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日本の陰謀200B
養子相続と女系社会

[ 目次 ]
1. 養子相続の顕著な家系
2. ローマで女系皇帝がOKな理由(ローマ帝国史略)
3. ヨーロッパの女系継承
4. 養子のことを皆が意外に知らない
5. 養子天国


日本の陰謀200B
養子相続の顕著な家系

岩倉家
三好義継
遠山景晋
尾張徳川家
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日本の陰謀200B
ローマで女系皇帝がOKな理由(ローマ帝国史略)

ローマ帝国の皇帝というのは養子縁組での継承というのがやたらと多いです。  有名なのは五賢帝の継承(実際はトラヤヌス帝⇒ハドリアヌス帝の継承は養子縁組ではない)ですが、他にも二代ティベリウス帝はアウグストゥス(オクタヴィアヌス帝)の後妻リヴィアの連れ子を養子にしたものですし、ネロ帝も同じようにクラウディウス帝の後妻アグリッピナの連れ子を養子縁組しています。もっと、時代が下っても、ユスティヌス2世(紛らわしいけど、有名なユスティニアヌス1世の甥)は、ティベリウス2世を養子にし、ティベリウス2世はマウリキウスを養子として、それぞれ皇帝位を継承しています。
 他にも、ガルバ帝が、有力貴族のピソを養子にしようとして、次期皇帝の座を狙っていたオト帝に殺されたりとか、レオ1世の娘アリアドネやコンスタンティヌス9世の娘ゾエは、自らの結婚相手を次々に皇帝に指名したりしています。
 常識的に考えれば、帝位の継承というのは、日本の天皇家の様に直系の男子を優先に男系継承してくのが通常ですが、むしろローマではそうでない事例の方が多いです。もちろん、血縁継承がなされない第一の理由としては、政変などによって、皇帝や皇族が不慮の死を遂げるというパターンでの皇帝交代が多いからなのですが、平時においても上記の様な養子縁組による非血縁継承が少なからず見受けられます。
 これは何故かというと、ローマが一夫一妻制の社会で、皇帝が必ずしも継承者たり得る男子を子に持っているとは限らないからです。初代アウグストゥスからして、自身と正妻リヴィアの間に子を成すことは叶わず、一人娘のユリアを次々に側近達に嫁がせて後継者の男子を産ませようと苦心しながら、最終的に失敗しているという有様です。逆に日本の天皇家なんかは、一夫多妻制だったからこそ、1000年単位で男系継承を続けていくことが可能だった訳です。
 ローマの王朝でまともに男系継承が成されている王朝なんて、本当に見あたりません。

 ウェスパシアヌス帝⇒ティトゥス帝(子)⇒ドミティアヌス帝(弟)

 マルクス・アウレリウス帝⇒コンモドゥス帝(子)

 セプティミウス・セヴェルス帝⇒カラカラ帝(子)、ゲタ帝(子)

 ゴルディアヌス1世帝、ゴルディアヌス2世帝⇒ゴルディアヌス3世帝(孫、子)

 コンスタンティウス1世帝⇒コンスタンティヌス1世帝(子)⇒コンスタンティヌス2世帝(子)、コンスタンティウス2世帝(子)、コンスタンス1世帝(子)⇒ユリアヌス帝(従兄弟)

 ヴァレンティニアヌス1世帝⇒グラティアヌス帝(子)、ヴァレンティニアヌス2世帝(子)

 テオドシウス1世帝⇒アルカディウス帝(子)⇒テオドシウス2世帝(子)                 ホノリウス帝(子)

 西ローマ帝国の滅亡までのローマ皇帝で、男系継承だったのをざっと挙げてみました(括弧内は前皇帝との続柄、適当に書いたんで抜け落ちあるかも)が、コンスタンティヌス朝が比較的長い間続いている以外は、どの家系も2~3代で断絶してしまっているのが分かるかと思います。ユリウス・クラウディウス朝なんて、初代アウグストゥスからネロ帝まで約100年に渡って続いてるローマ史上でも統一時代なら最長の王朝な筈なのに、まともに男系で血縁継承された皇帝は皆無です。いかに、男系相続が困難だったかが分かります。
 ローマにおいて、養子縁組や皇帝の未亡人と有力者の婚姻による帝位継承が普通になされていたのは、別にそれがより有能な人物を皇帝に選ぶことが出来るからという理想主義的な答えというより、皇帝(でなくてもでしょうけど)の男子がいない時に継承者を円滑に選ぶ方法としてやむなく選択されているというのが実態ではないかと思います。
 いや、まあ、こんなことはくどくど説明するまでもなく、当たり前なのかなとも思ったりするんですが・・・。

