千曲川原スケッチ  
スケッチとつづり方でblogとしています。
その日の題材について、私にとって「新しきを知る」スタンスで週1~2回程度の更新予定です。
 

2017_1211記
夜なべ手袋ばーちゃんの歌

 物作りの先輩が上水内郡小川村で展示をしていると言うので行ってみました。
 小川村は長野市の西方、佐久からは直線距離西北55kmぐらい。
 思ったより時間がかかり、長野市に入ったあたりから地図というナビを頼りに行きました。地図と道路標識があれば大きくは間違わないはずだが、地図が古いので新しいバイパスが出来ていたりすると?となる。
 今回も幾つか新道が出来ていて決定的に間違ったのは新トンネルが小川村へ入る地点に出来ていて、地図には進行方向右に曲がる所が、トンネル手前で左に曲がらなければ、地図上の「右に曲がる所:旧道」には入れなくなっていた地点だった。
 「あれ、おかしいな?まあいいか先にも小川村に入る山路が地図にはあるから、それを見逃さないようにしよう!」と心をあらため信州新町(現在は長野市に編入されている:信州新町地区)と云う所から小川村へアプローチとなりました。
 奥まった山家が点在し、枯れ葉色をした風景の中、たわわにぶら下がる柿の実が印象的でした。その柿の木の一本が今日のスケッチとなっています。

 ところで信州新町は「かあさんの歌」所縁の地で歌碑が建っているのだと、帰って来てから調べ知りました。しかも私が小川村へ曲がった辺りにその歌碑があったようです。
 かあさんが夜なべをして手袋編んでくれた・・・
 この歌を作詞作曲した窪田聡さんは信州新町(疎開当時は津和村、水内村、日原村、信級村のいずれか)に東京東部から疎開に来た思い出を合わせこの歌(詩)を二十歳前後で書いたとなっていました。私の亡母も東京東部から山村(栃木烏山の先、詳細不明)へ疎開経験のある人でありました。そして窪田さんの生まれ年が母と同年、同じ学年で疎開に出たことでしょう。
 「かあさんの歌」は私のかあさんの世代が、きっとばあちゃんの世代を強く思って作り歌ったうたであったようです。


2017_1206記
百年前の日本最長トンネル

 中央本線に新宿甲府間ではひときは長い笹子トンネルと云うトンネルがあります。
 江戸五街道のひとつ甲州街道で難所とされた笹子峠付近をトンネルで貫通したのは明治36年となっています。
 峠峰は標高1100~1250mぐらい、そのトンネルの抗口は東西とも630mぐらいでムサシ(m)の東京スカイツリー天辺とほぼ同じ標高。トンネルの長さは約4.7km。現代となっては驚く長さではないでしょう、青函トンネルは54kmであり地下鉄などでも40km程度のものが日本でもあるという。

 しかし笹子トンネルの歴史をみると驚かされる。
 「国境のトンネルを越えるとそこは雪国だった」の清水トンネルが昭和6年上越にできるまで日本で最長のトンネルであったというのだ、1903~31年の28年間。
 工事はその時代の新技術がここかしこに導入されながら、物資資材は峠近在でまかなう物がおおかったようです。掘り出したずりを運び出すトロッコにおいて当初は馬牛だったものが坑口近くを流れる日川(トンネル西側)笹子川(トンネル東側)に水力発電所をつくることで電気機関車利用となったとされています。それまでのトンネル工事ではカンテラ(ランプ)であったが、これも途中から(国内ではじめて)電灯となったとの記述も読めます。
 また計画段階では陸軍の意向が反映されたとなっています。それは鉄道がほんのわずかだった明治10年西南戦争において当時でも大きな輸送力を感じとった故となっています。笹子では急こう配を歯車併用のアプト:ラック式が輸送力に劣るとして、トンネル区間をより長くとるコースでの通常鉄道(?車輪とレールの摩擦により緩勾配を走行)に決定しています。
 トンネル完成後東西の坑口には伊藤博文著・山県有朋著の額が掲げられているとのこと。トンネル完成翌年日露戦争が起こるわけです、主線は東海山陽線だったでしょうが、国は中央本線笹子越えも活用したのではないでしょうか。
 その明治36年当時のトンネルは単線であり、昭和41年複線化以降は下り線が通る鉄路として今も健在のようです。複線化で新しくすぐ北側に別のトンネルを貫通させ、上り線としたようです。長さはほぼ同じです、工事期間では明治期トンネルは6年、昭和期トンネルは1.5年とのことです。

 今日のスケッチはササであります(アズマネザサかな?)。
 笹子トンネルは亡父の実家に向かう時必ず鈍行電車で通ったトンネルでした。トンネルに入り車掌室越しに坑口が段々小さくなっていく、かぎりなく真っすぐなトンネルでありました。

2017_1204記
ストーブの部屋でお話聞いた

 室温も5℃を朝起きると割っている今朝となりました。全体的に早目の冬の到来をここまで感じています。
 こう寒くなってくると暖房器具がありがたいです。

 ペチカと云う歌があり、北方の暖炉を何となくイメージできるわけです。 今も日本の冬に流れているだろうこの歌は今から90年以上前(大正後期)に日本人に発表されてロシアの歌と思いきや、北原白秋作詞山田耕作作曲によるとなっています。白秋の想像による創作ではなくペチカの地に出向き歌詞が出来たとのことです。
 その北方の地は中国東北部の満州でありました。満州に生まれた日本人児童に良質な唱歌をとの依頼で作られたと説明されています。歌詞の二番には「栗や栗やをよびますペチカ」三番には「ペチカ燃えろよじきに春来ます いまに柳も萌えましょペチカ」とその地ならでは季節感がそえられたようです。
 このような満州の日本人児童に向け作られた一時期の唱歌を満州唱歌と呼ばれているものがあるようです。他に今も耳にするものに「待ちぼうけ」の歌。日本列島と満州ではそれだけ自然環境も異なり、列島で作られた唱歌の内容では実感できる内容が薄かったということなのでしょう。ですから満州唱歌と呼ばれている物には、逆に満州で生きた日本人には理解できても日本列島でしか暮らしてない人には馴染みが薄い歌詞があったようです。

 昨日、紙芝居を見る機会がありました。
 その演目(?)の中に『待ちぼうけ』と云う紙芝居があり、それが本文で触れました満州唱歌「待ちぼうけ」の歌詞を一巻の紙芝居に仕立てたものでした(これにより満州唱歌の言葉を知る)。この歌も白秋+耕作コンビによる同時期のもののようです。うさぎが転がり込んでくる幸運を当てにして時を過ごしてしまう農夫:中国韓非子の説話が元になっている歌詞。当時の満州には沢山のうさぎが共存していたことをこの詩から想像してみます。歌に歴史ありですね。

2017_1126記
備えればいくらか冬も楽し

 真冬がそこまで来ている。
 11月だというのに真冬を思わせる朝(-6℃)があった。
 冬に備え手足防寒を工夫してみています。

 それは使い古したキルティングの上着の袖部を使って手形に切り縫い合わせた手袋。手袋といっても親指以外を一袋に入れるタイプのものです。無骨でありますが軍手と比べると結構温かい。
 それから はるか前(四半世紀)、催事で物々交換したものに厚手のフェルト帽(チューリップ型)があったが、全く使わず時が過ぎていた。これを二等分しそれぞれを右左の長靴内部つま先部に甲ををおおうように詰めてみました。これはかなり温かい。
 購入を考える前に、手元にある使っていないものを家庭内リサイクルしました。自分でつくったのだから改良も容易、何度か手直しをしながら形が落ち着いていくことでしょう。

 冬のお楽しみ道具として、藤の蔓茎を3~4mとって来ました。これは知人宅裏のケヤキの屋根に掛かる枝を落とした際、そのケヤキに絡みついていたものでした。
 ケヤキの枝をノコギリで切った後、藤の茎を切ると、明らかに藤茎の水分の多さに気づける。しなりやすそうなこの材質で「カンジキ」が作れないかと思っているのです。出来上がれば試歩もしたくなるだろうから、晴れた日の積雪の山にでも出向き散歩程度してみよう。すでにその時手にするだろうストックの手を握る所は、手袋制作と同じ生地でフード状のカバーを巻いおおったところであります。

