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武田鉄矢の誕生日と江戸城の無血開城

武田鉄矢は非常に珍しい日に生まれている。誕生日は1949年4月11日旧暦3月13日)だ。
武田鉄矢の誕生日は江戸城の無血開城に関して二重にめでたい日だ。
江戸城開城に関して 西郷隆盛と勝海舟が江戸で会見したのが明治元年3月13日(グレゴリオ暦1868年4月5日)。
そして、実際に官軍が江戸城を無血開城するのは、明治元年4月11日(グレゴリオ暦1868年5月3日)だった。
日本政府(大本営・マスコミ)が武田鉄矢をかわいがる理由はここにある。


2010年冬季五輪ロゴに賛否両論
メイプルタウン 2005年4月25日


23日夜に発表された2010年冬季五輪のロゴについて賛否両論があがっている。選ばれたロゴは地元のアーティスト、エレナ・リベラ・マクグレガーさんの作品で、イヌイットが道標として使ってきた細長い石を積み上げててつくるイヌクシュク―イングリッシュベイのシーウォールに建つ人の形の像をモチーフとするロゴで、イヌイットの言葉で「友達」を表す「イラナーク」と呼ばれる作品。組織委員会は、同五輪の精神にピッタリであると絶賛するほか、賛成派は、独創的で幸福、人間、歓迎を表しているところが良いとする。

一方、このロゴは、「シー・トゥー・スカイ」に何の関連もないため秀作ではない、色が多すぎて、何を言いたいかわからないなどの批判がある。皆を納得させるには、やはりメープルリーフが無難?


週刊現代の創刊号
窮々自適 2009年1月23日


週刊現代の創刊号(昭和34(1959)年4月12日号)、表紙と裏表紙です。



前に紹介した週刊文春の創刊号とほぼ同じ時期の発行ですから、記事のメインも同じ、皇太子御成婚です。表紙のデザインは、今の若い人は、これは何だと思うかもしれませんが、当時はみんなこれでわかりました。「テニスコートの恋」です。でももうちょっとなんとかならないかという感じです。あのころはこれが斬新だったのでしょうか。

 これが目次の見開き。



週刊現代も週刊文春や週刊新潮と同じく、現在のようなケバケバしいタイトルはなく、全体におとなしめですが、御成婚の記事の中に、こんな箇所もありました。



おめでたに背をむける人々、左の日教組、総評。右は右で「皇太子と粉屋の娘の恋愛」が気に入らない。小学五年生のわたしはそんな話は知りませんでした。

 それから、おおこれは、という記事があります。目次でお気づきでしょう。これ、相撲の八百長疑惑です。



週刊現代は、八百長疑惑をめぐって現在も相撲協会と激しく対立していますが、創刊のときからこれをやっていたのです。今年は2009年だから、なんと五十年前から。すごいねばりというか、執拗というか…  それにしても出てくる名前が、栃錦、若乃花(先々代)、朝汐(先代)…とはなつかしい。

 芸能記事は、石原裕次郎に北原三枝、黒い稲妻トニー・ザイラー…  広告のトヨペットの形がなんとも言えません。

グラビアにはこんな写真も。

このころ日本は、まだ、豊かな国ではありませんでした。アジアの片隅の小さな国。「三丁目の夕日」の時代です。


週刊文春の創刊号
窮々自適 2008年11月19日


週刊新潮の次は、やはり週刊文春の創刊号です。昭和三十四(1959)年四月二十日号。四十九年前になります。

この年の四月十日が皇太子御成婚。わたしは小学五年生でした。いわゆる「ミッチー・ブーム」で、同級生の女の子たちはみんなヘア・バンドをしていました。男の子にはなんとなく、のりきれない話題でしたが、ともかくブームがすごかったのを覚えています。  創刊は四月二十日号となっていますが、十日以前に発売されたものか、記事の内容は御成婚前のものです。これが目次。

記事の中では、まだ結婚前なので「美智子さん」と呼ばれています。結婚後は「美智子妃殿下」と呼ばれていたと思うのですが、今の皇太子妃は「雅子様」と呼ばれています。これはいつから呼び方が変わったのでしょうか。

 高島俊男が、「Web草思」の「新お言葉ですが…」に「選ばなかった道」と題する文章を書いています。長くなりますが引用します。(たしか『お言葉ですが… 第12巻』にも収録されたと思います。)

 (注:送られてきた讀賣新聞「編集手帳」の記事の)その二篇のうちの一つに、皇后の歌を引用してあった。前後をふくめてしもに引きます。

〈誰にも人生の岐路で選んだ道があり、選ばなかった道がある。皇后陛下のお歌を思い出す。「かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ」。選ばなかった分かれ道の片方には別の人生があり、行方は誰も知らない。〉