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日本の陰謀200B
ヨーロッパの女系継承

中世ヨーロッパの王侯貴族では、女系継承は比較的良く行われた。キリスト教は一夫一婦制を原則としていたため男性当主は正妻の子供である嫡子以外に相続権を与えづらかった(完全に不可能ではなく、抜け道はあったが)。このため、当主に男子の跡継ぎがいないことが少なくなく、その際、継承者に傍系の男子ではなく、女系の子孫を選ぶことも多く行われた。

中世ヨーロッパにおいては当主に息子がなく、娘だけの時、傍系男子への継承とならんで、娘が夫を迎えて共同で相続することが一般に行われている。子孫が母方の地位を引き継ぐ(継げる)点で、実質母系継承である日本の婿養子(や外孫養子)に非常に近いが、この夫婦の子孫は父系の姓を名乗る点で婿養子と異なる。婿養子が、婿を当該の家の“息子”と形式上することで、子孫も擬制的に(実際は母方の先祖と)父系でつながっているとして、地位と姓(出自)双方を、父系の擬制の下で母系継承させるのに対し、こちらは地位は擬制抜きで母系継承だが、姓に於いては実際の父系を優先している(父系という擬制を取らない)。このためこの夫婦の子に相続された場合、王朝が交代したと見なされる。そのため姓(出自)の理念に関しては実際の父系に忠実で、この点については中華文明圏では日本より朝鮮やベトナム、中国に近い。中世ヨーロッパの王朝交替は多くが女系継承によるものである。しかしこの場合、傍系の男子との継承争いが起こることも多く、また女系を考慮すると相続順位が複雑になるため混乱が生じることもあった。その際は、傍系男子を娘の夫として解決するなど工夫の手段があった。

フランク王国の古法である『サリカ法典』は女性が当主となることを認めていなかったものの、夫が妻の方の王位・爵位を継承しえたので、実質的に意味を無くしていた。

しかし14世紀のフランス王国でルイ10世に男子の跡継ぎがなく、唯一の女子ジャンヌが王妃の不倫により王家の血を引いていないのではないかという疑惑が有ったため、サリカ法典を理由にルイ10世の弟フィリップ5世が王位を継承した。さらにジャンヌの系統やプランタジネット家に王位が渡ることを避けるために、サリカ法典を拡大解釈し、女王のみならず女系の王位継承をも禁止した王位継承法を制定した。この王位継承法と継承制度も現在では一般的にサリカ法と呼び、近世にはプロイセン王国・近代のドイツ帝国・イタリア王国が、男系継承のみの王位継承法を採用している。また、その他のドイツ系の国々では準サリカ法と呼ばれる「男系の継承者が全て絶えた場合のみ女系に回る」継承法を採用する場合が多かった。

現代の立憲君主制においては女性君主を避ける必要も少なくなったため、イギリス・オランダ・デンマークなど、女系のみならず女王も多く存在している。

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日本の陰謀200B
養子のことを皆が意外に知らない

私は結婚してカミさんの姓を名乗っている。すると皆が養子に入ったのかと聞いてくる。戦後の法律で結婚すると単にどちらかの姓を選ぶことになったのでカミさんの姓を選んだだけです。養子ではありませんと言っていたが、その内面倒になり、ええそうですと答えるようにした。本当の養子は相手の親とも養子縁組する。この場合には遺産相続権が発生する。

 こぬか三合あったら養子に行くなという諺があったが、昔の養子は惨めだったらしい。40年ほど前、友人の従兄が農家へ養子に行った。彼は学校の先生だった。学校から帰宅すると畑仕事をさせられた。朝は早くから姑が夫婦の寝室へきて彼だけ畑仕事に追い出される。婿は労働力なのだ。彼は学校が終わってもなかなか帰宅しなくなり、やがて離婚した。

丸谷才一「絵具屋の女房」(文春文庫)に明治大正両帝が養子だったと紹介されている。明治天皇も大正天皇も養子だった。大正天皇は明治天皇の側室の子どもだったが、皇后に皇子が生まれなかったので皇太子に定められたが、その際、皇后の実子とされた。すなわち養子である。これは明治天皇の先例にならったものだという。明治天皇も側室の子で、先帝の皇后の養子になったのだった。