 今日のスケッチはユリノキの実のようであります。
 ユリノキは葉も特徴的でやっこ凧のような形で別名にヤッコダコノキ。また半纏をイメージしたハンテンボクと云うものがあります。

2017_1120記
洗濯昔帰り

 夏ごろから以前自作し物陰に置かれていた洗濯板で洗濯を頻繁にするようになっています。
 洗濯物全部ではなく、小物が主なのですが。
 朝飯の湯を沸かす前に よた水(飲料水不向きの水)をヤカンにほぼいっぱい沸かし、それで洗うのです(洗剤は使わない)。靴下・軍手・タオル・パンツ・Tシャツといったところを。
 洗っているうちに、それらの洗う順番が決まってくる。食器洗いと同じように汚れのひどい物は後回しになるのだ。面積もこの中では広く汗をすっているだろうTシャツなどは洗ってみるとそれほどでもなく、何といっても湯が黒く(正確にはウンコ色?)なるのは靴下なのだった。軍手も泥土がついていれば同等に黒くなる。
 「靴下とはこんなに汚れるものか」とそれに気づいた日から毎朝はき替えるようになった。
 またこれも洗濯機では気づけなかったことに、染料がすこしづつ取れている。湯を入れた洗面器の湯水が、緑の布地を洗うとうっすらと緑く、黒い布地はうっすらと黒くなる。
 洗濯板は一つづつしか洗えない。でもそのことで一つづつがどんな特性(汚れ)を持っているのか知る事ができた。手作業とはそんな物を「知る」アイテムでもあるようです。

 洗濯板を本文のように洗面器に立て洗っているのですが、時に長そでのシャツやズボンを洗う事がありました。
 そうすると洗えない事はないのですが、洗面器では狭いと感じてきました。私の幼少の頃の記憶にタライがあります。その頃は洗濯に使う道具の意識はなく、沢山の水を入れる容器と思っていた。タライの池をポンポン蒸気船(玩具)が渡った記憶、父が海で釣ってきた(たぶん)ボラが入った記憶。
 洗濯機を含めた電化製品は戦後日本が米軍完全統治終了した年1952年から市販品が売り出された物が多いらしい。洗濯機もそのような記載が見られ、1962年50%の普及率1968年80%ぐらいだったらしい。私の上記二つの記憶は1968年以前の記憶と思います。洗濯機は手回しのローラーで絞るタイプの物がありましたのでタライで洗濯をしている母や祖母の姿は見ていない。でもタライがあったと云う事は、日本の歴史も合わせ、ほんの少し前まで洗濯板で洗濯をしていた可能性があると気づける。乾ききった洗濯板が立てかけてあった記憶もなきにしもあらず。今日のスケッチの洗面器に洗濯板は、そんな想像も私に知らせたのでした。

2017_1116記
冬支度

 日の出は遅く日暮れは早くなってきた今日この頃、千曲川原もベージュ色の季節に入りつつあります。
 あれはもう半年以上前の一学期がはじまって間もない頃、ベージュの野から緑がわきはじめた頃、その野の草を摘んできた子たちがいました。ノビルをです。
 段丘の上にある小学校の周りは広く田んぼが囲み、段丘を下りるその後の帰り道はけして日当たりはよくなく、日当たる所は人家が立ち並んでいる。「どこでとってきたの?」とは聞いた事はないが、たぶん田の畔で摘んできているのだろうとおもっている。
 毎年、摘んでくる子がいる。その子たちの目当てはヒョロリと伸びた葉の土中にふくらんだ鱗茎なのであります。家に寄る頃にはその鱗茎まわりの土の付いた薄皮はすっかり剥がされニンニクやラッキョのような白い姿になっている。そうなればそのままかじって食べれるのですが、味噌をつけて食べたいアイデアが浮かんだ時、私の家などに寄り味噌をリクエストするのです。
 今春もそんな風にノビルを摘んできた子がいました。ミソを提供し、葉を天ぷらにして皆でたべました。
 その数日後人数をふやし3人の子がノビルを採って来ました。それが三人が三人抱えるように採って来ました。玄関に置かれたノビルたちは摘んできたと云うより収穫してきたという感じ。味噌と天ぷらで頂き「残ったのはもって帰って、うちで天ぷらにして」と話すと「置いていく」と言う。家では持ってってもそのままにしてしまう事が多いのだという。
 そんなわけで一度に食べれる量では到底なかったので我が家の裏庭にとりあえず植えておいた。
 その後 数回「ノビルあるでしょう」とその子たちは寄ったので天ぷらを揚げてやったし、私も夕飯に揚げて頂いた。鱗茎が小さなラッキョのようだったので「・・・漬けても美味しいかも」の考えが湧き漬けたりもした。ひとつづつ小さな鱗茎の皮を剥ぐ作業が大変ではあったが、ノビル漬けもラッキョ漬けのように美味しく頂けた。

 それでも食べきれず埋められたまま我が家裏庭にノビルたちはありましたが、花はつかず夏を前に枯れていきました。
 しかし秋になり何やらヒョロリと長い葉が一本づつ その場所に出てきました。これがノビルの生態なのですね。そんな冬支度を済ませたノビルの姿が今日のスケッチです。

2017_1109記
大きな水溜まりたち

 千曲川散歩コース内では、まだ一か所明らかな水たまりが残っています。台風21号その一週間後の雨、それらから10日ほど経っている。
 本流はすっかり平時の水高に戻っているのですが、川原がまだ水気がおおいのは、護岸などから湧き出している伏流水が本流より遅いスピードで水を吐き出しているということではないのだろうかと思っている。

 ところで水が広い範囲で溜まっている所を湖沼と呼びます。湖と沼の違いは大きさではないらしく、深さが呼び分けの要素であるようです。水底から茎を伸ばし水上に花葉を広げる植物(浮葉性植物:ヒシやスイレンなど)の群がありますが、それらは最長でも2.5mぐらいの深さまでだそうです。沼の水深はこのような植物が育つ条件が広範囲であるような、一番深いところでも5m以下となっています。湖はそれ以上となるようです。
 もうひとつ大きな水たまりに池と呼ばれるものがあります。こちらは人が造ったものを池と呼び、多くは農業用のため池であるようです。また私の推測ですが池は沼よりもより浅い水域、すなわち湿地湿原をいい当てたこともあったのではないだろうか、近い所では浅間山系に池の平(湿原)、白馬に栂池(湿原)など 池と湿地湿原がマッチングしていますし、乗鞍高原湖沼のほとんどを池と呼んでいるのも、それぞれ湿原ととらえることで説明がつくものもあります(例:水芭蕉とりまく牛留池・まいめの池など)。

 今日のスケッチは、コメツガ(米栂)の枝です。
 池の平湿原ごく近くの森に落ちていた枝でした。
 本文の湖沼池の区分けかたは一例で、人が造ったダムの貯めた水域を湖(例:相模湖)としたり、山岳の自然発生的な水域を池(例:大正池)と呼ぶ例は沢山あるわけです。古くは山間の湖にも海の呼称で呼んでいた事(長野県小海町:古くは細長い湖があった)もあるのだろうから、時々の常識希望で多くがそうだよなの水域呼称があてられてきたのでしょう。

2017_1105記
虫のお椀、草のお椀

 ゴキ
 とくればブリと続け連想する人は多いのではないでしょうか。
 そういえば今夏はゴキブリが私の暮らしの中では見かけなかった。
 ゴキは御器(≒食器)からきているらしい事が検索できます(食器のまわりによくいる事による関連付け)。
 器は人に対しても器(うつわ)が大きいとか、器用(きよう)とかもちいる。拡大解釈すればゴキブリは人のごく近くに生きてきた生き物だったのかもしれない。