 この歌には心を打たれた。  はじめて見た歌だから、もとより、いつどういう折につくった歌なのか知らない。あるいは歌会始に「道」という題が出た年があって、その時の作なのかもしれない。  心を打たれたことはいくつもある。  まず、「こんな歌をつくっていいのか?」というおどろき。  (中略)  皇后のほうは、岐路があった。その時に、たいがいの娘さんなら忌避したにちがいないほう——山手線に乗ることもスーパーマーケットへ買物に行くこともできなくなるほうを選んだ。 あの時に、ふつうの道のほうを選んでいたらどうだったろう。中央官庁につとめるエリートと結婚するか、大会社の社員と結婚するか、どっちにしても、時には学生のころからの友だちとおしゃべりしながら銀座をあるくくらいのことはできたろう。  わたしが心を打たれたのは、第一にその大胆であったが、もう一つ、この歌から感じられる強い悔いの念である。  あんなに美しかった人が、泣きそうな顔の、猫背の——これは身長の点でも天皇につきしたがう形をつくれ、と役人に要求されてのことだろう——老女になった。その悔いが、おそらく半世紀にわたって心身を苦しめてきたのであろうことがうかがわれる。 (中略)  図書館で話をしたら、何人もの人から、あのかたは山歩きがすきだからこれはハイキングの歌かもしれない。すくなくとも表むきはそういう際のことをよんだ歌だということになっているのだろう。あの時右がわの道をおりたが、もし左がわへおりていたらどんな景色のところへ出ただろう、というふうな——。それなら宮内庁の役人云々は問題にならない。  そうか。なるほどねえ。ぼくは自分の人生を悔いてばかりいるものだから、つい他人の歌まで自分にひきつけて受けとってしまったんだねえ。そうか。ハイキングの歌の可能性もあったか。考えもしなかったなあ。どうもありがとう、とお礼を申したことでありました。

 「分去れの道(わかされ-)というのは、分かれ道のことで、固有名詞としては、軽井沢町追分の中山道と北国街道との分岐点を言い、近くには「分去れの碑」もあるそうです。軽井沢と聞くとテニスを思い出します。  高島は、最後にハイキングの歌かもしれないと結んでいますが、やはりこれははじめの解釈を想起せざるをえません。  週刊文春の創刊号にも、こんなグラビアがあります。

あのころの新聞にはこんな写真がいっぱい載って、子供心にきれいな人だなあと思ったことを覚えています。あれから三十年たって昭和が平成になり、それからさらに二十年、五十年近い月日が過ぎました。  司馬遼太郎の『台湾紀行(街道を行く40)(朝日文庫、1997)』には、「南の俳人たち」として台湾人の俳句が紹介されていますが、その中にはこんな句があります。

平成の皇后陛下お夏痩せ  董昭輝

 この句には、とくにやつれたという感じはないのですが、御成婚時を思うと、時の移り変わり感じさせます。

 もう一度、歌を読みましょう。

かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ

 わたしにも過去を振り返って「あのときに…」と思うことはありますから、歳をとれば誰にでもある感慨と言えば言えるのでしょうが、なにかしら重いものを感じてしまいます。


ブランチ・ダビディアン事件
MEDIAGUN DATABASE


1993年、アメリカ・テキサス州ウェイコで起きた、宗教団体ブランチ ダビディアン(Brunch Davidian)による武装立て籠もり、および集団自殺事件。ただし、『自殺』という見方には異議・疑問も呈されている。

 元々のブランチ・ダビディアンは、いわゆる『ヨハネの黙示録』に基づく終末思想にとらわれながらも、比較的穏健・小規模な宗教団体だったが、1990年、激しい跡目争いの後にバーノン・ハウエルが新教祖の座に着くと、次第にきな臭い空気が漂い始める。彼は名をユダヤの英雄にちなんだ『デビッド・コレシュ(David Koresh)*1』に改め、自らを『7つの封印(Seven Seals)を解放できる唯一の救世主』と称して、カルト的な終末論と個人崇拝、選民思想をエスカレートさせていく。その教義によれば、ブランチ・ダビディアンの信者達こそが、最終戦争の後に生き残ることを神に認められた『選ばれし民』と位置づけられていた。

 奇妙なカリスマで信者を増やす一方、コレシュは最終戦争に備えて教団の武装化を急速に進めていく。大量の銃火器の不法取引(下記参照)、またカルト教団にありがちな信者への虐待、女性信者・少女を性の食い物にするなどの問題ある行動が外部にも伝わりはじめ、ダビディアンは次第にマスコミや司法当局にマークされるようになる。一方でコレシュは、最終戦争の際、ダビディアンはバビロニア人達の軍隊に攻撃されるだろうという、予言とも妄想ともつかない警告を信者達に繰り返し吹き込んでいった。

 緊張は徐々に高まり、ついに1993年2月28日、武器の不法所持の容疑で、ATF(アルコール・タバコ・火器局)が強制捜査に乗り出す。武装した捜査員100名がダビディアンへの突入を試みたが、実はこの時、事前に情報が漏れていたため奇襲にならなかった。なんと、『決定的瞬間』をとらえようと、TV局がカメラを持って待ちかまえているような有様だった。ついに『バビロニア人の軍隊』が、連邦捜査官に姿を変えて攻め込んできたと思いこんだダビディアンの信者達は、激しく応戦。この最初の突入で、ATFの捜査官4名が死亡、ダビディアン側にも6名の死者が出た。  この時、屋根に上って突入の機会をうかがっていたATFの武装捜査員が、屋根越しに多数の銃弾を受けてのたうち回る様がTVで放映され、全米に衝撃を与えた。