 なぜ養子かとの理由に、丸谷は正室の子でないと格好が悪いからではなく、女系家族制の名残だという。
帝は后の家へ婿入りしたといふのが建前なのであるから、そこで后によつて皇子が生れず、側室による皇子を皇太子として立てるときには、后の養子になる形をとつたのでせう。

 そしてこの考へ方でゆけば、よく問題になる、天皇家にはなぜ家名がないか、といふこともあつさりと答が出る。なぜあの家には家名がないか。そもそもさういふ家がないからです。

 天子の系図を皇統譜などといふけれど、それは、后たちの家々(有力氏族)に婿入りした入り婿たちを観念の上で結びつけて作つた系図にすぎない。後世はともかく、本来は、天皇家といふ家が実際にあつたわけではないのです。
養子の話はこれでお終い。同じ本の中に静岡大学の近代史の黒羽清隆教授の名講義が紹介されている。
しかもこの第一回講義のなかでは、聞き所がほかにいつぱいある。陸軍大臣が朝鮮人を兵隊に取るやうにしたいと申出たとき、昭和天皇は即座にかう訊ねた。

 徴兵制を施いた以上、選挙権を与へなければならないぞ。そのへんは考へてゐるのか。義務だけ課して権利を与へないのではをかしい。それに第一、朝鮮人に選挙権を与へて本当に大丈夫なのか。

 この話を紹介して、黒羽教授は評していはく。

 「あの頃の世界の政治家の中に、こんな判断を即座にできる君主がどれだけいたかと、私は驚く」と。
黒羽教授は家永三郎の系統で左翼史家だという。

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養子天国

日本人には家を大切にする思想はあっても、血統を大切にする思想はないのではなかろうか。

 その証拠に日本の名家というやつは、やたらに養子をとる。その結果祖先の血筋が絶えてしまっても平気なところがある。血筋を重視して近親交配を繰り返したあげく血友病になってしまったヨーロッパの王家とはだいぶ違う。

 天皇家はさすがに養子の例は少ないが、それでも血統が絶えることはしょっちゅうあって、そのたびに遠縁の人間を天皇に据えてきた。
 もっとも有名なのは二十五代武烈天皇のつぎの二十六代継体天皇だ。継体天皇は伝えるところによると「十五代応神天皇の五世の孫」ということになっている。朝鮮半島では十親等までを親戚としているが、おもしろいことに文書によると武烈天皇と継体天皇は十一親等離れている。つまりこれは、アカの他人だということを遠回しに語っているわけだ。  その後も三十三代推古天皇で切れて四親等違いの舒明天皇に引継ぎ、四十六代孝謙天皇から六親等違いの淳仁天皇で皇位のたらいまわしをしている。南北朝の騒動では北朝が勝ち、南朝の九十九代後亀山天皇は十二親等違いの後小松天皇に譲位している。百十八代後桃園天皇から百十九代光格天皇の間も七親等離れているが、最大の危機は現代にある。
 百二十五代今上天皇のつぎはいまの皇太子浩宮様で確定だが、これに男子がない。雅子皇太子妃がいま妊娠中ではあるが。皇太子の弟、秋篠宮にも男子がない。いまの皇室で皇位継承の資格がある男子は、皇太子、秋篠宮、今上天皇の弟常陸宮、昭和天皇の弟三笠宮崇仁親王、その息子寛仁親王、桂宮、高円宮の七人であり、秋篠宮をのぞけばすべて皇太子よりだいぶ年上である。具体的にいうと、2001年現在で皇太子41歳、秋篠宮36歳、常陸宮66歳、三笠宮崇仁親王86歳、寛仁親王55歳、桂宮53歳、高円宮47歳。しかも桂宮は病身である。子供は産まれているが、これが女子ばっかりなのだ。このまま二十年くらい経ったらどうなるのだろうか。
 いま雅子妃が孕んでいる子供がもしも流れるか女子だったとすると、明治天皇以来の血統が完全に途切れてしまう可能性が大きい。その場合どうするか。皇室典範を改正して女帝を選ぶか、戦後臣籍に降下した東久邇宮あたりの旧宮家から選ぶか、である。東久邇宮がいまの天皇家と分かれたのは百二代後花園天皇の父親、貞成親王の代から。室町時代の初期のこと。なんと三十四もしくは三十五親等違う新天皇が誕生する可能性もあるのだ。