 ゴキの御器と類似し、ゴキを頭につける草の実が今日のスケッチです。ゴキヅルの実。
 しかしこのゴキは御器ではなく合わせ器で合器です。合器は蓋のある器を見立てたようで、スケッチ中央のように、実中程でパカァときれいに二つに割れる姿がこの草の特徴ととらえられたようです。
 水辺に育つツルのようで、実は水に落ち、運ばれ、新たな岸で芽を吹くのだといいます。
 このスケッチの実は台風21号の増水が運んできたものでした。葦の枯れ茎たちに混じり幾つも黄緑色の実がタチヤナギの根元に漂着していました。

 川原においてせいぜい3~5mの低木たちではありますが、その周りに漂着物が流れ溜まります。ペットボトルを主とするゴミたちもそういう所に多数集まるわけです。そのゴミを一所に寄せる(冬期に少しづつ回収し、春にはゴミの無い川原散歩道に復旧する例年の手順)中で目についたゴキヅルの実でありました。これまでゴキヅルの育つ姿をこの界隈の川原では確認していないので、来年はタチヤナギに絡みつくそれを身近に観察できるかもしれません。
 ゴキヅルは台風の洪水をうまく利用できたものたちであったことでしょう。逆に洪水により命を閉じたものたちも多かったようです。その一例はふだん陸(川原)であるところにできた、一時的な池に取り残された魚や水中昆虫たちでした。人は自分たちの生活圏に水が溢れ出さないように堤を強固にしてきたわけですが、それは堤の中の水の流れを変え、そこを生活圏にしている生き物たちにとっては別の変化をもたらしていることでしょう。

2017_1030記
知識の継ぎ足し

 夕闇迫る頃、森中から遠吠えが聞こえた。
 私が歩いている森より西側の沢のような地形の方からでありました。
 森は1人で入っているので鈴をちゃりちゃり鳴らし、時に歌を歌いながら歩いているのだった。こんな時歌う歌は早口のフレーズはなく声も出しやすい歌。
 そんな作法で歩く中でも出くわす時は出くわす。数日前に大きなカモシカと出くわした事があった。カモシカは音に鈍感なんだろうか?「耳の遠い爺ちゃんクマでなくよかった」と胸をなで下ろし跳び逃げてくれたカモシカの方を見ると、彼(女)もまた10mくらい上方の斜面で歩を止めこちらを見ていた。
 闇が迫ると動物たちの行動範囲が広がるのか、遠吠えもそんな時間帯に聞こえてきたのでした。「鹿かな?」「オオカミ?まさか」「野犬?」
 家に帰りその鳴き声の雰囲気を忘れないうちにyoutubeで森に居そうな動物の鳴声をいくつも聞いていってみました。
 シカではないようだった。カモシカでもないようだった。クマはなさそうだ。そんな中でたぶんと思ったのがキツネでありました。
 現在の生活では頻繁に野生動物の鳴声を聞く事はないので、知識としてキツネはコンコンでありました。生のキツネは様々な声でなくようでありました。

 オオカミ、犬の遠吠えに比べるとやや細い音でしたが、遠吠えでありました。小諸車坂峠まじかの山中での声、三日月の様な月の夕刻でした。
 その森でも台風21号の強風が吹いたようでカラマツやシラカバらの枝や幹が沢山折れていました。今日のスケッチは、折れた枯れ木に生え始めていたキクラゲであるようでした。

2017_1023記
風の名前たち

 天の大うちわが振られた朝だった。
 西寄りのゴオーゴオーと音付きの風でありました。
 まだ紅葉にはいくらか早い当地の木々たちから、青い葉が飛び落ちていた。人出の入らない家の波トタンがバタバタ鳴り、その塩ビ製の物は千切れ木の葉のように散乱していました。私の家の防暑防寒・目隠しに掛けて置いたスダレが崩壊し、それを整理する事から始まった朝でありました。雨も心配されたが、千曲川は川原が見えなくなる程度で収まったようでありました。そんな堤防を見に行くとクルミの実が幾つか落ちていた。果物を作られている農家(この時期だとリンゴになるのか)は昨日あたりその対策に追われたことでしょう。市内の小中学校も昨日の内に休校となったようです。

 ゴオーゴオー、風の吹く中を鳥たちが飛び立ち、吹き戻されていた。
 川もやはりゴオーゴオーと音を響かせながら、魚たちもやはり待機・避難をしている事でしょう。

 今日のスケッチは山で拾ってきたテングノウチワの別称をもらっているハリギリの葉と思われます。
 天狗の妖力は様々で、羽団扇(はうちわ)を使い空を飛んだり、風雨を操ったり、…その中に「縮地」と云う言葉がありました。縮地(しゅくち)は短時間で長距離を移動できる術のようでした、東洋のテレポートやワープにあたるものでしょうか。
 台風、野分も。地域が変わるとハリケーン・サイクロンと呼ばれるようです。今朝通過した(する)のは台風21号ですが2000年から発生する台風に順次東洋系+αの名前が付けられるようになっています。おおざっぱに東南アジア・ミクロネシア・東アジア(ロシアは含まない)と米国の14ケ国が10個ずつ台風に当てたい名をあらかじめ提出、計140個の名が台風に付けられているようです。140番目(ベトナム命名:Saolaサオラ―:ベトナムレイヨウ)まで廻ったら1番(カンボジア命名:Damreyダムレン:像)に戻り、これを基本的にはくり返し命名されているようです。米国がこの中に入っているのは西北太平洋に自国の領土を持っているということなのでしょうね、きっと。今回の日本で言う2017年台風21号は、そのアメリカが命名したLan(ラン:嵐)が充てられています。命名順位139番目ですから、次は上記の140番目Saola、その次は1番に戻りDaolaになることでしょう。
 日本からは、5番目てんびん、19番目やぎ、33番目うさぎ、47番目かじき、61番目かんむり、75番目くじら、89番目こぐま、103番目こんぱす、117番目とかげ、131番目はと、が提出されているようでどれも皆天体の星座名と重なるようでした。
 台風の恵みもあることでしょうが、災いがない通過となりますように。

2017_1018記
広場は心のよりどころ

 松本あがたの森公園での催事に25年継続して参加させてもらっています。芝生の広場が主な会場でありました。
 この芝生の広場を、今年から松本市は名称を「平和のひろば」としたとのこと。松本市は、私たちが催事で利用させてもらっているその広場で終戦50周年を起年とし広場東側に平和祈念像を設置、その頃から毎年8月15日に平和祈念式典を続けているらしい。
 その像は母子3体と思われるものたちのようです。
 そういえば私があがたの森の催事に参加の中である年の春「ここに、こんな像が出来たんだ」と通り過ぎ気づいたことがあったように記憶している。が、その後は風景に溶け込みすっかりその存在を素通りしていた。

 しかしここで改めて調べてみると松本市の非核平和に対する意識は、先進的なものを感じる。
 それはたとえば同じ平和宣言都市を宣言していても宣言しただけで、内容が希薄な自治体が多いように思うからです。そんな松本市の気迫に魅力を感じる人も少なくはないのではないか。とかく便利な交通網など物理的魅力で人・企業を集める行政が多いのだろうが、松本市の場合精神的な魅力でも、市外から高い意識を持つ人が集い、それをシンクタンクとして市政に生かしているような気がする。

 8月の式典では平和都市宣言の朗読があるようで、以下のようなものです。
  「世界の恒久平和は人類共通の願いである。われわれは、平和を愛するすべての人々とともに、核兵器の廃絶と戦争のない明るい住みよいあすの郷土を願い、ここに「平和都市」の宣言をする。昭和61年9月25日」

 今日のスケッチはあがたの森「平和のひろば」の芝の先っちょです。
 公園緑地課に電話してみたところ、広場の芝は「ノシバ」が基本で禿げた所に「コウライシバ」を植えているとのことでした。スケッチのものがどちらになるのか?、いずれにしても日本芝になるようです。
 ところで私が居住する行政区もHPに同じような非核・平和都市宣言文を見る事ができます。しかし市政~国政に対し不勉強なわたしには市でどのような取り組みがなされているのか、見えにくい奥ゆかしい都市宣言に感じています。