 最初の突入失敗の後、捜査権限はFBIに委譲され、ダビディアンとのにらみ合いが始まった。しかし、『終末』に備えて軍隊並み武器弾薬と1年分以上の食糧を備蓄していたダビディアンは、長期の籠城でも降伏の気配を見せない。そのうちに周囲に『マスコミ村』ができて、教祖コレシュのインタビューがTVで繰り返し放送、しまいには野次馬目当てに屋台を出したり望遠鏡を据え付ける者まで現れるといった異常事態の中、膠着状態はなんと51日間も続いた。

 これ以上の交渉は無意味と判断した司法長官ジャネット・リノは、ついに再度の強行策を決意。4月19日、FBIは19台の戦車、装甲車、武装ヘリを前面に立てて突入を試みた。大量の催涙弾でいぶり出せば、教祖や信者達もたまらず外に飛び出してくるだろう―――。それがFBIの読みだった。

 しかし、これが完全に裏目に出た。信者達は予想外に頑迷な抵抗を続け、なかなか外に出ようとしない(ガスマスクを着用していたとの話もある)。そうするうちに建物の一角から出火、木造の教団本部は瞬く間に炎に包まれた。それでもほとんどの者が脱出しようせず、燃え落ちる教団と運命をともにしてしまったのである。

 この出火の原因については、実は明らかになっていない。当初は信者達の集団自殺、あるいは信者が『聖なる炎』を放って戦車を追い払おうとしたと言われていたが、突入した装甲車がランタンやプロパンガスのボンベを破裂させた、または可燃性の催涙ガスにFBI側の銃火が飛んで引火したという説も有力である。

 原因はどうあれ、大勢が業火の中で絶命したことには変わりない。損傷が激しく遺体の確認は困難を極めたが、最終的にはコレシュを含む81名が死亡したとされている。うち25名は子供。生存者はわずか9名だった。

 当然のごとく、司法当局は失敗の責任を追及・検証された。FBIはそれまでの交渉経過から、コレシュの不遜な態度は『こけおどし』で、強行策に出ても最悪の事態(集団自殺)を選択する度胸はない、またインタビューなどで再三投降をほのめかしながら結局反古にしていることから、降伏の可能性もないと判断していた。

 しかし、実はFBIの行動科学課の分析官の一人は、コレシュの独善的で激高しやすい性格から、強行策は裏目に出る可能性が高く、交渉を重ねて妥協を引き出すべきと進言していた。また、コレシュが4月14日付でFBIに出した『刑務所での布教を認めてもらえれば降伏する』との手紙が、司法長官に提出されなかった(事故か故意かは不明)ことも、後に明らかとなった。

 結局、責を問われてFBI長官セッションズは辞任。司法長官リノも辞表を提出したが、クリントン大統領は「罪を最も負うべきは教祖コレシュだ」としてこれを却下した。そして人々は、狂信的なカルト集団、重武装の立て籠もり事件への対応の難しさを、改めて思い知らされることとなった。

 この事件がアメリカに与えた衝撃は大きく、映画『沈黙の陰謀』など、メディア作品にもしばしば現場となった『ウェイコ』の名が登場する。

 しかし、悲劇はこれで終わらなかった。

 事件後、アメリカ国内の保守的・右翼的勢力を中心に、この事件を『信仰・武装(自衛)の権利に対する、連邦政府の不当な弾圧』ととらえる空気が広がっていったのである。そして、増幅した連邦政府への憎悪は、事件からちょうど2年後の1995年4月19日、死者168名、負傷者500名以上という大惨事『オクラホマ連邦政府ビル爆破事件(オクラホマ・ボマー事件)』として噴出することとなる(奇しくも4月19日とは、アメリカ独立戦争の開戦日でもある)。

 そして、ブランチ・ダビディアンは現在もなお存続し、活動を続けている。


始皇帝も驚く“日本のハリウッド” 恐るべし!!太秦
産経ニュース 2010.4.17


右京区太秦にある大酒(おおさけ)神社の鳥居前。ここで、右に見える木製の由緒書に書かれたご祭神の名前をよーく見てほしい。なんと中国史上初めて皇帝と称した「秦始皇帝」の名前が見えるのには恐れ入った。

 大酒神社はかつて広隆寺の鎮守として寺の境内にあったものの、明治時代の廃仏毀(棄)釈の影響で今は寺の脇に。嵐電の太秦広隆寺駅から映画村に向かう途中なので多くの観光客が神社の横を通っているわけだが、神社の存在に気づかない人も多い。

 そういえば、不定期に行われる、不思議な面をかぶったマダラ神が牛にまたがって練り歩く京都三大奇祭祭のひとつ、広隆寺の「牛祭り」もかつては大酒神社の祭礼だった。

 太秦というと、国宝第1号の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像で有名な広隆寺などに代表されるように、平安京遷都以前から秦氏の本拠地として知られる。

 その秦氏の祖先で、養蚕と機織りの技術を伝えた弓月君(ゆづきのきみ)が秦始皇帝の子孫と主張していたということもかかわっていると思われる。

 この神社から帷子(かたびら)ノ辻に向かって歩くこと約10分のところに秦氏の墓とされる「蛇塚(へびづか)古墳」がある。6世紀末から7世紀初めごろに築造された前方後円墳で全長は75メートルとされている。