 武家になると養子いれまくりである。有名なのは鎌倉将軍家。実朝で源氏の血が絶えると、さっさと藤原氏や親王を招聘して将軍につけた。将軍なんかお飾りにすぎないという、露骨なまでのパフォーマンスである。
 足利氏は意外と養子相続が少ない。五代義量が若くして死んだ後、クジで伯父の義教を選んだのと、十代義植の死後堀越公方正知の息子義澄を据えたくらいだろうか。もっとも八代義政が弟の義視を養子にしたことがあって、これがきっかけで応仁の乱がおこったのだが。
 戦国時代になると、成り上がり大名がかつての名家を圧迫し、力づくで息子に家を継がせるケースが多い。毛利元就が地元の有力大名小早川、吉川を潰して自分の息子に跡を継がせたり、織田信長が伊勢の北畠、神戸といった由緒ある大名を攻め、息子に跡を継がせる条件で降伏させたりしている。豊臣秀吉も親戚の秀秋を小早川の養子に据えた。もっともこいつはすぐ裏切って、なんの役にも立たなかったのだが。

 徳川将軍家になると、系図を見ていてくらくらするくらいの養子天国である。徳川十五代のうち、親から子へ素直に将軍位が継承されたのは七回しかない。それ以外はすべて養子である。五代綱吉は四代家綱の弟だった。六代家宣は綱吉の兄の子だった。このへんはまだ近いのだが、八代吉宗は凄い。
 徳川御三家の紀伊家でも傍流の生まれだった吉宗は、まず鯖江三万石を与えられ、ようやく大名になれた。ところが相次いで父や兄が死んだため、急遽兄の養子となり、紀州五十五万石の当主になった。やがて徳川七代将軍の家継も死んだため、家継の養子となってついに征夷大将軍にまでのぼりつめた。まさに養子うなぎのぼりである。  これに近いケースは「最後の将軍」こと十五代慶喜。御三家のひとつ水戸二十八万石の七男に生まれた慶喜は、御三卿のひとつ一橋家の養子となる。そして十四代家茂の養子として十五代将軍になるのだが、前代との血のつながりを勘定すると吉宗は六親等しか違わないのに対し、慶喜は十八親等も違う。もはや他人同然である。幕閣に慶喜将軍反対論があったのも無理はない。

 将軍がこれだから他の大名も推して知るべし。吉良上野介義央の息子を上杉家の養子に押しつけたり、二代将軍秀忠の浮気の子が保科家の養子になって保科正之となったのは有名な話だが、なんといっても最大の加害者は十一代将軍家斉である。側室四十人、子供五十五人をもうけた彼は、生涯のすべてを生殖に捧げた観があるが、そうして生まれた息子をやたらに他の大名家の養子にしてまわった。自分の息子が跡継ぎになれないし、将軍家ご子息を養子に貰うとなるとなにかと金がかかるし、大名としてはたいへんな迷惑なのだが、なにしろ将軍の思し召しである。受けざるを得ない。その被害者は尾張徳川家、紀伊徳川家、清水徳川家、越前松平家、津山松平家、明石松平家、福岡黒田家、阿波蜂須賀家、鳥取池田家など数多い。家斉の娘が嫁いだ先となると、数える気にもなれない。なんだか家斉の息子たちがいっせいに蜂起したら天下が取れそうだ。いやもう取ってるんだけど。

 それより小さい旗本ともなると、まともに続いている方が珍しい。なかには町人に乗っ取られてしまった家も多い。なんでも大阪の富豪商人などは、ボンクラな息子が生まれると、
「あかん、こいつに店継がせたら身代つぶすわ。こんな役立たず、侍にでもせなしゃあない」
 といって、自分の家は養子に継がせ、息子は旗本の株を買い与えたそうだ。貧乏旗本の家に話をつけ、数千両を与えて商人の息子を養子にする。旗本は金をもらって隠居する。そんなことがよくあったらしい。
 勝海舟の家もそうだった。海舟の数代前の先祖は盲人だった。按摩をして稼いだ金で金貸しをはじめ、これが当たって大金持ちになった。そこで勝家の株を買って息子を旗本にしたのだという。その値、ざっと三万両という。もっともそのおかげで海舟は幕臣として活躍し、明治以降も海軍卿をやったりしながら伯爵として優雅な暮らしができたのだから、この株、大暴騰したといえる。

