画コンサルティング会社。近年、同社によるロゴを使用することが企業のステータスにもなっています。日本の某広告代理店も業務提携していますよね。
公募で選ばれたものならここまで騒がれないものの、このロゴには40万ポンド(うひゃ~っ!実に9000万円!!!)が費やされている為、特にその価値が問われているのでしょう。オリンピックの影響から住民税は上がる、罰金徴収目当ての駐車禁止取締まりは厳しくなるで市民の不満が高まる中、大切な資金が浪費されていると考える人は少なくないと思います。 夕刊紙では400ポンドの賞金を賭け、少額でも立派なロゴができると一般公募を始めたほど。
毎日、一般から寄せられたデザインが数々掲載されるのですが、それらの中に今回の公式ロゴを置くと・・・・・なぜかインパクトがあるのです。
これがプロの成せる技なのか、単に斬新なだけなのか・・・
確かに従来のものは五輪マークとなんらかのデザインを並べた、いずれもどこか似通ったもの。

若い世代に馴染むことを意識したこのデザイン、みなさんの目にはどう映りますか?

既にブックメーカーでは、今年中にロゴが変更されることに10倍の配当がつけられています。
変更への署名運動も盛んに行われており、今後の動向が気になりますね。
また、公式ロゴではありませんが、自身のロンドンオリンピックに対するイメージをデザイン化したい方は、以下の公式サイトで募集しています。
投稿されたデザインも数多く掲載されていて楽しいですよ。
アートに自信のある貴方、自作デザインを公式サイトに掲載してみませんか。

http://www.london2012.com/joinin/create/

ロンドンオリンピックまで、あと5年1ヶ月と18日************


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