2017_1010記
中秋の千曲川原にて

 秋分ごろから水辺の鳥たちの顔ぶれが変わり始めています。
 サギたちの数がめっきり減りました。100羽と思えるほど集結していたシラサギ(チュウダイサギ)の姿が消え、今年はゴイサギの幼鳥がズッーと朝入江となっている水域にいたのですが、それらもある日を境にぱったり見なくなりました。ネット検索ではゴイサギは本州以南では留鳥となっているが中央高地となる当地のものたちは、もっと温かい地に移動したようです。
 10月にはいり潜水を得意とするオオバンがやってきました。その数日後小型のカモ:コガモがやって来たようです。どちらも先遣隊といった数です。
 それらが一年を通している大型のカモ:カルガモたちの中にポツンポツンと確認できます。

 川原の草の伸びはとまり、黄葉する草木も出始めています。まだ鎌をもって散歩道に入りますが、それを使う時は秋の風に倒れ折れたブタクサ・葦を払いのける事が多くなった。
 ここで温かさのぶり返しがきているが、中秋は晩秋へと向かっているようです。

 今日のスケッチは、川原に生えていたキノコです。
 キノコの種類の解明に時間がかかり、一回味噌汁の具にしただけでしたが、食用にできるナラタケでありました。
 倒木に生えました。倒木は川原に点々と大きく育つタチヤナギの枯れ木と思われます。灯台下暗し、川原に食用に出来るナラタケが生えているとは思いもよらなかったです。

2017_1001記
森中のヤスデ鉄道

 今日のスケッチはキシャヤスデと思われます。
 オレンジ色っぽい体長3~4cmのヤスデです。浅間山系高峰の森中を一匹歩いていたのをみつけました。

 ヤスデにはその体形自体に連結された車両列車をイメージできるのですが、このヤスデの命名は大量発生の年に汽車をとめてしまうほどであったことが度々あったことによるようです。
 東信濃の高原鉄道JR小海線では、全線開通(1935年)以来、このヤスデが列車を秋に度々不通にしたようです。それはこのヤスデにとっても不幸なことなのですが、かれらが線路レール上を移動する時、通過する汽車にひかれ、その数多数とならばその体液で車輪が空回りしてしまい汽車は立ち往生してしまうとのこと。

 他の線区でもヤスデによる列車ストップは起こっていますが、小海線はその最もたる所となっているようです。急傾斜である区間で起きているらしく、左は小海線の傾斜を示した図(左数値標高)。小淵沢より佐久海ノ口、海尻から小海の区間が急勾配です。
 キシャヤスデは8年周期(7年で成虫になり次の年卵を産む)で命をつないでいっているようで、小海線の列車スリップ停止は、そのような周期で繰り返しているようでした。

 今年はその8年周期の大量発生の年には小海線ではあたらないようです。
 スリップをしない年もヤスデは轢かれている事でしょう。車にしても轢かれる命は多いはず。他の生き物を頂きながら生存していることは食生活に限らず生活全般にあるのかもです。

2017_0926記
木の実の物語

 賢治さんの童話に「やまなし」があります。
 川底に暮らすサワガニたちの目を主人公に物語は進んでいく童話で、秋が深まった頃、丸い物が落ちてき、それが「やまなし」でありました。
 「なし」と付くので今の人の感覚ですと直径10cm以上の梨を思い浮かべ物語を読み、実際絵本になっているものでもカニよりも大きめの「やまなし」が描かれているものを見たことがあります。

 今日のスケッチは、松原湖畔にコブコブの幹から枝を伸ばしていた樹が実らせ落とした実でありました。地元の子が「アオナシ!柄の所を引っ張り抜くと・・・(ポン)、ほら音がするよ」と教えてくれたものでした。
 家にかえり調べてみるとアオナシは「イワテヤマナシ・マメナシ」と共にヤマナシの一種であるとなっていました。アオナシは主に長野山梨の高原に多いとなっていました。どれも数cmの実でスケッチのアオナシも3cm弱の大きさでした。ですから実際のサワガニの甲羅程度の大きさの実になります。しかしその水分を大いに含んだ小柄な球体が落ちた方が童話内比較対象のカワセミの突入のような俊敏な入水が可能かもしれません。童話の中の世界ですし「やまなし」とひらがな表記でもあり果肉に加肉が付き多少大きくなること、または後の時代の風物にカスタマイズされることはよくある事でもある、そうやって著名な昔話たちは後世に伝わってきたのかもです。

 松原湖畔に神社があり、その湖岸と一体化した境内にアオナシの樹がありました。花は桜が終わったころのタイミングで白く咲くそうです。アオナシの実の一部は湖に落ち水中の生き物たちと物語を作っているのかもしれません。

2017_0920記
見過ごしていた秋みつけた

 台風が日本海縁を東北へと抜ける頃、出先の車の中から大風に生き物(動物)のように揺れる針葉樹の森を見ていると、その道路っぱたに小鳥が降りてきた。
 鳥は徐々に私の車に近づきデジカメで撮れそうな位置まで来てくれたのでそれを撮り、それを元に今日のスケッチとしました。

 どうやらモズであったようです。
 スケッチをしてから、モズについて調べていると鳴き声も何種類か聞けた。すると部屋の外、向かい家のテレビアンテナの上で同じ鳴き声が聞こえているではないか。モズは「モズが枯れ木で鳴いている・・・」の歌で知るぐらいで環境にはいない鳥と思っていた。
 モズの鳴声は冬に向けて個々が縄張りを主張する秋の作法のようなので季節の便りでもあったようです。

 「もずが枯れ木で」の歌は昭和10年作、歌詞の中に「兄さは満州へいっただよ」と云う一節があります。満州事変が起こったのは昭和6年。その日付を見ると9月18日となっています。ちょうど今ぐらいの出来事だったのですね。中国ではこれを満州事変(≒柳条湖事件)とは呼ばず九一八事変と呼んでいるそうです。
 戦後生まれの私たちは戦争が始まったのは真珠湾攻撃の昭和15年の12月8日をまず思い浮かべますが、昭和一桁生まれの方は昭和12年の日華事変(≒盧溝橋事件)の7月7日と話されていたのを聞いた事があります(中国では七七事変)。もっと前大正以前に生まれた方々は満州事変の起こった9月18日がその日ととらえたのかもしれません。
 「もずが枯れ木で」を作詞されたサトウハチローさんは戦後にもモズが登場する童謡の作詞を手掛けています。それは「誰かさんが誰かさんが誰かさんがみつけた・・・めかくし鬼さん手のなる方へ・・・よんでる口笛もずの声・ちいさい秋ちいさい秋ちいさい秋みつけた」

2017_0914記
月に鷺

 近在の野にコスモス・ススキが揺れるようになっています。
 花札では8月のメインモチーフとして黒めの丘にススキが描かれています。花札は旧暦で月々を表現していますから8月の満月が中秋の月となり、8月の光札(20点札)にはススキの丘に満月となっています。今では、その姿を見る事は少なくなっているのですが種札(10点札)はススキの丘に雁が飛んでいます。雁は実際には晩秋にやって来て春に返って行く冬の渡り鳥のようですので(旧暦)8月と云う事ではなく、ススキにお似合いのものとして描かれたのかもです。月札とは呼ばず、花札と云う通り12種類の花(植物)が主であるという事なのでしょう。

 今日のスケッチは、朝の空に月が残っていました(4~5日前)。その横を白サギ(チュウダイサギ)が横切ったものです。
 チュウダイサギはこの界隈では大型の鳥になりますが、雁も翼を広げた大きさはそれに近い大きさがあるようです。雁のV字飛行は遠き幼い日に見上げた空に見たような記憶があります。サギは点々バラバラに飛ぶのですが、滑空する姿はおおらかさがあります。水辺に立っている姿も、白い姿が水に映り美しいです。
 先日「白い鳥が100羽いる」と自転車で飛び込んで教えてくれた子と内心「それほどではないでしょう」とその群れを見に行きますと、本当にそれ以上のサギが千曲川対岸の水辺に群立していました。今年はサギが非常に多いように思います。
 本日9月14日は(下弦の)半月、旧暦ではまだ7月24日とのことです。この月が細り、次に満たされる夜、中秋の名月となるようであります。その頃にはチュウダイサギの群れも南に渡り数を減らしているのかもです。