 明治維新以降も養子は盛んだった。高橋是清、牧野伸顕、菊池寛、山本五十六、吉田茂、柳田国男、みな養子である。このように養子が盛んな理由は、家の存続を重んじたというのもあるが、ひとつには徴兵のがれもある。戸主だと徴兵されにくいため、次男以下がみな子供のない家の養子になったのだ。
 中には初代東大総長の加藤弘之の子、加藤照麿男爵のように、次男以下はみな養子に出すという方針の家もあった。四男は浜尾家を継いで浜尾四郎となり探偵小説家、五男は京極家を継いで京極鋭五となり音楽評論家、六男は古川家を継いで古川緑波(ロッパ)となり喜劇俳優、七男は増田家を継いで増田七郎となり書誌学者、おのおの違った分野で第一人者となった。こういう家系も珍しい。

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日本の陰謀200B
桜の風情「サクラ」について
さくらの杜


春――。

今日か明日かと待ち焦がれた末に、ようやく開花を迎える桜ですが、花の命は短くて......花が満開に咲き誇るのはせいぜい一週間か、長くても半月ほど。
その桜の花の散り方をいさぎよさに喩えて、軍人の心得などと言われた哀しい時代もありました。

そして、咲き誇り賑わっていたのも束の間で、気がつけば葉桜になっていたという風情そっくりなのが、露天商などでお馴染みの「サクラ」。今でも新規オープンの店などがたまにつかう、通りがかりの客への購買効果バツグンのあの商法です。 由来は江戸時代の芝居小屋で、役者の登場に合わせて「待ってました!」などと賑やかな声援を送ったことが始まりといいます。景気づけで最初は大賑わいを呈していたのが、はっと気づくとその客たちの影はなく、つまりは興行主に雇われた一群であったという、そうした輩を指す呼称が「桜(サクラ)」です。

新商品のデビューや、タレントのお出迎え光景など、現代でもさまざまなシーンでサクラが動員されています。しかし、語源をたどると「なるほど」と感心させられるほど奥が深いのも、やはり桜ならではですね。


日本の陰謀193
勝俣氏・清水氏・武藤氏など東電幹部を続々と――東電刑事告訴で進む聴取
金曜日ニュース 2013年3月1日


「検察内部でも立件のハードルは高いとの見方」

 といった報道が相次ぐ中、東京電力福島第一原発事故の刑事責任を追及する検察当局の捜査が進んでいる。

 検察ではすでに福島第一原発の事故現場確認を終え、勝俣恒久・東電前会長や清水正孝・同元社長、そして武藤栄・同前副社長など、事故発生時の東電幹部らを任意で事情聴取。聴取の対象は、事故で廃止された原子力安全委員会の班目春樹・元委員長や、避難中や避難先で多数が死亡した双葉病院(福島県大熊町)の院長や遺族にまで及んでいる。

 最近では、政府の事故調査・検証委員会が吉田昌郎・元福島第一原発所長を聴取した際に作成された「聴取書」を、検察が差し押さえたことも明らかになった。吉田元所長と言えば、事故の際の現場指揮ばかりがクローズアップされているが、実は武藤前副社長とともに、同原発の津波対策を担当していた責任者の一人でもある。

 にもかかわらず、立件を疑問視する報道は今も止まない。そこで、事故の責任者らを集団刑事告訴した「福島原発告訴団」が動いた。

 まずは、東電や安全規制当局などに対する「強制捜査を含む厳正な捜査と起訴」を検察当局に求める署名活動である。署名の第一次締め切りは二月一五日(金)。第二次の締め切りは三月五日(火)なので、募集は今も続行中だ。

 次に、その署名とともに福島からバスを連ねて上京し、東京地検まで直接届けに行くことにした。名付けて「2・22東京地検包囲行動」。決して圧力に屈することなく正義を全うしてほしいと、捜査している検事らを“激励”するのが目的だ。署名提出後は、日比谷公園をはさんですぐそばにある東京電力への抗議行動も予定している。詳細は、同告訴団のホームページ(URL http://kokuso-fukusimagenpatu.blogspot.jp/)で。


日本の陰謀
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