 「日本のハリウッド」ともいわれる太秦にふさわしく、松竹の撮影所の裏、住宅に囲まれるかたちで巨大で荒々しい岩がいくつも積み上げられた石室が残る。その規模は奈良・石舞台古墳に匹敵するといい、当時の権力の強大さがしのばれる。

 太秦周辺には市内中心部や東山とはひと味違った歴史が楽しめる。変わった地名も多い。ある休日、小学6年生の娘から「なぜ『太秦』を『うずまさ』って読むの?」って尋ねられ、考え込んでしまった。

 京都検定テキストには秦氏が朝廷に献上する絹をうずたかく積んだとか、絹糸が巴うずの形をしていたとかいった説が紹介されていた。その辺の内容は頭にはあったが、字と読み方が一致しない。要するに子供に説明しづらい。太秦は大人泣かせの所でもある。


【サミット】母子保健対策に4500億円 「ムスコカ・イニシアチブ」表明
産経ニュース 2010.6.26


カナダ・トロント郊外のムスコカで開かれている主要8カ国(G8)のサミット(首脳会議)で、議長国カナダのハーパー首相は25日、開発途上国の新生児や妊婦の死亡率低下を目的に母子保健対策を強化する「ムスコカ・イニシアチブ」を表明した。8カ国で今後5年間に総額50億ドル(4500億円)を支援し、日本もこのうち5億ドルの支援を表明した。

 妊産婦、新生児、幼児の高い死亡率はサハラ以南のアフリカや南アジア諸国の大きな課題として、世界銀行が新たな支援策の必要性を訴えてきた。議長国カナダの主導で、G8にアフリカ・中南米の開発途上国9カ国を加えた拡大会合で、母子保健対策に一致して取り組む姿勢を確認した。

菅直人首相は「母子保健の最大の障害は多くの妊産婦が適切な治療前に死亡することだ。日本は産前産後と切れ目ない治療を重点的に行っている」と述べ、支援を表明した。


[社説]権力を家業のように世襲する北朝鮮、世界が嘲笑
東亜日報 2009年6月3日


北朝鮮で金日成(キム・イルソン)、金正日(キム・ジョンイル)、金正雲(キム・ジョンウン)と続く3代権力世襲が企図されている。北朝鮮当局は先月28日、海外の公館長に、「金正雲後継者内定」の事実を伝え、住民に金正雲を「金大将」と呼ばせ、称賛する歌を教えているという。金正日一家が、「朝鮮民主主義人民共和国」という見かけだけの看板の裏で、政治権力を家業と見なして子々孫々福楽を享受しようとしているのだ。

北朝鮮の3代世襲は、韓半島和平のためにも、北朝鮮の未来のためにも、不幸なことだ。金日成主席は韓国戦争を起こし、同族が争うことになった。金日成、金正日親子は、大韓航空旅客機を爆破して罪のない同族を殺害し、韓国の大統領と政府関係者を狙ったアウンサン廟の爆弾テロも行なった。金正日総書記が政権を握った後も、2度も西海(ソヘ・黄海)で武力挑発を行ない、韓国の軍人が戦死し、負傷した。北朝鮮の権力世襲は、対南赤化の野欲と好戦性を代々に引き継ぐという意味だ。・・・・・・・・・・・


幕末、明治維新と海軍伝習所 西郷隆盛
東海工務設計事務所


1827年(文政10)12月,下級武士の子として西郷隆盛は生まれる。幼い時のけんかで、右ひじを完全に曲げることが出来ない。武術をあきらめ、学問に精を出す。16才の時、藩の郡方書役助に任命される。

 1851年(嘉永4)、島津斉彬(なりあきら)が第28代薩摩藩主に就任する。
 蒸気船の製造、汽車の研究、製鉄のため溶鉱炉の設置、大砲製造のため反射炉の設置、小銃の製造、、ガス灯の設置、紡績事業、洋式製塩術の研究、写真術の研究、電信機の設置、農作物の品種改良、等々、すさまじい改革を推進した。ガラス加工で有名な薩摩切子(さつまきりこ)は、この時に始まる。  斉彬は、「藩政において、自分が気付かないことがあれば、どんどん意見書を出すように」と布告を出す。その頃、西郷は、同じ加冶屋町郷中の吉井仁左衛門、上之園郷中の伊地知竜右衛門、高麗町郷中の有村俊斎(後の海江田信義)、そして、高麗町から加冶屋町郷中に移住してきた大久保正助(後の一蔵、利通)らと誠忠組を作っていた。
 郡奉行の迫田太利済(さこたとしなり)から学んだ「国の根本は、農民である」という考えに拠って意見書に書き、度々提出していた。この建白書が斉彬の目に留まる。
 1854年(安政元年)1月、28歳の西郷は中小姓となり、1857年(安政3年)4月、藩主に召し出され、問答を受けた。翌年10月、庭方役(にわほうやく)を拝命する。幕府でいえば御庭番に類する役であった。

 斉彬の密命を帯び、庭方役としての初仕事で江戸へ向かう途中,下関の豪商、白石正一郎を訪ねている。一橋派の福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)にあてた斉彬の密書をしのばせていた。1857年(安政4)11月のことであった。
 中央進出のライバル、長州藩。その動向を、情報が集積する下関の回船問屋白石家で聞き出す。西郷の行動の意図と推定できる。