2017_0908記
秋草の中に国をみつけた

 身近な言葉に矛盾と云う言葉があります。
 つじつまがあわない、説明がつかない時使う言葉でありますが、矛盾は矛(ほこ)と盾(たて)から構成されている。
 その字面からだと「攻防」とかの意味合いを感じるのだが、これには中国の古き書物「韓非子」から発生した言葉とされているようです。「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた男が居、客に「その矛で、その盾を刺して見ろ」と云われ説明がつかなかったらしきお話のようです。
 矛(ほこ)は鉾とも桙とも戈とも書けるらしい。国と云う字は古くは國と書いたらしい。国と書くと気づけないが國と書くと「くに」の中に戈の字が見つけられ国とは武器を囲い持った区域と読める(字源を説明するページにも類似の説明がある)。口の中に現在の国の概念は矛ではなく、砲であったり核であったりするのかもしれない、もしかしたらそれよりも先進の一般人がなお計り知れない物を囲い持っているのかもしれない、それを静かに国としている所があるのかもです。

 今日のスケッチは秋になったのですね千曲川原に咲いていたアキノウナギツカミです。 漢字書きで「秋の鰻掴」、「秋」と「国」が入っているのでした。

2017_0904記
古今、口元への努力

 ちょんまげを結っていた頃、お歯黒・引眉と云う身だしなみがあったようです。
 時代劇・大相撲などでも「まげ」は見ますが、歯の黒い人を見たことはない。
 日本では古代から明治初期まで公家においては そのような習慣が女性を主にあたりまえだったというから、歴史ドラマなどでは、その辺は現代風と古風をミックスし人物をつくっているのでしょう。
 歯を黒く染めることは、歯の隅々まで(歯垢などが残るとうまくつかないだろう)、まず掃除することをするのでしょうから、そんな歯のメンテナンスにはどんな道具を使ったのでしょう。
 三ヶ月前より随分ぶりに歯医者に通うと「フロスと云うものがあります」と教えてもらい。試しに糸巻きタイプの物を買い一週間に一度ぐらい使っています。フロスは歯と歯の間を掃除する糸もしくは細紐状の道具です。30cmぐらいの長さに切り両端を左右の手(指)に巻き付け固定し糸鋸のように歯の間をギコギコやります。時間もかかるし、難しい、つまり要領をまだ会得していないのだ。大口開けて時に唾液がヨダレとなって出てくる、フロスをやっている姿は人には見せられない。身だしなみ作りやお歯黒を含めた化粧も同じようなものなのだろうか。

 今日のスケッチは、ヒメヤシャブシの果穂です。 果穂にはタンニンが多く含まれ お歯黒の手順にもつかうフシ(五倍子)の代用にもしたとなっていました。
 「鉄漿水(かねみず)と呼ばれる酢酸に鉄を溶かし楊枝で歯に塗った後、五倍子粉(ふしこ:タンニンを多く含む粉)を上塗り。これを繰り返すと非水溶性の黒が定着する」らしきことになっていました。

2017_0831記
鍋蓋と障子紙心棒

 東信濃の小学校は8月22日から二学期が始まっています。
 その初日の下校に寄ってくれた子が「かぶってたたいてジャンケンポンって知ってる?」と・・・
 話しているうちに、ジャンケンをして勝った人が負けた人の頭を(軽めの)棒などで叩けるゲームのようで、負けた人はそのまま叩かれるのは嫌だから叩かれるまえにヘルメットなり何なりで頭をガードする事が許されているルールのようだった。その攻防の用具を対戦者の間に置きジャンケンの勝ち負けで許された用具を使えるというわけです。

 玄関に複数のコップにホコリが入らないようにかぶせる30cmぐらいの木の鍋蓋(スケッチ)があったので、これをメットがわりに、叩く棒は購入時障子紙の芯となっていた径3cm程度の紙筒を45cmにノコギリで切り、ジャンケン道具とした。
 「かぶってたたいてジャンケンポン!」
 「あいこでしょ・・・」

 たまたま玄関にあった木の鍋蓋は以前小県(ちいさがた:郡の名前)の人に頂いた物でした。フタには[室賀学校]と焼き印されていました。何でも「昭和が終わる頃、室賀小学校と云う小学校が統合により無くなるので不要になるものをくれた」とのことだった「理科でつかう容器などは植木に代用している、木の鍋蓋もその時もらってきた」とのお話をを聞いています。
 しかしこの蓋の焼き印は[室賀小学校]ではなく[室賀学校]なのです。そこで調べてみると、室賀小学校の大元は明治6年に設置されていて「有新学校」の支校「旭新学校」とはじまり、明治15年(1882年)「室賀学校」と改称とある。中略1889年室賀尋常小学校と改称→1895年室賀尋常高等小学校に改称、1941年室賀国民学校と改称、戦後の1947年室賀小学校と改称となっています。
 [室賀学校]の焼き鏝は改称された後も使われた事も考えられるが、室賀学校と名乗ったのは今から135年前からの数年間であったようでした。蓋部は板目だが木表が鍋の内側となる一枚板であり、ひょっとしたら江戸時代に育った針葉樹であった可能性がある。推測部も多いが新事実を感じる事で改めて木の鍋蓋を見直してみた。

2017_0826記
転移無縫

 天に住む人の衣類には縫い跡がないのだという。針と糸は下界に暮らす人の工夫のようでもありそうです。要は技巧や工作のないありのままの姿ということだろうか。「てんいむほう」は天意無法ではなく天衣無縫と書き、自然で美しい事を称える言葉のようであります。
 人以外の生き物で着衣をする生き物は少ない。素の体で暮らせる環境に生きる事をしているのでしょうが、その事は天人に近いといえはしないか。
 天女がまとう布を羽衣(はごろも)という。縫い目の無い衣であるようです。
 今日のスケッチはスケバハゴロモという10mmぐらいの昆虫です。 シースルーの翅を持ち、植物の茎の汁を吸うらしい。その口はストローのようでもあり針のようでもあります。

 日常を支える針と糸により作衣しない天人たちも、違う 時に恐ろしい用途で針と糸を使ってはいないのだろうか。
 下界でくらす人々は逆に 衣類の概念を刷新し将来は針と糸を使わない新技術新素材により無縫の衣類をまとうようになるのかもしれないですね。その時 天衣無縫の言葉は、今より深い説明のいる言葉になっていくことでしょう。

2017_0822記
亜高山帯夏の景

 高峰高原はおおよそ標高2000m。私の住んでいる所は630m。
 そこに水筒がわりの500mlペットボトルに水を詰めリックに入れて行く。
 高原で半分飲んで、下山する。
 すると容器にくびれが出来た(スケッチ)。そのスリーサイズを物好きにも測ってみると、上から201mm、167mm、203mm。くびれが欲しい人は高原を行ったり来たりすればいいのでは・・・?(しかし ここでくびれたと思ったこのPボトルの栓を開けると、変形は解消しましたが、元々くびれのあるもので3サイズは同じで、単に一方向がつぶれたようでした)
 人はともかくペットボトルは密閉されているのでしょう。
 Web上の検索資料だと高原と私の住居との標高差(1370m)では下界である私の住居の方が約150hPa気圧が高いのだという(住処21℃で)。
 そういえば高峰の林道(車坂峠~高峰温泉)を陸上部の合宿と思われる若人が走っていた。酸素の薄い高地でのトレーニングとは思われたのですが、軽トラックが同行していてその荷台にシャベルが載っているのを目にしました。林道はよく整備されてはいるが未舗装なので、たぶん凹地に土なり砂利などをつめ走らせていたのではないか。高地トレーニングは最大酸素摂取能力を高め、全身持久力を増大するらしい。
 と、いうことで、私のペットボトルも気圧の差だけでなく、負荷のない高地トレーニングの後、スリムな体形をものにしたのかも。

 標高0mと2000mとでは、約80%の酸素濃度となっていました。私の住み家との比較だと約85%の濃度とか。
 高原は天然のクーラー状態で微風が気持ちよかったです。

