宗堂桜(岡山県)
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Last updated on 2009/04/18



 人為交配によって作られた桜の園芸品種(サトザクラ)のうち、花弁が普通の桜(5枚)よりもたくさんあって幾重にも重なったように見える品種を総称してヤエザクラ(八重桜)といいます。花弁が格別に多い(100枚以上?)ものを、別にキクザクラ(菊桜)とも呼ぶようです。

 ソウドウザクラ(宗堂桜)は八重桜の一種で、JR山陽本線万富駅(岡山県)近くの宗堂地区で保護、育成されています。花弁は約60枚で、内側の20枚ほどが屈曲反転してカール状になるという特異な性質があり、岡山県の天然記念物に指定されています。花期はソメイヨシノより1週間ほど遅く、見頃は4月15〜20日。山桜と同様に、葉が出てから咲きます。下の写真のうち左の3枚は宗堂桜、右端の1枚は一般的な八重桜(関山?)です。撮影はすべて2008年4月18日。

(写真はクリックすると大きくなります。)

 宗堂桜保存会の資料によると、宗堂桜には次のような悲しい伝説があるそうです。

 今からおよそ380年前寛永の頃、この地、宗堂山の麓には宗堂山妙泉寺(永禄11年建立)があった。この寺の八世住職は、日奥聖人の直弟子で若僧ながら日蓮宗不受不施派の中堅僧「雲哲日鏡」であった。雲哲は大変花が好きで、自分の寺から大門に至る約200mの参道の両側に数10本の八重桜をぎっしりと植えていた。

 春になると菜の花やレンゲ草が野に咲き、山はつつじ・山桜の花咲かりである。寺からは色濃い参道の桜が満開となり平和な宗堂山の里は、一面花に埋もれていた。

 雲哲はこの光景をこよなく愛していた。当時日蓮宗不受不施派は「備前法華」として栄え、その勢力が藩政に障害となりはせぬかと恐れて、藩主池田光政は法華宗に厳しい監視をしていたが、これには目もくれず師日奥から伝えられた宗儀を土地の農家に布教していた。

 なにものも恐れず常に百姓の味方であった雲哲のたくましさに、歳は若いが父のごとく敬い、慈母のように慕われ、土地にはかけがえのない高僧として学徳を積んでいた。

 そのためか天災とか不慮の災厄にかかると、すぐ相談をうけていた。大根の害虫を封じ、湿地のヒルを封じたりし、干ばつの際は雨ごいを行い、直ちに慈雨を降らすなど霊験を随所に現わし、農家には生き仏以上の存在となっていた。こうした霊験がいつのまにか殿様の耳にも達し、監視は、一層厳しくなっていた。

 花の4月、藩主の招きで後楽園の会食に出席した。普通ならば殿様と会食できることもあるまいと雲哲は死を覚悟してその席にのぞんだのである。布教僧雲哲は、予想どおり毒を盛られ、早駕で宗堂山に帰ったが、妙泉寺の参道、雲哲手植えの桜並木までたどりついてコト切れた。

 丁度、桜は花をつけ、やがて咲き揃おうとしていたが、雲哲の死を嘆いたためか、それ以後花びらを開ききらずシボンでしまった。

 この伝説に悪役で登場する池田光政は、水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並んで、江戸時代初期の「三名君」に数えられた人物です。世界で初めて庶民のための学校「閑谷学校」を作る一方、神道を中心にした政策を行い、寺請制度(お寺の檀家制度)を廃止して神道請制度を導入したりしました。国家を認めない日蓮宗不受不施派に対する弾圧も、この方針に沿って行われました。

 我が家の菩提寺(浄土真宗本願寺派)の住職によると、当時の岡山県(備前、美作)では、浄土真宗も、教義がキリスト教に似ているとして、迫害されていたそうです。美作には親鸞の師匠の法然が生まれた誕生寺(久米南町)もあり、一向一揆を警戒していたという側面も考えられます。その影響で、同県には現在も浄土真宗の寺が少なく、独自の教区組織が作れず、兵庫県の教区に属しているとのこと。浄土真宗は、仏教系では日本最大の宗教法人で、末寺は全国で2万に達しますが、岡山県では今でもそのようなありさまだそうです。当時の弾圧の苛酷さが推測できます。

 また、日本三大新宗教(天理教、金光教、黒住教)のうち、神道系のふたつ(金光教と黒住教)がともに岡山県で生まれたということも、光政の神道重視政策と無縁ではないような気がします。

 妙泉寺は約280年前に廃寺となり、参道の桜並木も一時は荒廃しましたが、昭和40(1965)年頃、地元の篤志家が、残存していた数株を母樹として保護し、接木による苗木育成を成功させ、「宗堂桜」は絶滅から救われました。現在は、保存会や地区老人クラブの会員さんなど、宗堂地区住民が一体となって熱心に世話をしておられるそうです。

 この桜の繁殖は極めて困難で、他の土地に移植しても育たないし、もし育っても、花の色が変化して宗堂桜の特徴を現わさないといわれています。

 

【追記】 2009/04/18

 矢田部六人衆及び二十八人衆供養塔

 池田光政による日蓮宗不受不施派弾圧の犠牲者は雲哲だけではありません。岡山県和気郡和気町矢田部にも、寛文(1668)年6月19日(新暦7月27日)に処刑された僧・日閑と信者5人、及び流罪になった信者の家族28人を祀った供養塔があります。和気町指定史跡で所有者は「矢田部六番七番講社」となっています。命日の新暦7月26〜27日には、地元はもちろん各地からの参詣者でにぎわうと聞きました。近場でもあり、機会があれば訪ねてみたいと思っています。
 


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