 1858年(安政5)7月、斉彬が急死。西郷は殉死を考えるが、京都清水寺の成就院住職、月照にいさめられて思いとどまる。

 薩摩藩は、斉彬の遺言により久光の子忠義が跡を継いだ。久光は「国父」として実権をにぎる。
 将軍継嗣問題が、安政の大獄に発展する。幕府から追われる立場となった月照の保護を近衛家から頼まれ、西郷は、月照をともなって帰郷する。しかし、藩は月照の保護を拒否した。
 月照は「東目送(ひがしめおく)り」となる。国境に赴かせ殺すことを意味する。船に同乗して随行の途中、絶望した月照と共に西郷は海に身を投げた。救いあげられ、老齢の月照は死ぬが、西郷は息を吹き返す。幕府から捕縛命令が出ていた西郷は、奄美大島に身を隠すことになる。


日本周遊紀行(140)出水 「薩摩街道」
日本一周の旅


薩摩街道は江戸まで1500km、参勤交代では約1ヵ月半を要したという。・・、

水俣を過ぎると出水市に到り、いよいよ薩摩・鹿児島県入りである。 遂に本州最端の県域に辿り着いたことで、ひとしおの感慨が胸に迫る。 この国道3号線は鹿児島街道、薩摩街道(主に薩摩から肥後の区間をいう)ともいい、道々に何故か小さな標識で「江戸-薩摩」と指してある。 現世は「東京-鹿児島」(凡そ1500km)のはずであるが薩摩隼人は未だ、江戸から明治が忘れられないと見える。 それにしても京-薩摩(900km)は左程でもなかったが・・?、やはり、江戸-薩摩は遠い、しかし、遠いが故に意識した、意識せざるをえなかった時代でもあったのだろう。 薩摩街道は江戸時代において九州の主な藩である・・、島津(薩摩藩)・松井(八代藩)・相良(人吉藩)・細川(肥後藩)・立花(柳川藩)・有馬(久留米藩)の諸公の参勤交代の道として利用された道で、久留米藩地域では薩摩の南端港・坊津(古代からの九州南部の湊)に通ずる道から坊津街道と呼び、柳川藩地域では薩摩に通ずる道から薩摩街道と呼ばれた。また熊本の肥後藩では熊本城を基点として薩摩へ通ずる道を薩摩街道とし、江戸方向の豊前(小倉)までの道を豊前街道と呼び、時代と地域によって呼び方はいろいろあったようである。この薩摩街道は山家宿(やまえしゅく・筑紫野市)で長崎街道に、又は松崎宿(小郡市)で秋月街道と連なり小倉に通じ、さらに関門海峡を渡って山陽道~西国街道~東海道を経て江戸まで約1ヵ月半を要したという。 この参勤交代道は宿場町の繁栄や街道の整備、江戸文化と地方文化の交流など、大きな役割を果たした一方、遠い九州の大名にとっては莫大な金銭を費やし藩財政の大きな負担でもあった。

江戸から最遠方の地、薩摩・島津氏は鎌倉時代に薩摩、大隅、日向三国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名・戦国大名であり、これが江戸末期まで大大名として続く稀有な藩でもあった。 1600年、関が原の戦いで最終的には西軍に付いたため敗軍の藩となり、そのための敗戦処理に当っては本来、減藩又は改藩されるべきところであった。 急遽、帰陣した薩摩軍は国境で臨戦体制を整える一方で、江戸、京都では陳謝、陳情を行い、徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで領地を一統一寸も切り取られることなく安堵され、七十七万石をそのまま領することになった。 しかしそれ以来、江戸幕府は薩摩を開府以来の仮想敵国という存在であり、そのため幕府は何度も事情調査のため隠密を薩摩に派遣しているが、その全てが返ってくることがなかったという。 行ったきり戻ってこない事を「薩摩飛脚」(この題名で本や映画にもなっている)ともいわれ、物の喩えにもなっている。 元々、薩摩藩は異国であった琉球を管理していたし、江戸年間に亘って中国や琉球など密貿易を行い、海外の開明的な文化を多く取り入れていた。こんな中、幕府は薩摩を遠くにあって財政も豊かで危険な藩であると感じていた。 徳川幕府の有力藩弱体化政策の下で、大規模な御手伝普請(おてつだいふしん:工事を諸大名に担当させ、その費用の一部を負担させるもので、大名の力を弱めるための幕府の政策)を割り当てられる。 そんな中、特に1753年(宝暦3年)に命じられた木曽三川改修工事(宝暦治水)の多大な出費により、藩財政は危機に瀕した。 しかも、工事を指揮した薩摩藩家老・平田靱負(ひらたゆきえ)は、多くの犠牲者と藩財政の疲弊の責任を取って工事完了後に自害している。