2017_0815記
八那(やな)の落水

 千曲川への流れ落ちる放水路は滝のようになっていました。
 それを落水部の上側から発見し、ぜひ対岸から もしくは下側から見上げてみたいと思ったのは、小海町八那の崖上でのことでした。
 下流約1kmにあった最寄りの橋を渡り放水落水箇所の対岸:千曲川の東側に車を移動。うっそうとした樹々が40m程下の川原までをうめていた。ジグザグに下りると大きな堰にたどり着きました。私が発見した滝のような放水も水力発電に利用した後の放水でありましたが、この堰も下流約3.5kmにある土村発電所に水を送る施設でした。
 上流部にあるだろう目的地に向かいズボンをまくり上げた膝ぐらいの深さで渡れそうな箇所を2度3度渡り(素足)、崖部は5m程度だったと思うがロッククライミングのような様相となり3点支持で歩(靴)を進めました。海抜1000mに届こうかと云う川の水は心地よく、川底の岩に藻が生えてなかったので足を滑らすことへの注意は少なかった、鮎はこの水域にはそぐわないだろう。やがて小海線の緑色の鉄橋をくぐる事になった。
 くぐったあたりで、歩く素足に水温の違いを感じた。やや温かいのであった。目検では目的の落水部は まだまったく見えなかったが、「この温かい水の先に探しているものがあるかもしれない」とその微弱温水をたどると80mぐらいで樹々の中に白い飛沫(しぶき)が現れた。
 まだ確信はもてず正面に立った(スケッチ)とき、丸い放水口を確認できた。八那発電所の水の摂取元は松原湖を調整池としているので、千曲川の水温より松原湖の水温がやや温かいことになるのかと感じる。
 川原に直立するハンゴンソウと護岸のボタンヅルの白い花が印象的だった。

 松原湖の水が発電に利用されているのは知っていたので、その発電経路をたどってみた先に、今回の私の小さな探検ルートがありました。放水場所には「急に水がとびでることがある!あぶない!」と注意書きがありました。落差20mには達していないと思うが直下から見上げると迫力のあるものでした。落下部は滝壺のようにえぐられている様子はなく、逆にえぐられないよう(?)に大岩が数個ありました。八那池発電所は大正元年竣工でありますので約100年前から落水し始めた人工滝と思われます。

2017_0812記
南天に尻上げ星の頃

 立秋を過ぎた頃から、本格的に夏蝉が鳴きだした。
 ミンミンゼミがであります。
 夏休みに入っている子どもたちが、そんな午後にやってきては千曲川に遊びに下りてみることもあります。その日やってきた子たちとは昨年までの夏にも川に下り入り、その時もそうであったがパンツまで脱いで浸かっていた。水遊びの向こうの空に2000m級の山々があり、その上に入道雲が立ち上がっていた。
 こんな頃合の夜空には、さそり座が南天に堂々としている。とは言っても低目の南天なので街灯が煌々とたぎる場所では見過ごしてしまうことだろう。
 さそり座の大きなS字ラインからも想像できるがサソリの特徴は尾が巻くように持ち上げることにある。今日のスケッチはそれに似た尾を林中、クマザサの上で見せていた和名:シリアゲムシ(尻揚げ虫)です。

 欧州にも仲間がいるようで英語名はスコーピオンフライ (scorpionfly)となっていてサソリscorpionが入っています。日本本土四島にはサソリはいないようなのでサソリの連想にはつながらず、お尻の登場となったのでしょうね。でもあまり見かける虫ではないですが、それがわかれば「シリアゲムシ」の名は一発で覚えられ忘れにくいものとなる。翅の様子も端正な感じが持て特徴ある容姿の生物です。
 浅間山系高峰山麓標高1700m以上の林縁で数回見かけています。
 ちなみにさそり座の日本での古名(地域名)には尻上げ星の命名の地はないようで「籠かつぎ星」「ウオツリ(タイツリ)星」などとなっていました。

2017_0806記
鈍く行く旅世代

 その昔「どんこう」と云う各駅停車の列車を表す言い方があったが、今でも生きたことばなのだろうか。「どんこう」は鈍く行く鈍行と書き内容的に各駅停車につながるイメージを持てるのだが、私の小学校時代の各駅停車の列車は、正しく鈍く行くものでありました。
 父の田舎は甲府盆地の中程にあり新宿から中央本線に乗り各駅停車の列車に乗って向かうのだったが、今調べてみれば私が生まれた頃は全線において単線であったようです。それが小学生の中程で(父の田舎までは)複線になっています。単線は駅で上り下りの列車がすれ違わなければならないので、駅で時間待ちをする事はもちろん、駅と駅の間でもよく止まりました。
 そんな進み具合が鈍く行くそのものでありました。「鈍行」と云う言葉はやはり乗っている人たちがつくり上げ担ぎ上げた言葉ではなかったのか、昨今のCMなどでも自社の製品に呼名にはプラスイメージを持たせようとするので、国鉄側が各駅停車を「鈍行」と広めたとは考えにくいがどうなのでしょう。
 しかしその単線の鉄路はけして広いとは言い難い日本の国土を、少年の心に大陸のような未知の旅を抱かしていたようにも思うのです。

 今日のスケッチは、しなの鉄道の車両です。
 この車両は115系電車と云う型のようで、外装の違いはあれど中央本線でもよく乗ったものと同じ系統の物のようです。
 しなの鉄道線(軽井沢-篠ノ井[-長野])は北陸新幹線に先駆けた長野新幹線が開通したことにより開業しています。JR:国鉄時代は信越本線としてあり、この区間の複線化は本文中央本線新宿-石和間が複線化を終える前年の1967年から始まり20年かけ1987年に全線で複線化しているようです。その頃まで待ち時間が旅心を盛り上げる信濃の旅であったことでしょう。

2017_0731記
流線形の魚


 これは松原湖畔の家の水槽に使っていたローリータンクの中にいた魚でした。タンクの中にはナマズとこの魚だけだったがそれぞれ6~8匹づつ入っていました。どれも15cm以上大きいものは30cmぐらいあっただろう。
 「ナマズと一緒に入っている、この魚はなんですか?」
 「ブラックバスです」
 自分が初めてみた現物のブラックバスだった。ブラックバスと云うか魚は図鑑などでは側面から紹介されている物がほとんどなので俯瞰で見たバスは巨大なハヤのようなものに感じられました。
 ワカサギを観光漁業資源としている松原湖界隈ではそれを食べてしまいかねないブラックバスを数百円で買い上げてくれるのだとも以前聞いた事がある。

 ブラックバスは特定外来生物に指定され十数年が経過しているようです。この法では輸入・放流の禁止だけでなく売買・運搬・飼育も禁止されています。もし釣った場合は生きた状態での運搬は違法ということのようです。長野県でも十年近く前、釣ったバスの再放流を戒めています。

 俯瞰したブラックバスをスケッチしてみて気づいたことに、背ビレをはさみ左右対称のまだら模様にはなっていないと云うことでした。
 図鑑などによく見るブラックバスの姿は右のようなものです。

2017_0726記
本日ゼロの日

 夏休みのカウントダウンが数えられるころ、帰り道でカブトやクワガタを手に帰ってくる子が出始める。
 24日下校が今年のその初日となりました。疲れをしらないカブトはたえず手足を動かしていました。
 オスカブトは次の日、プラ製の飼育ケースに入れられ、再び我が工房にやってきた時は、おがくずの上でキューリと右四つに組みあってまったく動かない大相撲の最中だった(スケッチ)。
 この界隈の「夏休みへのカウントダウン」は本日26日登校すれば「0」となる。通学路に平行し止めてある車のウインドに「夏休みへのカウントダウン」を張り出し始めたのは3年以上前から、7日前からカウントして掲示をしてきました。7日といっても学校に登校する日の残り日数をカウントしていきます。土日が休みなのでその期間はカウントが進みません。本年は「海の休日」が明けた18日が「カウント7」であり、本日26日の登校をもって「0」、夏休みに信州も明日より突入していきます。

 最近の虫ケースというのは、ほぼ100%水槽をイメージできるプラ容器が多いですね。自分の小さい時は、金網であったり、竹串のようなものが格子をつくっていたりも見かけたわけです。
 梅雨前線の端っこがまだ上空にありますが、千曲川早朝の水温は20℃を割らなくなりました。ヒグラシを耳にしています。早熟のミンミンゼミがポツリと鳴いていました。
 スケッチ画像クリックで「夏休みへのカウントダウン」風景に飛びます。

2017_0722記
光らぬホタルは窓を持つ

 梅雨明けしたようです。
 例年だとそれと同時に夕立が2~3日続いたような記憶がありますが、今年はまでそれらしいのがないです。しかし千曲川原では晩夏初秋を先取りするように月見草やアワダチソウが花をつけ始めています。
 人が求めイメージするホタルの季節は、この界隈でも終わったようです。その季節には朝の裏庭にホタルの姿を見る事が年に数回ある。ホタルの飛行能力はけしてほめられないので、たとえ昼間飛んでいてもその飛び方でホタルではないかと当てをつけられ、着地するのを待って確認するのである。今年はそんな朝が2度ありました。
 一度はこの辺で一番多い見慣れた前胸部の背側が左右に赤いゲンジホタルでありました。いま一度は飛び方やシルエットはほぼゲンジボタルと同じものでしたが、前胸部の背側がスケッチのように四角い透かし窓を持ったものでした。これもホタルの一種でクロマドホタルというらしいのです。
 クロマドホタルは水辺ではなく陸で幼虫期も過ごし、その幼虫期に人も感じられる強さの光を放つとなっていました(成虫はほとんど人間は感じられない光とか)。場所によっては その幼虫の光が9月ごろピークになるとあり、そんなことから[秋ホタル]の異名もあるようです。
 人里近くの草地や林道沿いの草地に住むとなっています。
 「ホタルの光 窓の雪」と申しますが、このクロマドホタルにおいては成虫の光は微弱なことから光らぬホタルは窓を持つとしてみました。

2017_0718記
南風、山嶺にとどくころ

 日本式の鎧は鉄製の短冊状の小札(こざね)と云うものを綴じ防具とした工夫がみられます。その部位を縅(おどし)というらしい。
 中世までの日本武士たちの戦衣装には各々が個性ある鎧をつくらせ縅の色使い(デザイン)が多種伝えられています。
 単色で構成される物、三色の国旗(例フランス)のように三色が並ぶ物、上部から下部に向かいグラデーションをなす物・・・。その中の1つに[妻取]と云うスタイルがあります。これは端取(つまとり)とも書き白地の端っこ片方に色を置く物になります。
 この[妻取]を高山の草名に見る事ができます。その名も「ツマトリソウ」。その名の由来だけでも古くから日本に自生していたことが感じられます。
 ツマトリソウは高山で咲いていれば覚えやすい草で、スケッチのように白い花びらが7枚と云う個性派なのであります。
 今ツマトリソウが2000m(高峰高原)の高地で咲く頃合いとなったようであります。ほぼ一か月前1500m(乗鞍高原)で咲いていましたので、1か月かけて500mを登ったようです。季節も夏のピークにさしかかっている。

 今夏は 乗鞍・高峰ともにツマトリソウが沢山見れました(当たり年では?)。
 立った人の目の高さからこの10cm程度の草丈の白花を見ると花びらの7枚はわかっても [妻取]の内容がくみ取れません。次回この花と再会の時はもっと目を花に近づけて観察してみたいです。
 花びらの端が わずかにピンク色の縁がしばしば現れるということです。

2017_0714記
翼をもつセミ

 長野は涼しい。ウメやサクラの開花日において太平洋側との比較では、ウメで一か月、サクラで半月ほど遅いようであります。その中でも信濃川の最深部となる東信:佐久地方はなお遅いのであります。
 冬への入り(ススキの穂だし・イチョウの黄葉etc)は逆に早目になるのは想像の通りでありますが、夏に向かう季節において山国:長野のほうが早く訪れる生物の知らせがあります。それはアブラゼミの初鳴き日で長野は7月中旬に対し東京を含む関東は7月下旬となっています。
 現在地味な鳴き声のニイニイゼミが鳴いています。この辺はアブラゼミよりミンミンゼミのやかましさが盛夏のイメージです。あとわずか後にセミ時雨が梅雨明けを追ってやって来ることでしょう。

 今日のスケッチは、セミちがいのヤマセミです。
 朝の千曲川原散歩の際、増水観測用と思われる対岸に張られたワイヤーにしばらく止まっていました。ほぼ川の中央部で向きを変えたりもしていましたが、川面にダイビングするようなことはなく、やがて対岸の森に飛んでいきました。自分との距離は約20m。初めて時下に見たヤマセミはカワセミのイメージからすると大柄な鳥でありました。

2017_0711記
折り紙のウラは白い

 「いっしょうけんめい」と云う言葉は小さい子でも知っているが、これを漢字で書けるようになったのはいつ頃だったか。
 一生懸命の「一」「生」は現在では小学1年「命」は小学3年で習う字とされている。
 しかし「懸」は小学校では習わない中学で習うとなっています。懸はより大人に近い字になりましょう。
 この懸を使った熟語に懸想(けそう)と云うものがあり、懸想文で「恋文」以前のラブレターを表す言葉だったようです。
 先日1人の小2の女の子が「今日ラブレターもらっちゃった」と突然宣言し間を置かず、そのラブレターを「見せてやる」と言い放った。ラブレターを書いた子の気持ちもあるだろうから「見せなくていいよ」と話すが 一緒に来ていたいたずら盛りの男の子が見せろとばかり受け取っていた。
 そのラブレターは大人には発想できそうもない折り紙のウラに書かれたお手紙であったようでした。
 七夕の頃でありました、星型のお菓子をみなでほうばり見聞きした出来事、その金平糖が今日のスケッチです。


2017_0706記
てるロードを上に見て

 7月に入り雨らしい日が1日と4日にありました。
 1日は梅雨の停滞前線が4日は台風が降らせた雨だったようです。
 ほぼ同じような降り方を感じていたが、雨量としては1日の前線の時の方があったようで、隣地千曲川の水位もその時の方が水嵩が上がったようでした。
 雨にも暖かさに差があるのでしょう、雨の翌日早朝の水温は1日が17℃であったのに対し4日は19℃ありました(6月下旬は18℃ぐらいだった)。結果的に台風が降らせただろう雨の方が千曲川の水温が上昇させたようでした。
 今前線は中国大陸を西の端とし朝鮮半島南端をかすめ日本において中国四国地方を横切り三陸はるか沖まで伸びている。それらの地域は同じような気候を共有してきた文化を持ってきたことでしょう。
 てるてる坊主の風習は中国から伝わってきたと読んだことがあります。シルクロードと云うものがありますが、梅雨時分の天気図を見る時、梅雨前線はてるてる坊主が渡ってきた橋にも見えるわけです。

 今日のスケッチは千曲川の生物、イトトンボ(オオアオイトトンボかも)のヤゴです。
 私がいつも網でしゃくう場所は、ヤゴにおいて、このような細長い体形のものしか見れません。ほとんどが泥色(不透明)のハグロトンボであり、イトトンボはめずらしいです。このイトトンボのヤゴ、ハグロトンボより小ぶりで少し透明感があり、この辺には生えていませんが水草のジュンサイを連想するものでした。清涼感のあるヤゴと感じました。

2017_0702記
お魚も雨の中

 昨日は梅雨入りして初めての本格的な雨となり、千曲川も60~70cmの増水であったようでした。水際の穂を付けていたヨシクサが横倒しになりその葉の下を網で掬えば2cmぐらいのスケッチのような小魚が10匹ぐらい入ってきました。
 いつもはエビたちやカワトンボのヤゴが入るのだが、今朝はいつもより流れがある朝だったことでしょう。
 この掬い上げた小魚がなんなのか見当はつかない。一か月半ほど前コイたちの産卵を同じ水域で2度ほど見ているが、それらの成長した姿ではないのか、はてなである。