先にも記したが、木曽三川改修工事(宝暦治水)とは・・、 美濃と尾張にまたがる広大な濃尾平野を流れる木曾三川(木曽川・長良川・揖斐川)は、下流部においては網目状に流れていて洪水が絶えなかった。そのため江戸時代から明治時代にかけ歴史に残る大掛かりな治水工事が行われたのである。 工事は、「宝暦治水」と「明治の改修・三川分流」と二度にわたって行われ、現在の三川分流が出来上がっている。 1753年(宝暦3年)12月の大洪水の後、徳川幕府は水害に苦しむ人々の声を聞き、薩摩藩に木曾三川下流治水工事を命じた。この工事は西国大名の筆頭である薩摩藩の勢力を弱める為という一大目的もあり、薩摩藩は平田靱負を総奉行としてこの難工事に着手した。 薩摩側から出した人数は家老以下947名、これに土地の人夫等を加えると2000人にも及び、この費用は約40万両の巨費に達する大工事だったという。 工事は幕府の方針変更(幕府の嫌がらせも有ったという)によって計画がたびたび変更され、また大雨により工事のやり直し等が発生したりで工事は困難をきわめたが、1755年(宝暦5年)3月遂に完成し、同年5月に幕府の検分を終えた。 この治水工事完成時には幕府の役人も、「日本の内は申すに及ばず、唐、朝鮮においても是ほどのことは有るまじく・・、」と賞賛し、諸国からの見学者が後をたたなかったと伝えてられている。 工事完了後、総奉行の平田靱負は、53人の自刃者と33人の病死者を出し、多額の借金を残した責任を一心に負って・・、

『 住みなれし 里も今更 名残にて  立ちぞわずろう 美濃の大牧 』 の時世の歌を残し自刃したという。 これを世に「薩摩の宝暦治水」という。 この時を境に薩摩は内心、幕府に対して「恨み100年」の憎悪をたぎらせ、藩は一種鎖国政策をとるようになり、藩士はみな武術鍛錬に励み、強く戦国気風を持つようになったとされている。事実100年後の幕末、西郷、大久保等の逸材を出すことによって、江戸への復讐の一端も兼ねて戦線が始まるのであるが・・・!!。


※ 私は、米国のCIAが日本の支配下にあると批判してきました。

CIA、カルザイ弟に金銭提供の裏
Newsweek 2009年10月30日


10月28日付のニューヨーク・タイムズは、アフガニスタンのハミド・カルザイ大統領の弟で、南部カンダハル州の州議会議長を務めるアフメド・ワリ・カルザイが、CIA(米中央情報局)から何年にもわたって定期的に金を受け取っていると報じた。これはローマ法王がカトリック教徒だとか、熊にとって森は居心地がいい、というくらい当たり前のことだ。

 CIAのポール・ジミグリアーノ広報官は、「CIAはこの手の疑惑についてコメントしない」と述べた。しかし米政府筋に言わせれば、大統領の弟や周囲の関係者(たぶん何人もいるだろう)の協力に対して謝礼を払っていても、驚くべきことではないという。

 ニューヨーク・タイムズは、アフメド・ワリ・カルザイは麻薬の密輸に関わっているとも報じたが、アフガニスタンのこういう人物であれば驚くに値しないと、米政府筋は言う。

 米政府関係者の話で意外だったのは、今ある証拠をみるかぎり、カルザイ大統領本人は比較的「クリーン」らしいということだ。アフガニスタンの汚職を調査しているある米政府関係者によると、カルザイが公式に申告している資産は、1万ドル程度の衣類や宝石類だけらしい。

 複数の米政府筋の話では、弟の汚職疑惑はカルザイの評判を傷つけるほどの影響力はなさそうだ。とはいえ、大統領には必要な時に物資や資金の面で手助けしてくれる裕福な友人や支持者がいるという。

 アフメド・ワリ・カルザイはニューヨーク・タイムズの取材に対し、米軍や政府関係者に協力したことは認めたが、CIAから金を受け取ったことや麻薬密輸に関わっていることは否定した。

 今回の報道に疑問を呈する専門家はほとんどいないが、なぜこの時期に表面化したのか、誰が何のために情報をリークしたのかをめぐる憶測は広がりを見せている。今のところ、11月7日に大統領選の決選投票に臨むカルザイの足場を揺るがすために、オバマ政権やその周辺が意図的にリークしたという形跡は見当たらない。しかし裏に何があるにせよ、日に日に怪しくなるアフガニスタンの政治的展望を、さらに揺るがす不安材料であることは間違いない。


日経新聞:未抽選の「宝くじ結果」掲載
毎日新聞  2011年8月4日


日本経済新聞社は4日、まだ抽選されていない「東日本大震災復興宝くじ」の“抽選結果”を4日付朝刊に誤って掲載していたことを明らかにした。この宝くじは販売中で、今月11日に抽選される。ダミー(仮)の当選番号を入れたテスト用の表を掲載してしまったという。

日経新聞社によると、誤った抽選結果が掲載されたのは、大阪本社で発行された4日付朝刊の一部で、約17万6000部。大阪府や福岡県などを除く西日本の21府県に発送された。3日夜、紙面化に備えた確認テスト中に、ダミー数字を入れた表を誤って紙面化してしまったという。新聞製作中に気付いたが、間に合わず、一部で発送された。

4日夕刊と5日朝刊で「抽選はまだ行なわれていませんでした。表を取り消します」とする「おわび」を掲載する。日経新聞社広報グループは「読者の皆様や宝くじ販売関係者の皆さまに無用の混乱を招いたことをおわびします」とコメントしている。