 「蛍が今年は当たり年」と先日少し上流部の人が教えてくれました。もう2週間前から出ていると言っていた。それを聞き自分も毎年の蛍鑑賞ポイントに行ってみるとすでに盛りを過ぎかけているのか多くはなかったが、今年の蛍を見たところです。
 ここ3日ほど蚊取線香を焚きました。こんなに連日焚いたのははじめてのこと。関係しているか否かは?だが、家の周りにアシナガバチの巣が見当たらない。
 昨日は雨でありましたが、気温が一日中20度を下回る事はなかった。
 今朝はカワヤナギの林でニイニイゼミの鳴声をはじめて聞いた朝でありました。季節は雨を降らし湿りけの季節を経由し盛夏へと近づいているようです。

2017_0628記
深山の草たち

 ヨモギを庭の一角に生やしている。
 手肌を怪我した時、ヨモギの葉を2~3枚もみ、葉汁がでたところで傷口にバンドエイドなどで固定しておくと、今まであふれるように出ていた血が止まることがある。自分は先端部の若い葉を数枚もらうのが常であります。
 先日も工作用の小型鋸が木片を押さえていた左手薬指にはいってしまい、ヨモギのお世話になったのだった。
 野の草は、大体が雑草扱いで花がきれいなら粗末にされないが、食草や薬草としての用途は一部の人たちの知る所となっています。食草としても野のものは下ごしらえが大変だったり、野菜と同じ量確保しようとするとそれなりの労力が要ります。
 しかし案外、食べれたり薬に出来たりする種類は多いようであります(毒になったりも)。
 今日のスケッチは高原で見た可愛らしいピンク色の花をつけ始めていたベニバナイチヤクソウでありますが、この草はヨモギと同じような止血の薬用があるようです。イチヤクソウは一薬草の字があてられています。

 行商でお世話になった店で食事を頂きましたが、その際(ミヤマ)イラクサのおひたしがオカズに出され美味しい物でした。近在の山でとってきたと話されていました。行商から帰宅しイラクサを調べてみると【イラクサ:棘草】とあり、軍手で採るがいいとなっていた。出されたおひたしはスベスベの舌ざわり、棘をきれいに剥いだものであったことでしょう。

2017_0625記
里のカタバミ

 裏庭で煮炊き(七輪)をしていると、その庭の草花の成長が目に入ります。
 昨週はクルマユリの花の香りが匂いたっていました。
 野外とはいえ、水をひんぱんに蒔いているので裏庭の地表面は硬くしまりうっすらと藻が発生している。その周辺部に様々な雑草が生え、今日のスケッチはその中で今黄色い花を付ける里のカタバミたちの葉になります。カタバミは環境に応じ葉の位置を変化させていることに気づけます。
 夜 葉をたたむことは以前何かで読んだことがありますが、昼でも日なたと日かげでは葉の在り様がことなります。強い日射の時カタバミの葉はたたまり、同時刻でも日かげのものはそのままで過ごしている。雨の時はわたしの思い過ごしかもしれないが葉が持ち上がり気味にも見える。
 それらのカタバミはすらりと立ち上がったカタバミたち。今回カタバミについて調べてみると、地面を這うように花を咲かすタイプと立ち上がり花を咲かすタイプがあることを知りました。古来からのものは地を這うタイプ。立ち上がるものは太平洋戦争後アメリカ駐留由縁の帰化植物ということでオッタチカタバミと名付けられています。裏庭のカタバミを見渡せば9割がオッタチカタバミであとの1割がカタバミに感じます。日なた日かげで葉の配置を変えることはオッタチカタバミで見たものでした。

 古来からのカタバミでの日なた日かげで葉の変化は未調査です。
 戦後72年経とうともしているのですが、長野県内では戦後まもなく軽井沢に米軍が駐留した時期があったようなので、そこら辺りからオッタチカタバミが帰化したことも考えられそうです。日本が大陸へ南洋へと渡った戦前の歴史もあり、大陸・南洋に帰化した日本産の植物・風習もあったのかもしれないです。

2017_0622記
白花シャムロック

 イギリスの隣にアイルランドと云う国があります。
 首都はダブリン。日本が梅雨:雨期に入る頃、その街では最も日照を得られるとなっています。緯度的には北海道のもっと北になるようですが、大西洋の暖流の影響で冬もほとんど氷点下にはならないようです。
 そのアイルランドの国花は「シャムロック」となっています。これは三つ葉の並びをもつ植物の総称のようで、シロツメグサやカタバミがそれに相当するようです。ですから花と云うよりも国の草→国の葉→国または地域をあげて大切にしてきた三つ葉のデザインとなりましょうか。
 アイルランドにキリスト教を広めたパトリックなる聖人がこのシャムロックの三つの葉が一つにつながっていることを教えに取り入れた事が重要な要素となっているようです。
 その聖パトリックの命日がアイルランドの祝日となっていて、その3月17日にはシャムロックを服につけたり、ミサに行ったりすると書かれています。日本と同じ北半球において3月中旬には新葉の季節には早いので冬を越えてきたシャムロックを古くは服につけたのでしょうか。現在はそのデザイン化された衣類・備品を身に着けるのかな・・・

 今日のスケッチは乗鞍高原三本滝への道脇にあったコミヤマカタバミです。雲がかかる夕方の森中にあり見かけた時 葉は開いていましたが、すでにスケッチのように白い花びらをつぼめていました。
 本文アイルランドのシャムロックにカタバミがありましたが、日本でポピュラーな黄色いカタバミでなく白いカタバミがあげられていました。コミヤマカタバミ(小深山カタバミ)はアジアでは一部の分布となっていますが、ヨーロッパでは広範囲の分布となっています。英語での草名はCommon wood sorrelとなっていて「common≒普通にある」が頭についています。ちなみに日本でおなじみの黄色い花のカタバミの分布は世界中に分布となっています。

2017_0619記
キツツキの水辺

 高原の目覚めは、ホトトギスの鳴き声から始まる事が多い。少し遅れてカッコーが鳴きはじめる。
 遮光のシートを張り巡らした車中泊であっても時計無しでも夜明けを感じられる。身支度を整え車中に持ち込んできた自転車にて早朝の高原の散策にでかけたのは4時を少し回った頃だったと思います。自転車を遊歩道入口に置き森に入ると 群生する水芭蕉は花期をすでに過ぎオバケのような大きな葉たちが盛り上がっていました。それを過ぎると山麓の窪地に出来た池に着きました。

 牛留池は標高1,590m、外形は丸めの三角お結び形、その外周は約160m。 その水面には針葉樹を主とした森が映し出され、その森越しに乗鞍の峰々が見えるのですが6月夏至が迫る頃だというのに、まだ沢山の残雪を身にまとっていました。
 その池に近づくとホトトギス・カッコー・ウグイス・名を知らぬ鳥たちの鳴き声に交じり、キツツキが木を突いているのではないかと思うような音が他の鳥たちに劣らない音量で響いてきた。
 「トトトトトトン……」
 池に着くと、そのドラミング風の音が池の2ケ所からステレオで耳に入って来ました。
 まだ5時だというのに少し遅れて3人の家族ずれがやってきて「うちの近くで鳴いているカエルとはちがう鳴き声ね」などと10代後半ぐらいの娘さんに母親が話かけていました。父親はその横で物静かに山と池をながめていた。6月ではあったが日曜日の朝の松本乗鞍高原牛留池で。

 今日のスケッチは木つつきです。
 牛留池から数100mの所に大きな宿泊施設休暇村があるので、そこから早朝の散歩に来た家族ずれだったことでしょう。旅先の解放感や、あどけない家族への思いやりからか、たえず会話が途切れなかったので、先にその水辺のベンチスペースを出、対岸の森中から音声を今一度聞く事をしました。
 私がキツツキと思った声の主はカエルであったようです。モリアオガエルらしいです。私が暮らす千曲川界隈では一か月ほど前シュレーゲルアオガエルが鳴きましたが、それをダイナミックにしたような木を叩くような音。モリアオガエルは森青蛙と書くらしく、水の上の樹上に卵をつくるらしいです。そして適期の雨で落下しオタマジャクシ生活に入るらしい。ここのモリアオガエルたちは牛留池に落ちるのでしょうね。水中から乗鞍岳はどんな風に見えるのか、池は周辺部のミツガシワがわずかに花を残していました。