ガイ・フォークス・ナイトとはどんな日ですか?
駐日英国大使館


1605年に、ローマ・カソリック教徒のガイ・フォークス(Guy Fawkes)とその共謀者らが国王のジェームズ一世のプロテスタント政策に不満を持ち、同国王と国会議事堂を爆破しようと企てました。彼らは国会議事堂の地下室に約30バレルの火薬を置くことに成功しましたが、11月5日の議会開会前に発覚しました。この事件は火薬陰謀事件として知られるようになりました。ガイ・フォークスと共謀者らは反逆罪で処刑されました。

それ以来、イングランドでは、11月5日にガイ・フォークスの人形を焼いて祝っています。通常、一緒に花火も打ち上げられます。これらは一般大衆に開放された大規模な組織的イベントとして行う場合もあれば、個人の庭に家族や友人が集まってプライベートに小規模で行う場合もあります。

「ガイ・フォークス・ナイト」は「焚き火の夜」(Bonfire Night)あるいは「花火の夜」(Firework Night)としても知られています。伝統的に、11月5日の数日前から、子供たちは手製のガイ・フォークスの人形を町や村の通りに持ち出し、通行人に「ガイのために小銭を」と無心します。このお金は花火のための寄付金として使われるのでしょう。


日本の陰謀195
民主、郷原信郎氏に大阪府知事選出馬を打診
読売新聞 2011年10月21日


11月27日に大阪市長選とのダブル選が想定される大阪府知事選で、民主党府連代表の平野博文国対委員長が、弁護士の郷原信郎氏(56)に出馬を打診したことがわかった。郷原氏は読売新聞の取材に「大阪には全く縁がなく、本当に求められているのかどうか検討したい」と述べた。民主は近く最終判断する構えで、統一候補擁立を模索する自民、公明両党との調整も進めるとみられる。

 郷原氏によると、平野氏から16日に電話で「知事選候補を探しているが、その気はないか」と打診を受けた。18日には都内で会談し、再び出馬を要請されたが、郷原氏は回答を保留したという。

 郷原氏は21日、読売新聞の取材に「弁護士事務所を経営しており、一般的には考えられない話だが、考えずに断るのも失礼なので周囲と相談する」と話した。

 郷原氏は元東京地検特捜部検事。九州電力の「やらせメール」問題では第三者委員会の委員長を務めた。

 民主は、自公と連携して複数の中から知事選の統一候補を絞り込む方針で、自民はこれまでに弁護士で同党参院議員の丸山和也氏(65)に打診している。

 知事選には、弁護士の梅田章二氏(61)が共産党推薦で出馬を表明。橋下徹知事率いる大阪維新の会も幹事長で府議の松井一郎氏(47)の擁立方針を固めている。
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検察事情も知悉した検察批判は興味深いし、長崎地検次席時代の経験談は、「このように捜査体制を作り上げるのか」という検察組織の運営というユニークな視点からも読めて面白かった。著者・郷原氏について。引き出しの多い人だなと感じた。公取出向経験で談合などの経済事案や企業犯罪の専門家であるとともに、特捜手法とは異なる捜査手法を開発して挑んだ政界捜査で実績を挙げた上、オウム事件の一つも担任するなど公安事案も強い。何でも通じている上、「コンプライアンス」や「国策捜査」批判の時流に乗った経歴の氏が政府審議会や第三者機関、コメンテーターに引っ張りだこなのも分かる気がする。


日本の陰謀168
勘三郎 硫黄島の大自然を舞台に「俊寛」上演
スポニチ 2011年10月23日


中村勘三郎(56)が22日夜、鹿児島県三島村の硫黄島いおうじま)/rp>で歌舞伎「俊寛」を上演した。勘九郎時代の96年5月以来で2度目。硫黄島は平安末期に平氏打倒の謀議に加わった俊寛の流罪先「鬼界ケ島」との説がある。

 会場は島の南側の長浜海岸。砂浜に竹や松を飾り付け、断崖を背景にした大自然の舞台。島民のほかツアーで来島した約100人を含む約270人は、砂浜に敷かれた座布団に座って観劇した。俊寛が1人、島に取り残され船を見送るクライマックスでは、三島村所有の小型船が沖へ出航していく演出も。勘三郎は船に向かって「おおい、おおい」と、海につかりながら叫ぶ熱演だった。約900年前にタイムスリップした観客は大きな拍手を送った。勘三郎は2度のアンコールに応え「チャンスがあればまた15年後、ちょうど15歳になる孫の七緒八(長男・中村勘太郎の長男)と一緒にここで演じたい」と、再演に意欲を見せた。

 同公演は九州新幹線鹿児島ルートの全線開業記念で3月30日に予定されていたが、勘三郎の突発性難聴の療養のため延期されていた。


日本の陰謀204
島津義弘の名乗りと官位
南日本新聞 2011/11/07


島津義弘(一五三五~一六一九年)は関ケ原合戦の退き口や妙円寺参りなどで有名だが、その足跡は意外と知られていないのではないだろうか。
 そのひとつが義弘の名乗りや官位だと思う。名乗りや官位は形式的なものだと考えられがちだが、大名クラスのそれらにはその人物や大名家の地位や政治的な立場の変化が反映しているから軽視できない。
 そして、義弘もたびたび名乗りを変え、それに伴い、官位も上昇していった(表参照)。そのいきさつを見てみよう。
 まず名乗りから。義弘の幼名はわかっていない。おそらく元服したとき、又四郎という通称と忠平〔ただひら〕という実名(諱〔いみな〕)を付けられた。ちなみに、二歳年上の義久は幼名を虎寿丸といい、元服すると又三郎忠良と名乗った。虎寿丸と又三郎は歴代の島津家当主の名乗りであり、忠良は祖父日新斎〔じっしんさい〕の諱を受け継いでいる。兄弟の格差は明らかだった。
 義弘がはじめて大規模な知行地を得たのは永禄六(一五六三)年の日向真幸院〔まさきいん〕への入部である。この前後から義弘は兵庫頭〔ひょうごのかみ〕という通称官名を名乗る。これは正式の任官ではなくて、あくまで自称である。
 島津家が豊臣政権と対決する姿勢を示した天正十四(一五八六)年、義弘は備後〔びんご〕に在国している将軍・足利義昭から一字を拝領して、義珎〔よしまさ〕(義珍)と名乗った。兄義久が義昭の兄将軍・義輝の一字を拝領したのと並んだことになる。
 それからわずか一年ほどで、義珎から義弘と改名する。義珎名乗りがほとんど知られていないのはそのためである。この改名は島津家が豊臣秀吉に屈伏〔くっぷく〕した直後であることから、義昭離れとともに、義弘が心機一転して豊臣大名になったことを示していた。
 上京した義弘は秀吉と対面すると、秀吉から豊臣大名としての証〔あか〕しとして、官位と羽柴名字を与えられる。官位は従五位下・侍従〔じじゅう〕(位階はすぐ従四位下に昇進)。侍従とはもともと天皇の近臣のことだが、武家の場合、公家成〔くげなり〕という格式を示し、一般の公家(殿上人〔てんじょうびと〕)と同様に昇殿の資格がある。侍従以上の武家官位を与えられた大名は、秀吉とかつて同僚だった織田系の大身大名や地方の国持大名クラスだけだった。
 羽柴名字も同様で、侍従以上の武家官位をもつ大名だけに与えられた。秀吉と同じ名字を名乗ることで、義弘と島津家も擬似的な羽柴一族に編成されたことを意味した。ちなみに、羽柴は秀吉の名字であり、豊臣は氏〔うじ〕である。豊臣政権下での義弘の正式の名乗りは、羽柴薩摩侍従豊臣〔とよとみの〕義弘〔よしひろ〕となった。
 それから十年後、秀吉が他界する。義弘は弔意〔ちょうい〕を示して出家し、兵庫入道と名乗った。
 秀吉死後、徳川家康と石田三成ら奉行衆との間で対立が激化する。その渦中で、義弘は参議(唐名〔とうみょう〕・宰相)に昇進している。これは朝鮮出兵での論功行賞の一環だった。
 参議は豊臣政権の中枢である五大老(中納言以上)に次ぐ官職。義弘の官位は予想外の高さまで昇った。これは戦国大名の雄である伊達政宗(少将)や長宗我部元親(侍従)よりもはるかに上位である。
 関ケ原合戦の直前から、義弘は出家名として維新〔いしん〕と名乗り出す。維新とは「これ新たなり」と読むが、秀吉亡きあとの覚悟を示したものか。しかし、維新も使ったのは一年ほどで、惟新〔いしん〕と改名した。現在はこちらのほうがよく知られている。
 義弘の名乗りと官位の変化には、義弘個人の地位の上昇と島津氏をめぐる政治環境の変遷が刻印されていた。


日本の陰謀173
社会保障政策で落選させるべき政治家は長妻昭と小宮山洋子
NEWSポストセブン 2012.09.12


総選挙が行なわれても一向に変わらない日本の政治。漫然と選んで変わらないなら、真剣に落とすことを考えるべきではないか。そこで本誌「週刊ポスト」は、年金&子ども手当政策について落選させるべき2人の議員を選んだ。

【長妻昭氏】
 消えた年金問題を追及して政権交代の立役者になり、政権交代後は厚生労働大臣に就任。「ミスター年金」と呼ばれて年金の抜本改革(税方式による最低保障年金の創設)をはじめ、子ども手当、後期高齢者医療制度廃止などのマニフェスト実現の期待を担った。

 だが、子ども手当は早々に支給額半減を決定(その後、廃止)。後期高齢者医療制度の廃止は断念、最低保障年金も具体策をまとめることができなかった。政治家としての力量不足だけなら仕方がない。

 さらに、「税と社会保障・一体改革」では執行部側に取り込まれて増税先行を容認し、自公との交渉役となって最低保障年金創設を棚上げする3党合意をまとめた。それでもマニフェスト撤回を認めようとはせず、「わが党だけが主張しても前に進まない」と弁解に終始している。

【小宮山洋子氏】
 子育て政策がライフワーク。厚生労働副大臣当時、子ども手当の支給額が当初の半額に決まると、「支給額を月額5000円以上は上積みする必要がある」と主張するなど、子ども手当拡充論者だったことは間違いない。

 しかし、大臣時代に3党合意で「子ども手当廃止」(支給減額)が決まると、「子ども手当はちょっと姿を変えたけれど継続した」(2011年10月)などと弁解した。その後も、自公の反対で後期高齢者医療制度の廃止、総合こども園などの政策が次々に撤回されたが、大臣として抵抗せずに唯々諾々と受け入れた。政策ではなく、大臣ポストを死守している。


日本の陰謀
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